犬神少女とカゲロウ鬼

 早朝の神晶石の間。
 まだ誰の気配もない静寂の中に、男がひとり佇んでいた。

 男は神晶石の前に立ち、静かに手を合わせる。
 霊力が注がれ、淡い光が石の内側で脈打つ。

「もし叶うなら、僕は——」
 そこまで口にして、男はふっと言葉を切った。
 自嘲するように、口元に小さな笑みを浮かべる。
「……なんて。さすがに、そこまで強欲ではありませんよ」

 神晶石の光が一段と強まったのを確認すると、男は満足したように踵を返した。
 歩き出したその背は、次第に輪郭を失い、陽炎のように揺らめきだす。
 そして段々と、朝の静けさの中へと溶けるように薄まっていった。

 ◇◇◇

『ねぇサキちゃん聞いてよ〜、私、急にお見合いすることになったの……』
 スマホ越しの声は、心底うんざりした様子で、今にもため息がこぼれ落ちそうだった。

 影朧と映画に出かけた翌日の昼。
 本日も仕事は休みで、千咲が部屋でのんびりしていたときに、繰実から電話がかかってきたのだ。

「ああ——ご実家に呼ばれたのって……」
『そうなんだよ! ひどくない!? 帰って早々見合いしろなんてさぁ……』
 一息に捲し立てる声の端々には、怒りが滲み出ていた。

『そういうわけでさ、しばらくこっちに拘束されそう。いつ戻れるかはちょっと分かんないかも』
「うん、分かった。無理しないでね、繰実ちゃんの気持ちが一番大事だから」
『ありがとぉ……そう言ってくれるのサキちゃんだけだよ。——それじゃ、また後で連絡するね!』

 そこで通話は切れた。
 スマホを下ろしながら、千咲はふと思う。
 婚約破棄された後、今のところ実家からは何も言われていないな、と。

 そんなことを考えつつ、お昼になったので、千咲は影朧の姿を探しに廊下へと出た。
 今日も一緒に昼食を摂るつもりでいたのだ。

 食堂へ向かう途中、千咲は廊下の角で影朧の姿を見つけた。
 彼の周りには、見知った顔からそうでない顔まで、数人の男女が集まっている。

「食堂の飯にも、そろそろ飽きてきただろ? たまには現世で食べないか?」
 軽い調子で、ひとりの男性が笑いかける。

 その後に、別の女性が身を乗り出し。
「駅前に美味しい洋食屋さんがあるんだ、一緒に行こうよ」

 楽しげな空気に、千咲は足を止めたまま、声をかけるタイミングを失う。
 ——お邪魔しちゃ悪いか……。
 彼の人付き合いの妨げにはなりたくない。そう思うと同時に、今日は自分も外で食べようか、という考えが頭を()ぎった。

 千咲は回れ右をし、静かにその場を離れる。
 理由は分からない。
 ただ胸の奥に、言葉にしづらいモヤモヤとした感情だけが残っていた。