◇◇◇
食堂には、次々と人が集まってくる。
大人達は緊迫した面持ちで言葉を交わし、同年代の狛人達は不安そうに周囲を見回していた。
その中で千咲は、ひとり壁際にぽつんと立ち尽くしている。
胸の奥が冷たく締めつけられる。周りにはたくさんの人がいるのに、自分だけが、ここから取り残されてしまったような感覚。
「……いやだ」
零れた声は小さく、誰の耳にも届かない。
それでも心の中では、叫ぶように同じ言葉を繰り返していた。
——いやだ、いやだ、いやだ——っ!
彼にもう二度と会えなくなることも。
彼が誰かを傷つけてしまうことも。
そして、彼が親しい人達の手によって殺されてしまうことも。
千咲は両手をぎゅっと握りしめ、ふと、その手を見下ろす。
脳裏にひとつの考えが閃いた。
——記憶に触れれば、元に戻るかも……——。
その可能性に縋るように、千咲は顔を上げ、食堂を出た。
廊下をただ無我夢中で走る。
息が切れ、足音だけがやけに大きく響く。
北側区域へ続く通路の前に辿り着くと、バリケードが築かれ、その前に数人の大人の狛人が立っていた。
「危険だ、戻れ!」
「立ち入り禁止だ!」
飛んでくる制止の声を無視し、千咲はバリケードを飛び越える。
勢いを落とすことなく、そのまま走り続けた。
渡殿に差しかかったとき、鼻を突く生臭い匂いがした。
血の匂いだ。
地面へ降り、匂いを辿る。
やがて、地面に点々と続く血痕を見つけた。それは、北の蔵へと伸びている。
蔵の前で足を止める。扉は開け放たれ、べっとりと赤い手形が残されていた。
胸騒ぎを押し殺し、千咲は中へ入る。
蔵の中にも血が点々と落ち、床の穴へと続いている。
はしごを掴んで降りた際には、薄暗い中で、ぬるりとした感触が手にまとわりついた。
下の方から、苦しげな声が聞こえてくる。
最悪の想像が脳裏を過ぎった。
早くしなければ、手遅れになる前に——と自分を急かす。
地下へ降り立つと、咳き込み、何かを吐き出す音と、荒い息遣いがはっきりと耳に届いた。
震える手で壁を探り、電気のスイッチを入れる。
明かりに照らされて見えたのは、影朧の姿だった。
全身はぼろぼろで、こちらに背を向け、壁に片手をつきながらゴホゴホと咳き込んでいる。
彼の口元から血がボタリと床に落ちた。
ゼェゼェと苦しそうな呼吸が地下に響く。
「四鬼崎さん——」
千咲が名を呼ぶと、影朧はゆっくりと振り返った。
口元は血に汚れ、額から頬にかけて汗が伝っている。
眼差しにはまだ剥き出しの敵意が宿っていたが、部屋で見たときよりも、どこか弱々しかった。
「大丈夫……? 克巳の毒だよね、それ……」
心配の言葉とともに一歩踏み出すと、影朧は警戒するように低く唸り、後ずさる。
「待って。もしかしたら……元に戻せるかもしれないの。だから、手を——」
千咲は両手を前に差し出し、なおも近付こうとする。
途端——バシン、と乾いた音が響いた。
影朧の手が叩きつけられ、鋭い爪が千咲の手を掠める。
「……っ」
遅れてじわりと痛みが広がり、血が滲んだ。
千咲が痛みを噛みしめている間に、彼はよろよろと通路の奥へ歩き出す。
「だめ……! そんな状態で動いたら——」
慌てて追いかける。
影朧の足取りは覚束なく、すぐに距離は縮まった。
その腕を掴もうとしたときだった。
「ガァッ!」
獣じみた吠え声とともに、影朧の腕が勢いよく振るわれる。
鈍い衝撃が頬を打ち、千咲は床に倒れ込んだ。
視界が揺れ、口の中に鉄の味が広がる。
影朧は再び歩き出そうとするが、直後、激しく咳き込み、膝をついた。
ゴフッと吐き出された血が床に落ちる。
非常に痛ましく、胸の奥が抉れる思いだった。
「いやだ……」
頬の痛みに耐えながら、千咲は立ち上がり、影朧の正面へ回り込む。
「私、これ以上……四鬼崎さんが苦しむところ、見たくない」
屈み込み、そっと彼の片手に触れる。
影朧は暴れて振り解こうとするが、千咲は力を込め、離さなかった。
もう片方の手が、千咲の首を強く締め上げる。
「……っ、うぅ……」
死が間近に迫っている。
それでも、千咲は目を逸らさなかった。
「貴方が、好きだから……」
掠れる声で、想いを告げる。
苦しげに息をしながら、千咲は願いを込めて言葉を続ける。
「だから……元に戻って……!」
その想いとともに、彼に霊力を送り込んだ。
食堂には、次々と人が集まってくる。
大人達は緊迫した面持ちで言葉を交わし、同年代の狛人達は不安そうに周囲を見回していた。
その中で千咲は、ひとり壁際にぽつんと立ち尽くしている。
胸の奥が冷たく締めつけられる。周りにはたくさんの人がいるのに、自分だけが、ここから取り残されてしまったような感覚。
「……いやだ」
零れた声は小さく、誰の耳にも届かない。
それでも心の中では、叫ぶように同じ言葉を繰り返していた。
——いやだ、いやだ、いやだ——っ!
