犬神少女とカゲロウ鬼

 影朧を含む男性狛人達の寝室は、北側の区域にまとめられている。
 再び足を踏み入れたその一帯は、まだ皆が活動している時間帯のためか、人の気配がほとんどなかった。

 ——もう、会えないのなら。
 廊下を進みながら、千咲は心の中で呟く。
 ——せめて、好きって伝えたい。

 影朧の部屋まであと少し、というところで、勢いよく襖が開いた。
 飛び出してきたのは克巳だった。顔には、明らかな焦りが浮かんでいる。

「——まさか……」
 響牙がその表情を見て、何かを察したように小さく目を見開く。
 克巳は何も言わず、ただ一度、重く頷いた。そして無言で中へ入るよう、二人を促す。

 胸騒ぎを覚えながら、千咲は響牙の後に続いて部屋へと足を踏み入れた。

 真っ先に目に飛び込んできたのは、布団の上で苦しげに呻く影朧の姿だった。
 掛け布団は無造作に脇へ押しやられ、彼の全身が露わになっている。

 その身体は、すぐにでも消えてしまいそうなほどに、輪郭が激しく揺らぎ、ひどく薄くなっていた。
「四鬼崎さん……!」
 千咲は声を上げ駆け寄る。
 ——そんな……まだ気持ちを伝えてないのに……っ。

「おかしい……いくらなんでも、早過ぎる……」
 背後で、響牙が戸惑いを隠せない声を漏らす。
 その言葉を耳にしながら、千咲の視線はふと、影朧の胸元に引き寄せられた。

 そこに刻まれていた勾玉の紋様。
 薄れゆく身体とは対照的に、それだけが異様なほど強く光を放っている。だが、よく見ると、その表面には細かなヒビが走っていた。

 怪訝に見つめる間にも、ヒビはさらに増え、広がっていく。
 ピシ、ピシ、と不吉な音が響き——次の瞬間。

 パリン、と。
 弾けるように砕け散り、紋様は跡形もなく消え失せた。
 それと同時に、陽炎のように揺らいでいた影朧の身体が、ふっと実体を取り戻す。

「……嘘だろ」
 一体、何が起きたのか。
 理解が追いつかず呆然とする千咲の背後から、克巳の困惑した声が転がってきた。

 振り返ると、克巳と響牙は揃って顔色を失っている。
「神晶石の制御が破れ——」
 響牙が言い切る前に、部屋の空気が一変した。

 殺気——。
 
 それを、千咲は背中で感じ取った。
 直後、響牙にぐいっと強く腕を引かれ、身体が前に引き倒される。

 彼女に身体を預ける、その間際。
 背中を、ひやりとした何かが掠めた。

 思わず首を捻って見やる。
 そこにあったのは、赤く染まった手に生えた、鋭利な爪。

 影朧のものだ。

 先程まで人の姿だったはずの彼は、鬼へと変じていた。
 戦慄するほどの、濃密な敵意を向けて。

 事態が飲み込めず、目の前の光景がスローモーションのように映る。

 ――なんで……?
 いくつもの疑問が浮かぶ。

 なんで彼は妖怪の姿になっているのだろう。
 なんで自分に攻撃したのだろう。
 なんでそんな怖い顔をしているのだろう。

 なんで、なんで。
 これではまるで——。

「暴走だ!!」
 襖を開け放ち叫ぶ響牙の声で我に返る。

 気付けば、影朧は大蛇の姿となった克巳に拘束されていた。
 それでも影朧は暴れ、鋭い爪を克巳の胴へと食い込ませる。
 そこに、いつもの理知的で穏やかな面影はない。
 ただ、獰猛な獣のような表情だけがあった。

 克巳は苦悶に顔を歪めながらも、さらに力を込め、影朧を締め付ける。

「暴走が起きた! 皆今すぐ逃げろー!!」
 周囲に避難を促す響牙に、千咲は強く抱き上げられる。

 背後では、影朧がなおも激しく暴れていた。
 机に体当たりし、置かれていた物が次々と床へ落ちる。

 バサリ、と本が散らばる音。
 ケースの中にあった眼鏡が割れる音。
 そして――赤い犬のキーホルダーが、軽い音を立て床に転がり、影朧の足元で止まる。

 そこで、影朧の動きがぴたりと止んだ。
 彼の視線はただ一つ、床に落ちたキーホルダーに注がれていた。

 千咲は響牙に抱えられたまま、部屋を後にする。
 その間際、影朧の表情に、確かに理性の色が戻ったような気がした。

 入れ替わるように、騒ぎを聞きつけた大人達が次々と部屋へ駆け込んでいく。

「待って!!」
 千咲の叫びは、押し寄せる足音と怒号にかき消された。

 影朧からどんどん遠のいていき、室内の喧騒だけが、更に大きくなっていく。

「一体何が起きたの!?」
 震えた声で響牙に尋ねる。
「影朧の鬼の血が神晶石の制御を破った!」
 足を止めることなく、響牙は短く答えた。

「それって……」
 嫌な予感が、はっきりと形を持って胸を締めつける。
「……血が想定以上に強まっている。再度接続したところで、たぶんもう制御不可能だ。こうなってしまった以上は——」

 その先を聞く前に、千咲の顔から血の気が引いた。
 このままでは――影朧は、殺されてしまう。



 食堂に辿り着いたところで、千咲はようやく響牙の腕から解放された。
 足が地についた途端、現実が一気に押し寄せてくる。

 響牙はすぐさまその場にいた大人達へ向き直り、状況の説明を始めた。
「北区域に近付かないよう、放送を流して」
 近くにいた一人に、短く的確に指示を出す。

「響牙ちゃん……」
 周囲と慌ただしく言葉を交わす彼女の背に、千咲はおずおずと声をかけた。

「四鬼崎さん……キーホルダーを見たとき、少しだけ……いつもの四鬼崎さんに戻った気がしたの。だから……だから……」
 それ以上、言葉が続かなかった。
 願いと希望と恐怖が、喉の奥で絡まってしまう。

 響牙は、ゆっくりと千咲から視線を逸らした。
「……狛人である以上、神晶の社(ここ)の——神晶石の安全が、何よりも最優先だ」

 やはり、聞き入れてはくれない。
 分かっている。
 頭では、痛いほど理解している。
 それでも、彼を殺さないでほしい——。

 俯く千咲に響牙は歩み寄り、そっと腕を伸ばして抱き締めてきた。
「……ごめんね」
 短く告げて、彼女は離れていく。

「人を集めて。対象が他の区域に侵入しないよう、区間の通路を封鎖して」
 次々と指示を飛ばしながら、響牙の姿が変わっていく。
 全身に黒い毛が生え、尾が現れ、鼻梁が伸び、耳は頭の上へと移動する。
 装いも紺の軍服へと変わり、頭上に現れた軍帽を深く被った。

「私は先に現場へ向かう」
 犬神の姿となった響牙は、振り返ることなく、そのまま食堂を後にした。

 残された千咲は、ただ立ち尽くすしかなかった。