犬神少女とカゲロウ鬼

 外へ向かう途中、静かな廊下を歩いていた時だった。
 ふと、物置部屋の前を通りかかったとき——。
 リップ音と、艶のある声が漏れ聞こえてきた。
「……邦彦さん」
 思わず千咲の足が止まる。

「ねぇ邦彦さん、こんなこと言うのは今更だけど……本当に私でいいの? 名家のご令嬢との婚約を破棄してまで、私にそんな価値があるとは思えないけど」
「家柄なんて関係ないよ。俺は……君がいいんだ」
「まあっ、そんなふうに言ってくれるなんて……とても嬉しいわ」
 ちゅ、とまた一つキスの音が挟まる。
「それにさ。千咲は何考えてるか分からなくて不気味だし、〝狛人(こまびと)〟だし……。——化け物より、君みたいな普通の子の方がずっと良い」

 扉越しの、甘く濡れた声。
 千咲の心にすとん、と影が落ちる。

 ——……あぁ、そうだったんだ。
 仲が良いと思っていたのは、自分だけ。
 その事実が、じわじわと恥ずかしさとやるせなさになって胸を刺す。

 ——結局、あの頃から何も変わらない。
 幼い頃から抱え続けてきた、諦めのような痛みがまたひとつ増える。
 千咲はそっと目を伏せた。

 仕事に行かなければ。
 気持ちは重いまま。
 けれど、歩みを止めるわけにはいかない。
 暗い廊下をひとり歩き出す。

 ◇

 神晶の社は、まるで平安貴族の邸のように、いくつもの住居が渡殿で結ばれた広大な造りになっている。
 その広さ故、見回りは区域を分担して行われていた。

 千咲は本日、北側一帯の担当だ。
 塀に沿って歩くこと数時間。

 ——もうすぐお昼……。今日はこのまま平和に終わるかな。

 ぼうっと空を見ながら思った直後。
 ぞり、と空気が揺れた。
 嫌な気配が背筋を撫でる。

 地中から現れたのは、人の背丈を遥かに超える巨大なムカデだった。
 うねり、軋み、毒気を帯びた黒い体が地を這う。

 ぼんやりとしていた表情が、一瞬で戦意に満ちた鋭いものへと変わる。
 そして——。

 千咲の身体の輪郭が揺らぎ始めた。
 風が頬を撫でる。次の瞬間、黒い毛がざわりと生えた。

 毛は音もなく広がっていく。
 肩を包み、背を撫で、手と足の先にまで滲むように染み渡る。
 そして尾骨の辺りからブワリと尻尾が生えた。

 痛みはない。
 ただ、形がゆっくりと移り変わっていく。
 頬の線が柔らかく崩れ、鼻梁が伸び、耳は横から頭の上へ。
 顔が犬の形に静かに組み替えられていった。
 指先に力が宿る。
 爪が、空気を切り裂けるほどに鋭く伸びる。

 変化は終わりではない。
 服装は白の着物と黒の袴姿に。
 人間の少女の面影はない。唯一変わっていないのは、背中まで伸ばした黒髪くらい。

 手から墨が溢れ出る。
 形成された墨犬が、大ムカデの喉笛に噛みついた。
 異形の悲鳴が鼓膜を震わせる。
 大ムカデの形が黒い塵となって崩れていく。
 墨犬は満足げに揺れ、千影の体内に還っていった。。
 何もなかったかのように、世界に静寂が戻る。

 この姿、この力——。
 千咲の身体には、犬神の血が流れている。

 退魔師の中には、古くから妖怪の血を受け継ぐ家系が存在する。
 そしてその血をとりわけ濃く受け継いで生まれる者は、狛人と呼ばれていた。

 ここは狭間の世界にある神晶の社。
 神晶石を守り、その力を維持することを使命とする狛人達が暮らす場所だ。