犬神少女とカゲロウ鬼

 ○月△日
 きょうもぼうそうしてしまいました。
 かんしのひとに、けがをさせてしまいました。
 とてもこわくて、ないてしまいました。

 ○月□日
 こころをおちつかせれば、ぼうそうしないとおそわりました。
 でも、こころのおちつかせかたがわかりません。

 ×月×日
 かんしのひとがこないときは、そとはいつもくらいです。
 くらいのはこわいので、おうちのでんきはいつもつけてます。

 ×月○日
 あたらしいひとがきました。
 ひびきさんとかつみさんというそうです。
 こんどは、ぜったいに、けがをさせないようにしないと。

 ×月△日
 ひびきさんが、そとでのおしごとについて、おしえてくれました。
 かみさまのいしを、ようかいからまもるのがしごとのようです。
 ぼくはかみさまとつながっているから、ぼうそうをさいしょうげんにおさえられている、といっていました。

 ×月□日
 克巳さんにかんじを教わりました。
 ぼくとおなじとしの子は、みんな教わるそうです。
 克巳さんとひび牙さんの名前のかきかたも、教えてもらいました。
 でも、ひび牙さんの字はむずかしくて、はんぶんしかおぼえられませんでした。

 △月×日
 ひび牙さんと克巳さんは、よく地上のはなしをしてくれます。
 地上はここよりずっとあかるくて、あたたかいそうです。
 いつかぼくもいってみたいです。

 △月○日
 しんしょうせきにねがいを言えばかなうと、ひび牙さんが言っていました。
「きみはつながっているから、近くに行かなくてもとどくだろう」と言っていました。
 もしかなうなら、ぼくは、じゆうがほしいです。



「…………」
 ノートをパラパラとめくっただけで悟ってしまった。
 ここに幽閉されていた人間が、綴ったものだと。

 幼い文字に滲む孤独と自由への渇望。
 昔から囁かれていた噂が、ただの与太話ではなかったことを、嫌というほど突きつけられる。
 そして、その噂の中心に、響牙と克巳がいることが、胸に重くのしかかった。

 心臓は壊れそうなほど早鐘を打っているのに、思考だけが真っ白で動かない。
 ノートを握り締めたまま、千咲はその場に立ち尽くしていた。
 そのとき、不意に視界の端に赤が差し込む。

「狗紙さん……」
 影朧の手が、そっと千咲の目を覆った。
「やめましょう。気分が悪くなるだけです」

 千咲は小さく息を吸い、影朧の手を外して顔を上げる。
 そこにあったのは、いつもの穏やかな表情の奥に、微かながらも(たしな)めるような感情を宿した眼差しだった。

「……うん」
 千咲は素直に頷く。
 今度こそノートを元あった場所へ戻そうと、彼の手を離したそのとき——。

 影朧の赤い手の輪郭が、ふっと崩れ、揺らいだ。
 それは、以前にも見たことのある現象。
 夏の地面に立ちのぼる陽炎のように、ぐにゃりと歪む。
 ほんの一瞬の出来事で、その後は何事もなかったかのように元へ戻った。
 今のは見間違いではない——。千咲は確信する。

「ああ、そうだ」
 不意に克巳の声が響き、千咲の思考は現実へ引き戻される。
 克巳は出入り口の前に立ち、こちらに背を向けたまま言った。
「ここで見たことは、誰にも言わないように。皆がびっくりするからな」

 一見すると、腕に抱えた子供に向けた言葉のように聞こえる。
 けれど実際には、自分達に向けられた忠告でもあるのだと、千咲には分かった。

「……分かった」
 返事をした頃には、先ほどの不可解な現象は、既に意識の奥へ押しやられていた。
 それほどまでに日記の内容が、千咲の心に強い衝撃を与えていたのだ。