犬神少女とカゲロウ鬼

「映画、ですか?」
「うん、昨日言ってたやつ。繰実ちゃんが行けなくなっちゃったから……良かったら、一緒にどうかなって」
 廊下で会った影朧に事情を説明し、チケットを差し出す。

 彼は一瞬目を瞬かせた。まるでサプライズプレゼントを貰ったかのような顔をしている。
「よろしいのですか? 僕で」
「うん、四鬼崎さんの都合が合えば」

 彼は嬉しそうに表情を緩め、両手で大切そうにチケットを受け取った。
「ありがとうございます……! 映画、一度行ってみたいと思っていたので。とても楽しみです」

 いつもの落ち着いた、大人びた雰囲気とは違い、子どものように目をきらきらと輝かせている。
 外に出たことがないと言っていたから、映画館も未経験なのだろうとは思っていたが、ここまで喜んでくれるとは予想していなかった。

 その無邪気な反応に、千咲の心まで温かくなり、自然と口元が緩む。

「それじゃ、お昼を食べてから行く流れで」
「はい」

 簡単な打ち合わせを終え、千咲と影朧はそれぞれ出かける準備をするため、自室へ戻ろうと廊下を歩き出した。
 すると少し離れた場所から、ざわめきが聞こえてくる。

 耳に届いたのは、一人の子供——男の子の、必死に堪えた啜り泣きだった。
 その子を囲むように、数人の大人が立っている。その中に、見知った顔があった。
 蛇代克巳だ。

 克巳を含む大人たちは皆、どうしたものかと困った表情を浮かべている。通りかかる人々も足を止め、何事かと遠巻きに様子を窺っていた。

「うーん、参ったなぁ……——あっ!」
 こちらに気付いた克巳が、まるで助け舟を見つけたかのように声を上げる。
「よしっ、ここだと落ち着いて話せないよな。近くの部屋に行こう」
 そう言って、克巳は泣いている子供をそっと抱き上げた。

 そして振り返り、こちら——正確には影朧の方へ視線を向け、ちょいちょいと手招きをする。
 影朧はその意図を察したのか、静かに頷いて後に続いた。
 千咲もまた、何が起きているのか気に留めながら、二人の後を追った。

 近くの空き部屋に、克巳をはじめとした大人たちと泣いている子供、そして影朧と千咲が入った。
「——何があったのか聞いてたんだが、どうも要領を得なくてな……。というわけで、いっちょ頼むわ」
 そう言って、克巳は親指で子供を指し示す。

「分かりました」
 影朧は迷いなく頷いた。

 細かい説明をされなくても意図を汲み取っている様子を見るに、これまでにも何度も似たような依頼を受けてきたのだろう。千咲は少し離れたところから、そのやり取りをぼんやりと眺めていた。

「ぼうや。手を出して、僕に霊力を流してくれますか?」
 影朧は子供の前に屈み、そっと両手を差し出す。
 泣きじゃくっていた子供は、ぐすりと鼻を鳴らしながらも、言われるまま小さな手をその上に重ねた。

 数秒の沈黙が流れる。
 おそらく、この間に子供の霊力が影朧へと流れ込んでいるのだろう。

「——これは……っ」
 影朧が思わず目を見開く。
 彼はすぐに立ち上がり、克巳の耳元へ小声で何かを告げた。
 それを聞いた克巳もまた、同じように表情を強張らせるのだった。

「……なるほどな。——よしっ、大丈夫だ。あとは俺たちに任せな!」
 そこから一転、子供に笑顔を向け、頭をわしゃわしゃと撫でる。
 他の大人達に向き直り「この子のことを頼む」と声をかけると、影朧を促して部屋の外へ向かった。

「おい、ちょっと待て。何があったんだ? 二人だけで大丈夫なのか?」
 不安げに、一人の大人が呼び止める。

「問題ない、すぐ戻るから」
 克巳は気にするなと言わんばかりに軽く手を振った。

 それがどうにもよそよそしく見え、千咲は急いで廊下へ出る。
 先を行く克巳と影朧の背を見失わないよう、二人を追いかけた。

 外に出て、二人は建物の裏側へ回る。
 ——北側……?
 進む方向から、どうやら行き先は北側区域であるようだった。
 やがて克巳と影朧は、ある一点で足を止めた。

「ここは……」
 二人とは少し距離を置いた場所で立ち止まり、千咲は思わず呟く。
 その視線の先には、一棟の古い蔵が静かに佇んでいた。

 いつもは固く閉ざされているはずの蔵の扉は、今は僅かに隙間が空いていた。

「——壊れてますね」
 影朧が足元に落ちていた物を拾い上げる。
 よく見ると、それは歪んだ錠前だった。

「あー……まぁ、だいぶガタがきてたからなぁ」
 克巳は気にした様子もなく頭を掻くと、そのまま躊躇いなく蔵の扉を引いた。
 ぎい、と軋む音を立て、扉が大きく開く。
 克巳と影朧は迷いなくその中に入った。

 千咲は逡巡する。
 胸の奥に小さな躊躇いがよぎるが、それ以上に湧き上がったのは、抑えきれない興味だった。
 結局、彼女も二人の背を追い、蔵の中へと足を踏み入れたのだった。

 中は拍子抜けするほど殺風景で、物が仕舞われている様子はない。
 ただ一つ、床の一角にぽっかりと穴が空いていた。影朧と克巳は、その縁に立ち、身を屈めて中を覗き込んでいる。

「その穴、なぁに?」
 千咲が声をかけると、二人は同時に振り返った。
「狗紙さん……」
「君、ついてきてたのか!? ここは危ないから、早く戻——」

 克巳の言葉を遮るように、異変は前触れもなく訪れた。
 バタンッ、と大きな音を立て、背後の扉が勢いよく閉まったのだ。

「——おぉっとぉ……?」
 少しの静寂の後、克巳がわざとらしく軽い声を上げる。内心の焦りを誤魔化すような調子だった。

「ハハ……誰かのイタズラか? まったく、困ったもんだ」

 扉の前に歩み寄り、力を込めて押す。しかし、びくともしない。
 影朧も加わったが、結果は同じだった。

 その間、千咲は床の穴から目を離せずにいた。
 暗闇の奥から、じわりと妖怪の気配が滲み出してくる。

 ——これは……。
 妖怪の仕業だ。そう確信した後、千咲の身体は即座に戦闘態勢へと移っていた。
 影が跳ねるように形を変え、彼女は二足で立つ黒犬の姿へと変化する。

 影朧もまた同じ判断に至ったのだろう。人の姿が揺らぎ、太刀を携え、軍服を纏った赤鬼へと姿を変えた。

「はぁ……仕方ないか」
 克巳が小さく息をつくと、その身体がぐにゃりと歪む。
 骨格も質量も書き換えられるように膨れ上がり、瞬く間に巨大な白蛇へ。

 体長はおよそ四メートル。
 蔵の中を圧するほどの大蛇(おろち)が、静かにとぐろを巻く。

「千咲。こうなった以上、君にも来てもらうぞ。中のヤツを片付ける」