影朧の部屋に足を踏み入れるのは、これが初めてだった。
思っていた以上に物が少なく、生活の痕跡はほとんどない。
部屋の端に置かれた机。その上には、先日二人で出かけた際に買った本と、赤い犬のキーホルダーが並べられていた。それだけが、この部屋に残された彼の日常のように見える。
影朧は、布団の中で静かに眠っている。
あのあと、克巳がここまで運んできたのだ。
克巳は影朧の顔を覗き込み、そっと眼鏡を外すと、眼鏡ケースに収めて机の上へ置いた。
千咲は布団の脇に腰を下ろし、眠る影朧を見つめる。
「……さっきの、あれ。何があったの?」
問いかけても、克巳は背を向けたまま、黙り込むだけだった。
張りつめた沈黙を破ったのは、掠れた声だった。
「——神晶石との、接続の代償です」
その声に、千咲ははっと息を呑み、影朧の方を向く。
ゆっくりと上体を起こす彼。
まだ顔色は優れず、呼吸も浅い。
「大丈夫……? 無理しないで」
千咲は思わず身を乗り出し、声をかける。
その様子を見て、克巳が慌てて影朧のもとへ駆け寄った。
「……代償って、どういうこと?」
震えを抑えきれないまま、千咲は問いかける。
「それは——」
「影朧」
影朧が言いかけたそのとき、低く、制するような声で克巳が彼の名を呼んだ。
その視線に気圧されたのか、影朧は一瞬言葉を詰まらせるも、「克巳さん」と力なく口を開く。
「これ以上、誤魔化すのは無理です。……それに、狗紙さんには、真実を話したい」
影朧はゆっくりと千咲の方へ視線を向ける。
しばしの沈黙の後、克巳は小さく息を吐き、ゆっくりと一歩引いた。
「ありがとうございます」
影朧は克巳に向けて、どこか力の抜けた笑みを浮かべた。
それから自分の襟元に手をかけ、ひとつ、またひとつとシャツのボタンを外していく。
露わになった胸元には、淡く光を宿す勾玉模様が刻まれていた。
それは、神晶石を思わせる神秘的な紋様だった。
「それ、なに……?」
千咲の声に、影朧は一度だけ小さく息を吸う。
「神晶石には、狛人に流れる妖怪の血を抑える力があります。僕は――鬼の血が、あまりにも濃すぎるんです」
静かな声音で、影朧は語り始めた。
「放っておけば、いずれ理性を失って暴走する。その危険がある。だから神晶石と接続して、力を抑え込んでいるんです。——これはその印です」
胸元の紋様に、そっと指先を添える。
「けれど……この状態が長く続けば、神晶石に引きずられる。近いうちに、僕は神晶石と同化してしまうでしょう」
千咲は息を吸うことすら忘れ、喉の奥がひくりと引きつる。
「同化するって……消えちゃうってこと……?」
震える声で問いかけると、影朧は静かに一度だけ頷く。
「……思ってたより進行が早い。おそらく、明日には……」
克巳の言葉に、視界の端がじわりと滲む。
今目の前にいる影朧は確かに存在するのに、その輪郭が、今にも溶けて消えてしまいそうに見えて、千咲は思わず拳を握りしめた。
少し間を置いてから、影朧は視線を落とす。
「……生まれてから、ほとんどの時間をあの蔵の地下で過ごしてきました。接続していても、暴走の可能性が完全になくなるわけではなかったので。でも最近、ようやく精神が安定してきたと判断されて……地上での暮らしを、許可されたんです」
千咲の脳裏に一つの光景がよみがえった。
あの日、偶然目にした日記——。
あれはきっと、彼が書いたものだったのだ。
「……なんとか、ならないの?」
縋るような声が零れる。
「こればっかりは……どうにもなりません」
影朧は淡々とそう告げる。けれど、その声音には、覚悟が滲んでいた。
「——これでいいんです。短い時間でしたが……自由を謳歌できましたから」
諦観を孕んだ微笑みが、唇に浮かぶ。
千咲の胸がぎゅっと締め付けられる。
いつも穏やかな表情の裏で、彼は最初から「終わり」を受け入れていた。
その事実が、悲しくて、胸の奥を鋭く抉った。
「私は……」
言葉にしようとした途端、胸の奥に溜め込んでいた感情が、一気にせり上がってきた。
「私は……やだよ」
それ以上は耐えられなかった。
千咲は勢いよく部屋を飛び出す。
「千咲!」
克巳の呼ぶ声が背後から届いたが、振り返らない。
あのままあそこにいれば、悲しみも怒りも、どうしようもない想いも――全部が爆発してしまう。
息を切らし、自室に辿り着いた途端、張り詰めていたものが切れた。
ぽろり、ぽろりと涙が零れ落ちる。
千咲は床に座り込み、膝を抱え込んで、声を殺して泣いた。
