【第一章 放課後、恋は静かに始まる】
春の風は、まだ少しだけ冷たかった。
校舎の裏手にある弓道場へ続く道を歩きながら、私は制服の袖をぎゅっと握る。
放課後。
それは、一日の中でいちばん好きで、いちばん緊張する時間だった。
「おはようございます」
弓道場の戸を開けると、乾いた木の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
すでに何人かの先輩が準備をしていて、その中に――
「澪。今日は早いな」
神谷颯真先輩の姿があった。
胸が、小さく跳ねる。
「はい。授業、早く終わったので」
平静を装って答えるけれど、声が少しだけ上ずったのが自分でも分かった。
颯真先輩は三年生。
背は高くて、目元が優しくて、弓を引く姿がとてもきれいな人。
部員全員から信頼されていて、後輩にも丁寧で――
そして。
私が、好きになってしまった人。
弓道部に入った理由は、正直に言えば「なんとなく」だった。
運動部に入りたかったけれど、激しいスポーツは少し苦手で。
そんなときに見学した弓道場で、初めて颯真先輩を見た。
凛と背筋を伸ばし、静かに弓を引く姿。
矢を放つ一瞬の、研ぎ澄まされた空気。
――きれい。
そう思ったのが、すべての始まりだった。
「澪、肩の力、少し抜いてみようか」
私の後ろに立ち、先輩はそう言って、そっと肩に触れる。
その一瞬で、心臓が跳ね上がった。
「こ、こうですか……?」
「うん。いい感じ」
耳元で聞こえる声が近くて、息がかかるほどで。
集中しなきゃいけないのに、頭の中は真っ白になる。
――ばか。
自分にそう言い聞かせながら、私は必死に弓を引いた。
矢は、的の真ん中より少し下。
「十分だよ」
そう言って笑う先輩の顔を、私はまともに見られなかった。
部活が終わり、片付けを終えた帰り道。
夕焼けに染まる校舎の中庭を、先輩と二人で歩く。
「澪はさ、弓道楽しい?」
突然そう聞かれて、私は少し考えた。
「……はい。楽しいです」
それは嘘じゃない。
でも、本当は。
――先輩がいるから、楽しい。
そんなこと、言えるはずもなくて。
「それならよかった」
先輩は安心したように笑った。
その笑顔を見て、胸がぎゅっとなる。
この距離が、心地よくて、でも少し苦しい。
先輩は三年生。
私は二年生。
この時間は、永遠じゃない。
それを思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
その日の夜。
布団に入っても、なかなか眠れなかった。
先輩の声。
先輩の笑顔。
肩に触れた、あの一瞬。
「……好きだなぁ」
小さく呟いて、枕に顔をうずめる。
伝える勇気は、まだない。
でも、この気持ちを抱えたままでもいい。
――今は、そばにいられるだけで。
そう思いながら、私はゆっくりと目を閉じた。
【第二章 近すぎる距離、触れられない想い】
次の日から、颯真先輩は少しだけ変わった。
――正確に言えば、「私に対して」だけ。
「澪、今日は俺と同じ的使おう」
そう言われたのは、部活が始まってすぐのことだった。
「え、でも……」
「混んでるし、効率いいだろ?」
それ以上反論できず、私は小さく頷く。
同じ的。
それは、立つ位置も、待つ時間も、自然と近くなるということだった。
隣に立つ先輩の腕が、少し動くだけで触れそうになる。
意識しない方が無理だった。
「澪、集中」
小声でそう言われ、私はびくっと肩を揺らす。
「す、すみません」
「謝るなよ」
そう言って、先輩は少しだけ困ったように笑った。
それからというもの、先輩はよく私の様子を気にするようになった。
「昼ちゃんと食べた?」
「最近、無理してないか?」
「疲れてるなら、休め」
その一つひとつが優しくて、でも。
――少しだけ、近すぎる。
他の後輩には、そこまで言わないのに。
「澪」
名前を呼ばれるたび、胸がきゅっとなる。
期待してはいけない。
でも、してしまう。
ある日の帰り道。
校門を出たところで、同じクラスの男子が私に声をかけてきた。
「澪、一緒に帰らない?」
ただのクラスメイト。
特別な意味はないはずなのに――
「悪い、澪は今日は用事ある」
間に割って入ったのは、颯真先輩だった。
「え?」
私も、クラスメイトも、同時に声を上げる。
「部のことで、少し話すから」
先輩はそう言って、私の手首を軽く引いた。
