犬神少女とカゲロウ鬼

 昼食を終えた後、千咲は影朧と並んで(やしろ)内にある転移門をくぐり、現世へと足を踏み出した。
 辿り着いた先は、ショッピングモールの中にある映画館だ。

 休日の昼間ということもあり、モール内は人で溢れかえっていた。行き交う人々の話し声、軽快な音楽、店先から漂ってくる甘い匂い——どれもが賑やかで、少し圧倒されるほどだ。

 影朧はというと、立ち止まったまま、きょろきょろと周囲を見回している。
 眼鏡越しに覗く赤い瞳が、きらきらと光を宿していた。楽しさを隠しきれないその様子は、初めておもちゃ屋に来た子供のようで、思わず微笑んでしまう。

「すごい人ですね……」
「ふふ。こういうところも、初めて?」
「はい」

 その様子があまりに新鮮そうで、千咲は見かねて声をかけた。

「映画まで、まだ少し時間あるよ。よかったら、先にお店見て回る?」
「いいんですか?」
 影朧はぱっと表情を明るくし、控えめながらも嬉しそうに頷いた。

 まず立ち寄ったのは雑貨屋だった。棚いっぱいに並ぶ小物やアクセサリーに、影朧は一つひとつ足を止めては眺める。
 ふと、影朧が赤い犬のキーホルダーを手に取った。

「可愛いね。私も一つ買おっかな」
 千咲は隣に並んでいた、青い犬のキーホルダーを手に取る。

「四鬼崎さんも、買う?」
「——はい。そうします」
 少し照れたように頷き、影朧はそのキーホルダーを大事そうに握りしめた。

 次に入ったのは本屋だ。整然と並んだ本棚を前に、影朧は背表紙を目で追いながら静かに息を呑む。
「すごい……こんなにたくさん」
「本、好き?」
「はい、家でよく読んでました」
 千咲がいくつかおすすめの本を紹介すると、影朧は興味深そうに表紙へ視線を落とし、その中の一冊を選んで購入してくれた。

 最後に立ち寄ったのは、服屋だった。
 高級ブランドを取り扱っている店内には、柔らかな照明が落ち、どれも丁寧に仕立てられた品ばかりが並んでいる。

 その中で、千咲は入口近くのマネキンが身に纏っているワンピースに目を留めた。
 淡い生成り色の生地に、控えめな刺繍が施された膝丈のワンピース。動くたびに裾がふわりと揺れそうな、上品で優しい雰囲気の一着だった。

「何か欲しい物、ありましたか?」
 影朧が、隣からそっと声をかける。

「うん。でも高いから……お金貯めてから買う」
 名残惜しそうに視線を外し、千咲は小さく笑った。
 今は眺めるだけでいい。そう自分に言い聞かせるように。

 そうしているうちに、上映時間が近付いてくる。
 二人は映画館へ戻り、売店でポップコーンを購入した。

 入場アナウンスが流れるまで、壁際に並んで待機する。
 千咲はポップコーンをつまみながら、壁に飾られたポスターへ目を向けた。
 それは、これから観る予定の青春恋愛映画のものだった。 夕暮れの校舎を背景に、笑い合う男女の姿が印象的に描かれている。

 ほどなくして、アナウンスが館内に響く。
「行こ」
「はい」
 二人は顔を見合わせ、シアターへと向かった。
 数分後、場内が暗くなり、映画が始まる。

 物語は、同じ高校に通う男女が出会い、他愛ない日常を重ねていくところから始まった。
 放課後の帰り道、部室での何気ない会話、少しずつ芽生えていく想い。

 しかし高校三年生の年、二人は避けられない別れに直面する。
 一人は遠くの街へ進学し、もう一人は地元に残るという選択。進む道が分かれたことを悟りながらも、二人は「最後の思い出」を作るため、夏祭りへ出かける。

 夜の境内は人で賑わい、提灯の明かりが揺れていた。
 屋台の匂い、浴衣の袖が触れる距離。

 やがて空に、大輪の花が咲く。
 赤、青、金色の光が夜空を染め、遅れて響く音が胸に落ちてくる。
 花火に照らされた二人の横顔は、笑っているのに、どこか切なげだった。

 千咲は、思わず喉の奥が熱くなるのを感じた。
 泣きそうになるが、知り合いが隣にいる手前、ぐっと堪える。
 そっと横を窺うと、影朧はスクリーンを見つめたまま、静かに瞬きをしていた。

 つう、と。
 眼鏡の奥の赤い瞳から、一筋の涙が頬を伝って落ちる。

 千咲は視線をスクリーンへ戻した。
 堪えていたものが、ふっとほどける。
 もう涙を止めようとはしなかった。

 暗いシアターの中、同じ場面に心を揺らしている人が、隣にいる。
 ただそれだけで、泣いてもいいのだと思えた。