犬神少女とカゲロウ鬼

 ◇

 狭間の世界は、どこまでも自然に満ちている。
 神晶の社と、その周囲に寄り添うように存在する商店街や住宅地を除けば、目に入るのは山々と森、そして風に揺れる草木ばかりだ。人の手が加わった人工物は、ほとんど見当たらない。

 目的地である東の渓谷へ近付くにつれ、空気がひんやりと湿り気を帯びていく。
 切り立った岩壁の合間を、澄んだ川が音を立てて流れており、そのせせらぎが谷全体に響いていた。水面は陽の光を反射してきらきらと輝き、深い緑と相まって、どこか神秘的な雰囲気を漂わせている。

 やがて三人は、渓谷の奥へと辿り着いた。
 岩陰に身を潜め、慎重に様子を窺う。

 そこには、焚き火を囲んでくつろぐ鬼が五体。
 炎に照らされて揺れる影の中、一体だけ、他の個体よりもひと回り大きな鬼が悠然と腰を下ろしていた。

 岩陰に隠れたまま、克巳が低い声で影朧に尋ねる。
「影朧、あのデカいの、いけるか?」
「問題ありません」
 即答だった。
「よし。じゃあ俺と千咲で、周りの小さい奴を片付ける」
「分かった」
 千咲も頷く。

 短い作戦会議を終えると、三人は同時に妖怪の姿へと変化した。
 千咲は着物姿の黒い犬神に。
 影朧は軍服を纏った赤い鬼に。
 克巳は巨体の白い大蛇に。

 千咲が墨を散らす。墨は犬の形を取り、一体の鬼へと噛みついた。
 その気配に、他の鬼たちが一斉にこちらへ振り向き、武器を手にして突進してくる。

 影朧は巨躯の鬼へ一直線に駆け寄った。
 同時に、克巳は別の鬼の身体に巻きつき、鋭い牙を突き立てる。
「ギィッ……!」
 鬼が血を吐いて悶えた。克巳の牙には毒がある。苦しむ鬼を放り出し、克巳はすぐさま次の一体へと向かった。

 一方、影朧は金棒を手にした巨躯の鬼と応戦中。
 振り下ろされる一撃をかわしながら、確実に損傷を与えていく。
 しかし戦闘の最中(さなか)、毒に侵された鬼が横からぶつかってきた。
「っ——!?」
 体勢を崩し、ばしゃりと音を立て川に倒れる影朧。その頭上に、巨躯の鬼の金棒が振り上げられる。

「四鬼崎さんっ!」
 千咲は叫び、墨犬を放とうとするが——間に合わない。

 次の瞬間。
 影朧の身体が、ふっと輪郭を失い、透ける。
 金棒は空を切った。

 ——え?

 驚く千咲の視界の中で、影朧の身体はすぐに実体を取り戻す。
 そして、巨躯の鬼の懐へ踏み込み、渾身の一撃を叩き込んだ。

 轟音とともに、鬼は崩れ落ちる。
 やがて、すべての鬼が塵となって消えた。

 戦いが終わった直後、影朧はその場に膝をつく。
「おい、大丈夫か!」
 白蛇の姿のまま、克巳が慌てて駆け寄った。

「——今の、なに?」

 思わず声が漏れると、影朧と克巳が同時にこちらを振り向いた。
「……なんのことでしょうか?」
 影朧が僅かに言葉を詰まらせる。明らかに狼狽していた。

「身体、透けてた。幽霊みたいに」
 千咲の指摘に、克巳が慌てた様子で口を挟む。
「き、気のせいだって! そんなことあるはずが——」
「気のせいじゃない! 本当に透けてた!」

 思わず声を荒らげる。こんなに感情を露わにしたのは、いつ以来だろう。
「今まで見間違いだと思ってたけど……でも……」

「狗紙さん、落ち着いてください」
 影朧はいつもよりぎこちない笑顔を作り、ゆっくりと立ち上がった。
「ほら、どこも異常なんて——」

 その言葉を遮るように、カラン、と乾いた音が響く。
 影朧の手にあったはずの太刀が、地面に転がったのだ。

 先ほどまで柄を握っていた手は、陽炎のように揺らぎ、実体を失っている。
 それは瞬く間に腕へ、胴へと広がり、全身が半透明になった。

「ぐぅ……っ」
 影朧は苦しげに息を詰め、膝をついてうずくまる。

「影朧!」
 克巳は咄嗟に人の姿へ戻り、手を伸ばす。だが——その手は、影朧の身体をすり抜けた。

 千咲の胸が、ひゅっと凍りつく。
 現実を受け止めきれず、言葉も出ない。

 数秒後。
 影朧の身体はふっと実体を取り戻し、人の姿へと戻った。
 だが、そのまま力なく倒れ込み、意識を失う。

「何が……起きて……」
 千咲は恐怖のあまり動けない。
 唇を噛みしめ、震える指先をぎゅっと握りしめた。

 4章 了