触れた指先が、熱い。
「す、すみません」
クラスメイトが気まずそうに去っていくのを見送りながら、私は混乱していた。
「せ、先輩……?」
「……ああ、ごめん」
手を離した先輩は、少しだけ視線を逸らす。
「澪が誰かと一緒に帰るの、あんまり見たくなかった」
低い声で、そう言われた。
心臓が、どくんと大きく鳴る。
「それって……」
「深い意味はない」
そう言い切るくせに、先輩の表情はどこか強張っていた。
帰り道、二人で並んで歩く。
「さっきのこと、忘れて」
先輩はそう言ったけれど。
忘れられるわけがない。
「澪は……可愛いから」
ぽつりと落とされた言葉に、私は足を止めた。
「変な虫、寄ってきそうで」
冗談みたいな口調。
でも、その目は真剣だった。
「俺が、ちゃんと見てないと」
――ずるい。
そんなこと言われたら、期待してしまう。
でも、先輩は一線を越えない。
触れない。
踏み込まない。
それが、余計に苦しかった。
その夜。
『今日はごめん。嫌だったら、ちゃんと言って』
スマホに届いた、先輩からのメッセージ。
『嫌じゃ、ないです』
そう返すのに、何分もかかった。
画面の向こうで、先輩がどんな顔をしているのか、分からない。
でも。
『じゃあ、安心した』
その一文を見て、胸がじんわり温かくなった。
近いのに、遠い。
甘いのに、もどかしい。
この距離が壊れるのが怖くて、
でも、壊してほしくて。
私はスマホを胸に抱きしめた。
【第三章 先輩の視点――触れない理由】
――正直に言えば。
俺は最初から、澪のことが好きだった。
弓道部に入ってきたばかりの一年生。
緊張した顔で弓を握りしめて、的よりも俺の方を何度もちらっと見ていた。
放っておけなかった。
それだけだ。
「神谷先輩、お願いします」
澪が初めて俺をそう呼んだ日のことを、今でも覚えている。
声が小さくて、でも必死で。
教えたことを一つひとつ、真剣に吸収しようとする姿が可愛くて。
――いや、可愛いなんて言葉じゃ足りない。
守りたくて、独り占めしたくて、
それでいて、触れたら壊してしまいそうで。
俺は三年生。
澪は二年生。
この一年の差が、思っている以上に重いことを、俺は知っていた。
最近、澪を見るたびに胸がざわつく。
他の男と話しているだけで、視線がそっちに向く。
一緒に帰ろうなんて言われていたのを見たときは、正直――
我慢が、限界だった。
だから、間に入った。
理由なんて、後付けだ。
澪の手首を掴んだ瞬間、
細くて、あたたかくて。
――触れたらダメだ。
そう頭では分かっているのに、
離すのが、ひどく名残惜しかった。
澪は、たぶん気づいていない。
俺がどれだけ、触れないようにしているか。
どれだけ、距離を保つのに必死か。
肩に手を置くのも、
名前を呼ぶのも、
全部、理性との戦いだ。
もし、今ここで一線を越えたら。
澪の高校生活を、俺が縛ってしまう。
それだけは、したくなかった。
大会が終わったら、引退だ。
そのときまで、
俺は先輩でいなきゃいけない。
好きだなんて、言えない。
抱きしめることも、キスすることも、
全部――卒業してからだ。
でも。
「俺が見てないと」
そう思ってしまう自分を、
止めるつもりはなかった。
澪が誰かのものになるなんて、
考えたくもない。
だからせめて、
俺の視界の中にいろ。
――それくらいの独占欲は、許してくれ。
【第四章 雨音の中で、縮まる距離】
空が暗くなり始めたのは、部活の終わり頃だった。
「降りそうだな」
颯真先輩が空を見上げて、そう呟く。
その言葉通り、片付けを終える頃には、ぽつぽつと雨が落ち始めていた。
「傘、持ってる?」
「……いえ」
答えながら、少しだけ肩を落とす。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
先輩は当たり前みたいにそう言って、黒い傘を広げた。
相合傘。
それだけで、胸がざわつく言葉なのに。
傘の下に入ると、先輩との距離は思っていた以上に近かった。
肩が触れそうで、でも触れなくて。
雨音が、やけに大きく聞こえる。
「……狭いな」
先輩がそう言って、少しだけ傘を私の方に傾けた。
「濡れないように」
その優しさが、胸に染みる。
でも、先輩は私に触れない。
腕も、手も、ぎりぎりの距離を保ったまま。
――どうして?
