犬神少女とカゲロウ鬼

「教えてもらったんだ」

 ふっと蘇る、幼い頃の記憶。
 地下深く。誰もいない静かな空間。
 巨大な勾玉の形をした石が宙に浮かび、淡く光を脈打たせていた。

 五歳の狗紙(こうし)千咲(ちさき)は、その前で小さな手を胸の前でぎゅっと合わせる。
神晶石(しんしょうせき)に願い事をすれば、夢が叶うって」
 人気のない空間に、彼女の澄んだ声だけがぽつんと響く。

「……ねぇ、神さまみたいな石さん」
 ぽつりと、祈るように囁いた。
「ちさき、皆に……怖がられない人になりたいの」
 それは、幼児の口から零れたとは思えないほど、小さくて切ない願いだった。

「それでね……ちさきを、ちゃんと好きって言ってくれる人を見つけて……」
 拙いながらも懸命に言葉を紡ぐ。
「一緒にごはん食べて、いっぱい遊んで……そんな、あったかいお家で……幸せになりたいの」
 子どもらしい夢を、そのままの形でそっと差し出すように続ける。

「いつか、きっと——」
 神晶石は答えない。けれど光は静かに脈打った。
 まるで幼い願いを抱きしめるように。

 ◇◇◇

 ここは現世(うつしよ)と、妖怪が蔓延る異界の間にある、狭間(はざま)の世界・神晶の(やしろ)
 社には、現世に妖怪が侵入するのを防ぐ結界の源・神晶石と、その守護と維持の任にあたる人間達が暮らしていた。
 狗紙千咲もその一人。

「サキちゃん、新しい人が来たんだって。一緒に見に行こ!」

 春の風がふわりと吹き抜ける廊下をぼんやりと歩いていると、友人の轆轤(ろくろ)繰実(くるみ)が駆け寄ってきた。

「ごめん、邦彦(くにひこ)さんが来てるから」
「あ、そうなんだ。じゃあ私は先にご挨拶してくるね!」

 繰実はひらひらと手を振り、千咲と別れて走り去っていく。
 千咲はそのまま静かに廊下を歩き続けた。

 ——……それにしても邦彦さん。急に話があるなんて、どうしたんだろ。

 十六歳になった千咲には婚約者がいる。
 退魔師の名家、朝霧家の嫡男・朝霧邦彦。

 三年前に家同士の取り決めで婚約が結ばれた。
 政略結婚とはいえ、言葉を交わせば穏やかに笑ってくれ、千咲は彼と良好な関係を築けていると思っていた。
 彼となら、幼い頃からの普通の幸せも手に入ると信じていた。
 だからこそ——。

「悪い、千咲。婚約を破棄してほしいんだ」
 客間に着いた瞬間の、邦彦の言葉にひどく驚かされたのだった。

「……どうして?」
 表情に大きな変化はない。
 けれど、千咲の頭の中は真っ白になっていた。

「どうしても……どうしても添い遂げたい人が出来たんだ。だから勝手で申し訳ないけど、頼む、この通りだ!」
 邦彦は勢いよく畳に手をつき、深々と頭を下げる。

 ——……そっか。そういうことなら……。
 千咲は、ほんの一拍だけ考え。

「……それなら、しょうがないね」
「ゆ、許してくれるのか?」
「うん」
「……ありがとう、千咲。恩に着る。ご両親には俺から伝えておくから」

 邦彦は安堵したように息をつき、そのまま足早に部屋を後にした。
 客間に残されたのは、千咲ひとり。

 表情はいつも通り。
 けれど、心の奥が少しだけ縮む。

 千咲はそっと息を吐いた。
「……仕事の時間だ」
 本日の午前中は、社周りの見回り当番だ。
 気持ちを切り替え、静かに立ち上がり、客間を後にした。