死にたい僕は今日も息をして

神様なんて、居ない。
そう思うようになったのは、いつからだっただろう。
きっかけなんて思い出せない。
ただ、気づいた時には、世界のどこにも“救い”なんてものはなかった。

僕には親がいない。
両親がいなくなったのは、中学二年の春だった。
突然の事故だった。
天気のいい日だったらしい。ニュースで流れる映像の空は、あまりにも青くて、
それがかえって不気味だった。

その日から僕の中で、何かが止まった。
時計の針は動いているのに、心はもう、動かない。
まるで世界の音が遠ざかるみたいに。
僕の世界からすべての色が消えた。

親戚の家を転々としながら、形だけの学校生活を続けた。
友達もいなかった。いや、作ろうともしなかった。
どうせ、誰も長くは隣にいない。
僕がそう思って距離を置いたのか、
それともみんなが僕を避けたのか、もう覚えていない。

教室で僕に話しかけれくる人なんて、一人もいない。
担任ですらほとんど話しかけてこない。
僕は教室の中の空気そのものだった。

家に帰っても、部屋は静かすぎた。
冷蔵庫の音だけが、やけに大きく響いていた。

何を食べても味がしなかった。
勉強も、部活も、未来も。
何もかも、どうでもよくなっていた。

死にたい――そう思うようになったのは、その頃からだ。

でも、それは“死”を望むというより、
生きていたくないという感情の方が近い。

朝が来るたび、体の奥が重くなった。
窓の外の光がまぶしいほど、
それが自分の世界とは違う場所のものに思えた。

SNSを開けば、誰かの笑顔が並んでいた。
「友達と海行ってきた!」
「人生楽しい!」
「生きてるって最高!」

そのどれもが、僕には別の星の言葉みたいに見えた。
――生きる理由。
そんなもの、僕にはもうなかった。

ある夜、ふと屋上に行ってみようと思った。
何の理由もなかった。
ただ、終わらせるなら、ここがいいと思っただけ。

マンションの階段を上る足音が、やけに響く。
手すりの金属が、夜風で冷たかった。

街の明かりが遠くに滲んで見えた。
コンビニの灯り、信号機、車のテールランプ。
そのどれもが、生きている人の証のように見えて、
僕だけがそこから取り残された気がした。

下を覗き込むと、
闇が静かに広がっていた。

風が頬を撫でていく。
心臓が、少しだけ速く打った。

もう、楽になってもいいよな。

誰も悲しまない。
そう思いながら、僕は柵に足をかけた。
自分の人生を、今ここで終わらせる。
後悔なんてものはない。

その瞬間――

「ねぇ? 何してるの?」

背後から声がした。
風に混じって、かすかに震えるような声。

振り向くと、そこに立っていたのは、制服の裾を揺らす女の子だった。
その制服は僕の高校と同じものだった。
同じマンションに同じ高校の人がいるなんて知らなかった。
街の灯が遠くで瞬いて、彼女の横顔を淡く照らす。
まっすぐな瞳だった。どこか寂しげで、それでいて芯のある光を宿していた。

「死のうかなって」
僕は苦笑いしながら、なるべく軽く言った。
見ず知らずの彼女を巻き込みたくなかったから。
けれど、自分の声の震えを隠せなかった。

「命をそんな簡単に投げ出さないでよ」

その声は、想像よりずっと強く、澄んでいた。
夜の風を割って、胸の奥に突き刺さった。
僕は少し眉をひそめた。

「君に何がわかるの?」
僕の口調も無意識に強くなる。
「僕には、生きる価値なんてないんだよ」

それは、何度も心の中で繰り返してきた言葉だった。
呪文みたいに、何度も自分に言い聞かせてきた。
それしか信じられるものがなかったから。

「そんなことないよ」
彼女は首を横に振った。
「誰だって、人が死んだら悲しむんだよ」

「僕が死んでも悲しむ人なんていない」
両親も友達もいない僕が死んだところで、涙を流す人なんて誰もいない。
自殺したことが報道されても誰も関心を持たないだろう。
関心を持ったとしても、どうせ”可哀想な子”としか思われない。
それに二三日もしたら、僕のことなんか誰も覚えていない。