彼にもう二度と会えなくなることも。
彼が誰かを傷つけてしまうことも。
そして、彼が親しい人達の手によって殺されてしまうことも。
千咲は両手をぎゅっと握りしめ、ふと、その手を見下ろす。
脳裏にひとつの考えが閃いた。
——記憶に触れれば、元に戻るかも……——。
その可能性に縋るように、千咲は顔を上げ、食堂を出た。
廊下をただ無我夢中で走る。
息が切れ、足音だけがやけに大きく響く。
北側区域へ続く通路の前に辿り着くと、バリケードが築かれ、その前に数人の大人の狛人が立っていた。
「危険だ、戻れ!」
「立ち入り禁止だ!」
飛んでくる制止の声を無視し、千咲はバリケードを飛び越える。
勢いを落とすことなく、そのまま走り続けた。
渡殿に差しかかったとき、鼻を突く生臭い匂いがした。
血の匂いだ。
地面へ降り、匂いを辿る。
やがて、地面に点々と続く血痕を見つけた。それは、北の蔵へと伸びている。
蔵の前で足を止める。扉は開け放たれ、べっとりと赤い手形が残されていた。
胸騒ぎを押し殺し、千咲は中へ入る。
蔵の中にも血が点々と落ち、床の穴へと続いている。
はしごを掴んで降りた際には、薄暗い中で、ぬるりとした感触が手にまとわりついた。
下の方から、苦しげな声が聞こえてくる。
最悪の想像が脳裏を過ぎった。
早くしなければ、手遅れになる前に——と自分を急かす。
地下へ降り立つと、咳き込み、何かを吐き出す音と、荒い息遣いがはっきりと耳に届いた。
震える手で壁を探り、電気のスイッチを入れる。
明かりに照らされて見えたのは、影朧の姿だった。
全身はぼろぼろで、こちらに背を向け、壁に片手をつきながらゴホゴホと咳き込んでいる。
彼の口元から血がボタリと床に落ちた。
ゼェゼェと苦しそうな呼吸が地下に響く。
「四鬼崎さん——」
千咲が名を呼ぶと、影朧はゆっくりと振り返った。
口元は血に汚れ、額から頬にかけて汗が伝っている。
眼差しにはまだ剥き出しの敵意が宿っていたが、部屋で見たときよりも、どこか弱々しかった。
「大丈夫……? 克巳の毒だよね、それ……」
心配の言葉とともに一歩踏み出すと、影朧は警戒するように低く唸り、後ずさる。
「待って。もしかしたら……元に戻せるかもしれないの。だから、手を——」
千咲は両手を前に差し出し、なおも近付こうとする。
途端——バシン、と乾いた音が響いた。
影朧の手が叩きつけられ、鋭い爪が千咲の手を掠める。
「……っ」
遅れてじわりと痛みが広がり、血が滲んだ。
千咲が痛みを噛みしめている間に、彼はよろよろと通路の奥へ歩き出す。
「だめ……! そんな状態で動いたら——」
慌てて追いかける。
影朧の足取りは覚束なく、すぐに距離は縮まった。
その腕を掴もうとしたときだった。
「ガァッ!」
獣じみた吠え声とともに、影朧の腕が勢いよく振るわれる。
鈍い衝撃が頬を打ち、千咲は床に倒れ込んだ。
視界が揺れ、口の中に鉄の味が広がる。
影朧は再び歩き出そうとするが、直後、激しく咳き込み、膝をついた。
ゴフッと吐き出された血が床に落ちる。
非常に痛ましく、胸の奥が抉れる思いだった。
「いやだ……」
頬の痛みに耐えながら、千咲は立ち上がり、影朧の正面へ回り込む。
「私、これ以上……四鬼崎さんが苦しむところ、見たくない」
屈み込み、そっと彼の片手に触れる。
影朧は暴れて振り解こうとするが、千咲は力を込め、離さなかった。
もう片方の手が、千咲の首を強く締め上げる。
「……っ、うぅ……」
死が間近に迫っている。
それでも、千咲は目を逸らさなかった。
「貴方が、好きだから……」
掠れる声で、想いを告げる。
苦しげに息をしながら、千咲は願いを込めて言葉を続ける。
「だから……元に戻って……!」
その想いとともに、彼に霊力を送り込んだ。