思っていた以上に物が少なく、生活の痕跡はほとんどない。
部屋の端に置かれた机。その上には、先日二人で出かけた際に買った本と、赤い犬のキーホルダーが並べられていた。それだけが、この部屋に残された彼の日常のように見える。
影朧は、布団の中で静かに眠っている。
あのあと、克巳がここまで運んできたのだ。
克巳は影朧の顔を覗き込み、そっと眼鏡を外すと、眼鏡ケースに収めて机の上へ置いた。
千咲は布団の脇に腰を下ろし、眠る影朧を見つめる。
「……さっきの、あれ。何があったの?」
問いかけても、克巳は背を向けたまま、黙り込むだけだった。
張りつめた沈黙を破ったのは、掠れた声だった。
「——神晶石との、接続の代償です」
その声に、千咲ははっと息を呑み、影朧の方を向く。
ゆっくりと上体を起こす彼。
まだ顔色は優れず、呼吸も浅い。
「大丈夫……? 無理しないで」
千咲は思わず身を乗り出し、声をかける。
その様子を見て、克巳が慌てて影朧のもとへ駆け寄った。
「……代償って、どういうこと?」
震えを抑えきれないまま、千咲は問いかける。
「それは——」
「影朧」
影朧が言いかけたそのとき、低く、制するような声で克巳が彼の名を呼んだ。
その視線に気圧されたのか、影朧は一瞬言葉を詰まらせるも、「克巳さん」と力なく口を開く。
「これ以上、誤魔化すのは無理です。……それに、狗紙さんには、真実を話したい」
影朧はゆっくりと千咲の方へ視線を向ける。
しばしの沈黙の後、克巳は小さく息を吐き、ゆっくりと一歩引いた。
「ありがとうございます」
影朧は克巳に向けて、どこか力の抜けた笑みを浮かべた。
それから自分の襟元に手をかけ、ひとつ、またひとつとシャツのボタンを外していく。
露わになった胸元には、淡く光を宿す勾玉模様が刻まれていた。
それは、神晶石を思わせる神秘的な紋様だった。
「それ、なに……?」
千咲の声に、影朧は一度だけ小さく息を吸う。
「神晶石には、狛人に流れる妖怪の血を抑える力があります。僕は――鬼の血が、あまりにも濃すぎるんです」
静かな声音で、影朧は語り始めた。
「放っておけば、いずれ理性を失って暴走する。その危険がある。だから神晶石と接続して、力を抑え込んでいるんです。——これはその印です」
胸元の紋様に、そっと指先を添える。
「けれど……この状態が長く続けば、神晶石に引きずられる。近いうちに、僕は神晶石と同化してしまうでしょう」
千咲は息を吸うことすら忘れ、喉の奥がひくりと引きつる。
「同化するって……消えちゃうってこと……?」
震える声で問いかけると、影朧は静かに一度だけ頷く。
「……思ってたより進行が早い。おそらく、明日には……」
克巳の言葉に、視界の端がじわりと滲む。
今目の前にいる影朧は確かに存在するのに、その輪郭が、今にも溶けて消えてしまいそうに見えて、千咲は思わず拳を握りしめた。
少し間を置いてから、影朧は視線を落とす。
「……生まれてから、ほとんどの時間をあの蔵の地下で過ごしてきました。接続していても、暴走の可能性が完全になくなるわけではなかったので。でも最近、ようやく精神が安定してきたと判断されて……地上での暮らしを、許可されたんです」
千咲の脳裏に一つの光景がよみがえった。
あの日、偶然目にした日記——。
あれはきっと、彼が書いたものだったのだ。
「……なんとか、ならないの?」
縋るような声が零れる。
「こればっかりは……どうにもなりません」
影朧は淡々とそう告げる。けれど、その声音には、覚悟が滲んでいた。
「——これでいいんです。短い時間でしたが……自由を謳歌できましたから」
諦観を孕んだ微笑みが、唇に浮かぶ。
千咲の胸がぎゅっと締め付けられる。
いつも穏やかな表情の裏で、彼は最初から「終わり」を受け入れていた。
その事実が、悲しくて、胸の奥を鋭く抉った。
「私は……」
言葉にしようとした途端、胸の奥に溜め込んでいた感情が、一気にせり上がってきた。
「私は……やだよ」
それ以上は耐えられなかった。
千咲は勢いよく部屋を飛び出す。
「千咲!」
克巳の呼ぶ声が背後から届いたが、振り返らない。
あのままあそこにいれば、悲しみも怒りも、どうしようもない想いも――全部が爆発してしまう。
息を切らし、自室に辿り着いた途端、張り詰めていたものが切れた。
ぽろり、ぽろりと涙が零れ落ちる。
千咲は床に座り込み、膝を抱え込んで、声を殺して泣いた。