僕がそう言い切ると、彼女は一瞬、目を伏せて、そして――
まっすぐに僕を見た。

「私が悲しむよ」
「……え?」
「目の前で人が死んだら、私が悲しむ」

その言葉は、あまりにまっすぐで、あまりに無茶苦茶だった。
初めて会った人間が、どうしてそんなふうに言えるんだろう。
けれど、彼女の声を聞いた瞬間、心のどこかが小さく揺れた。

「それなら、私に付き合ってよ」
少し笑いながら、彼女は言った。
「君に、もう二度死にたいなんて思わせない」

屋上の風が止んだ。
街のざわめきが遠のき、僕は言葉を失った。
目の前の彼女は、まるで夜に浮かぶ灯のようだった。

「……なんだそれ」
「やりたいことリスト、って知ってる?」
「リスト?」
「うん。私ね、やりたいことをノートに書いてるの」

彼女はポケットから、少し折れたノートを取り出した。
表紙には「wish list」と書かれている。
可愛い字だった。
やりたいことリストなんてもの僕は初めて聞いた。

「見せてあげる」
ページをめくる音が、やけに大きく響く。
そこには、いくつもの項目が書かれていた。

・星空を見ながら話したい
・花火を見たい
・海に行きたい
・お菓子作りをしたい
・誰かと旅行をしたい
・誰かに、自分の話を聞いてほしい

「これ……全部、君のやりたいこと?」
「うん。くだらないでしょ?」
彼女は笑ったけれど、その笑顔は少しだけ滲んでいた。
「実はもっとあるんだけどね」
彼女はページをパラパラとめくっていく。

「僕が付き合うって、つまり……」
「全部、手伝ってほしいの」
「……なんで僕なんだよ」
「たぶんね、君は死にたがってるけど、ほんとは生きたい人だから」

息が詰まった。
夜風がひゅうと鳴り、どこか遠くで電車の音がした。
彼女の言葉は静かだったけど、胸の奥を叩くような強さがあった。

「それにね」
彼女は、少し照れたように笑った。
「今ので一つ、叶っちゃった」
「え?」
「“誰かに話を聞いてもらう”って項目。君が叶えてくれた」

僕は何も言えなかった。
ただ、風に揺れる彼女の髪を見ていた。
どこか現実感が薄れていくような、そんな時間だった。

不思議な子、僕はそう思った。
死のうとした僕に、そんな提案をしてきた彼女に少しだけ興味が湧いた。
「……分かったよ。暇だし、付き合ってあげるよ」
「ふふ、ありがとう」
彼女は心から嬉しそうに笑った。
その笑顔が、ほんの少しだけ眩しかった。

沈黙のあと、彼女がふと思い出したように言った。
「ねぇ、そういえば君、名前は?」
「……あぁ、僕は(かえで)
「楓くん、か」
「君は?」
(みお)澪標(みおつくし)って分かる? 難しい言葉なんだけど。それの澪」
「船の水路の印に立てる杭だよね。知ってる」
「知ってるんだ。物知りだね」

僕は昔から父から色々なことを教えてもらっていた。
そのため知識量は人並み以上だった。
「ていうか珍しい名前だね」
「よく言われる。でも、私は結構気に入ってるんだ」
風がふっと吹き抜け、二人の髪を揺らした。

澪は少し遠くの空を見上げて、柔らかく笑った。
「じゃあ、明日またこの時間に来てよ」
「え?」
「明日は晴れるから。きっと、星が綺麗に見えるよ」

そう言って、フェンスの向こうに広がる夜空を指さした。
街の光が霞んで、遠くに星の粒がいくつか瞬いている。
それは、まだぼんやりしていて、確かにそこにあるのかも分からないほど儚かった。

「……別にいいけど」
「よかった。約束ね」
澪はそう言って、軽く手を振った。
その笑顔が、風に溶けていくようだった。

彼女が屋上を出ていく足音が、静かに遠ざかっていく。
僕はその場に一人残り、夜空を見上げた。

あの子は、いったい何者なんだろう。
何のために、あんな言葉を言ったんだろう。
なぜやりたいことリストなんて作っていたのだろう。
分からないことだらけなのに――不思議と、心は少しだけ軽くなっていた。

冷たい夜気の中で、胸の奥が静かに熱を帯びる。
それが何なのかは分からなかったけれど、
確かに、さっきよりもこの世界が少しだけ綺麗に見えた。

遠くで犬の鳴き声がして、風が髪を撫でていく。
僕は立ち上がって、屋上のドアを閉めた。
鉄の音が、夜に溶けて消えた。

――明日は晴れるらしい。