犬神少女とカゲロウ鬼

 ◇◇◇

『響牙さん、何か欲しいものはありますか?』

 現世での仕事がようやく片付き、これから戻ると影朧に電話したときのことだ。
 もうすぐ消えるかもしれない——そう説明を受けた後で、彼は静かに尋ねてきた。
 今まで世話になったから、そのお礼に、と。

 少し考えてから、響牙はバッグが欲しいと答えた。

 お土産にチョコレートを買ってきたから、帰ったら一緒に食べようと伝えると、彼は嬉しそうに、けれど少し泣きそうな声で「はい」と返してきた。

 これが、ほんの数時間前のやりとりである。

 ◇

 ひどい有り様だった。

 廊下の壁や床の至るところに血が飛び散り、深い刀傷が刻まれている。
 数人の仲間が重傷を負って倒れていたが、軽く確認した限り、全員まだ息はあった。

 部屋の襖は無惨にも斬り裂かれ、床に落ちている。中を覗けば、そこも同様に荒れ果てていた。

 その惨状の中央で、一匹の大蛇が、太いロープのように床へ横たわっている。
 身体のあちこちに走る生傷が、戦いの激しさを物語っていて痛々しい。

 影朧の姿は、どこにもなかった。

 響牙は屈み込み、克巳の顔にそっと手を近付ける。微かな呼吸を感じ取り、安堵の息を漏らした。
 ふと視界に入ったのは、床に落ちていた赤い犬のキーホルダー。千咲が言っていたのは、おそらくこれのことだろうと拾い上げる。

「ゔぅ……」
 微かな唸り声とともに、克巳が目を開けた。

「大丈夫?」
「ああ……なんとか……。——悪い、逃した」
 掠れた声で、申し訳なさそうに告げる。

「いいよ。まだそんなに遠くへは行ってないと思うから」
 言った後に立ち上がり、影朧を探しに行こうとした直後、克巳に呼び止められた。

「……毒、使った」
 躊躇いがちに、彼は続ける。

「暴れてたから、注入できたのは少しだけだ。効果が出るまで時間がかかる。致死量じゃない……だから、その分、長く苦しむことになる。——できるだけ苦しませず、楽にしてやってくれ」

 その言葉を受け、響牙は僅かに唇を噛む。
「——分かった」
 短く答えると、克巳は安心したように目を閉じた。

 響牙は部屋を出て、鼻をひくりと動かす。
「あっちか」
 影朧の匂いを辿り、廊下を疾走した。



 匂いを追って、縁側へ出た。
 庭に面した外は、すでに夕暮れに染まり、世界は橙色の光に包まれている。

 ——いた。

 ボロボロの状態の影朧が、そこに立っていた。
 軍服は裂け、赤い肌にはあちこちに深い傷が刻まれている。
 太刀を握り締めたまま、背を向けてふらふらと歩くその姿は、まるで現世を彷徨う亡霊のようだった。

「影朧」
 名を呼ぶと、彼はゆっくりと振り返る。
 向けられた視線は刃のように鋭く、隠しきれない殺意を孕んでいた。

 それでも響牙は臆することなく、一歩踏み出す。
「久しぶり。——私のこと、分かる?」

 処分対象に向ける声ではない。
 そこにあったのは、いつもと同じ、弟のように想う相手へ向ける態度だった。

 影朧は歯を剥き出しにし、「ヴゥ」と低く唸る。

 ——すぐには襲ってこない……。
 克巳達にトドメを刺さなかったことも鑑みて、響牙は微かな希望を胸に、言葉を重ねた。

「まだ……戻れるんじゃない? 完全に自我がなくなったわけじゃないでしょう?」
 言いながら、上着のポケットへ手を伸ばす。
 途端、影朧が刀を構えた。

「私も、君にこんな最期迎えてほしくない」
 響牙はポケットから、赤い犬のキーホルダーを取り出す。
「千咲ちゃんだって——」

 言葉の途中で、影朧が動きだす。
 一気に距離を詰められ、真正面から殺気を叩きつけられた。

 響牙は後ろに飛び退きながら、即座に墨犬を繰り出す。
 墨犬が影朧に体当たりするように食らいつき、もつれるようにして床へ倒れ込んだ。
 噛みついたのは、太刀を握る右腕。牙が食い込み、血が流れる。

「ああ、やっぱり——」
 響牙は小さく息を吐く。
 その声には、落胆と諦観が滲んでいた。
 墨犬が影朧を押さえ込んでいる隙に、キーホルダーをポケットへ戻し、空間から自身の太刀を出現させる。

「だめか」
 瞳に宿るは、情を断ち切り研ぎ澄まされた戦意。
 抜刀と同時に踏み込み、影朧へ斬りかかる。

 影朧は上体を起こし、荒々しく墨犬を振り払う。
 犬は霧散。その後すぐさま、響牙の刃を転がるようにして回避、庭の中央へと距離を取った。

 庭での戦いは、息をつく間もなかった。
 太刀と太刀がぶつかり合い、金属音が夕暮れの空気を裂く。
 影朧の一撃は重く、荒々しい。それでも無駄がなく、鬼としての本能と剣技が融合していた。

 響牙は紙一重で攻撃を避けながら、確実に刃を入れていく。肩、脇腹、脚——浅くとも確実に傷を重ねる。
 その度に、影朧の動きが僅かに鈍っていった。
 だが、それは響牙も同じ。
 全ての攻撃を捌ききれるわけではない。彼女の身体にも赤い線が刻まれていく。
 互いに血を流しながら、消耗だけが積み重なっていった。

 やがて、影朧が不意に動きを止める。
「——っ……ゲホッ」
 苦しそうに咳き込み、口元から血を吐き出した。

 ——毒が回ってきたか。

 影朧は太刀から力なく手を離し、膝をつく。
 血がぼたぼたと地面に落ちていく。

 響牙はゆっくりと近付き、影朧の得物を蹴って遠くへ弾き飛ばした。
 そして自身の太刀を構え、その首元へと切っ先を向ける。
 目を細め、胸の奥に滲み出る痛みを噛み殺す。
 迷いは捨てたつもりでも、弟のように想ってきた存在を前に、心が僅かに軋んだ。

 だが、それでも——。
 ここで終わらせなければならない。

「——さよなら、影朧」
 刀を振り下ろそうとした、そのときだった。

 影朧が咆哮とともに、残った力を振り絞り、全身で突進してきたのだ。
 ぶつかられた衝撃で、響牙は大きく吹き飛ばされ、縁側の柱に後頭部を強かに打ちつける。

 ごん、と鈍い音。
 一瞬、視界が暗転する。

 次に意識を取り戻したときには、庭に影朧の姿はなかった。
 彼の太刀だけが、主を失ったまま地面に転がっている。

 そして、遠くへと続く血の跡が、点々と残されていた。
 未だ鈍痛が響く頭を軽く振った後、響牙はその痕跡を追って、再び走り出した。