期待してはいけないと分かっているのに、
どうしても、考えてしまう。
「澪」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「最近、無理してないか?」
また、その言葉。
「……大丈夫です」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
「そうか」
先輩はそれ以上、踏み込んでこなかった。
雨が、二人の間を埋めるみたいに、静かに降り続く。
校門の前に着いたとき、雨は少し弱まっていた。
「じゃあ、ここで」
そう言って、先輩は立ち止まる。
「ありがとうございました」
そう言うと、先輩は少しだけ眉を下げて笑った。
「風邪ひくなよ」
それだけ。
触れない。
引き止めない。
優しさだけを残して、先輩は去っていった。
残された私は、胸の奥が少しだけ、痛かった。
近かったのに。
同じ傘の下にいたのに。
――やっぱり、私の勘違いなのかな。
そう思った瞬間、雨よりも冷たい不安が、胸に落ちてきた。
【第五章 離れることで、近づく心】
それから、私は少しだけ先輩と距離を取るようになった。
意識して避けている、というほど露骨ではない。
ただ、同じ的に立たないようにしたり、帰りのタイミングをずらしたり。
――それだけ。
なのに、胸はずっと落ち着かなかった。
「澪、最近どうした?」
同級生にそう聞かれて、私は曖昧に笑う。
「別に、何でもないよ」
本当は、何でもなくなんてなかった。
弓道場で、先輩と目が合う回数が減った。
声をかけられることも、名前を呼ばれることも。
そのたびに、
――これでいい。
そう自分に言い聞かせる。
期待して、傷つくくらいなら。
最初から、何も期待しなければいい。
そう思っているはずなのに。
「澪」
背中から名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。
振り向いてしまう自分が、情けなかった。
「最近、避けられてる気がするんだけど」
放課後、部室の前で、先輩はそう言った。
「そんなこと……」
ない、と言いかけて、言葉を飲み込む。
「俺、何かした?」
真剣な目。
優しい声。
それが、いちばんずるい。
「……いえ」
嘘だった。
でも、本当のことなんて言えない。
「なら、よかった」
先輩はそう言って、それ以上追及しなかった。
その優しさが、胸に刺さる。
帰り道。
夕焼けに染まる校舎を見ながら、私は歩いた。
――先輩は、きっと誰にでも優しい。
私だけが特別だと思っていたのは、
ただの勘違い。
そう思おうとすればするほど、
胸の奥が苦しくなる。
「……好きにならなきゃよかった」
小さく呟いた言葉は、
風にさらわれて消えた。
その日の夜。
スマホが震えた。
『最近、ちゃんと話せてないな』
先輩からのメッセージ。
画面を見つめたまま、指が動かない。
『忙しいなら、無理しなくていい』
続けて届いたその一文に、
胸がきゅっとなる。
――やっぱり、優しい。
でも、その優しさが、
私を一番苦しめる。
返信は、しなかった。
既読をつけないまま、
スマホを伏せる。
それが、今の私にできる精一杯だった。
【第六章 大会前夜、抑えきれない想い】
――おかしい。
澪の様子が変わった理由を、俺はずっと考えていた。
避けられている。
そう感じるのに、嫌われたわけじゃない。
視線は、まだ俺を追っている。
なのに、近づこうとすると、離れていく。
その理由に思い当たったとき、
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
大会前夜。
弓道場には、俺一人だった。
弓を手入れしながら、今日一日のことを思い返す。
澪は、俺と目を合わせなかった。
声をかけても、どこかよそよそしい。
――俺が、何も言わなかったからだ。
触れずに。
踏み込まずに。
大切にしているつもりで、
不安にさせていた。
「……馬鹿だな、俺」
そう呟いたとき、
背後で、戸が開く音がした。
「颯真先輩……?」
澪だった。
「どうした?」
驚きを隠して声をかけると、
澪は少しだけ迷ってから、口を開いた。
「明日……大会なので」
「うん」
「最後だから……」
それ以上、言葉が続かない。
震える指先。
伏せられた視線。
俺は、もう耐えられなかった。
「澪」
名前を呼んで、一歩近づく。
「俺から離れようとしてるだろ」
澪の肩が、小さく揺れた。
「……そんなこと」
「ある」
きっぱり言うと、
澪は唇を噛みしめた。
「俺が、何もしないからだろ」
沈黙。
それが、答えだった。
「……好きだからだ」
気づいたら、そう口にしていた。
「え……?」
澪が顔を上げる。
驚きと、不安と、期待が入り混じった表情。
「触れたら、壊れると思った」
「先輩と後輩で……」
「澪の高校生活を、縛りたくなかった」
全部、本音だった。
「でも、離れていかれるのは……無理だった」
その瞬間、
澪の目から、涙がこぼれた。
反射的に、抱きしめていた。
腕の中の体温が、確かで。
「……ごめん」
耳元で、そう囁く。
澪は、抵抗しなかった。
「……好きです」
小さな声で、そう言われて、
胸がいっぱいになる。
でも、俺は顔を離した。
キスは、しない。
「明日、ちゃんと勝とう」
「それから……全部、話そう」
澪は、涙を拭いて、
小さく頷いた。
その仕草が、
何よりも愛しかった。
【第七章 矢先に宿る想い】
大会当日の朝は、驚くほど静かだった。
目覚ましが鳴る前に目が覚めて、天井を見つめる。
――好きです。
昨夜、口にした言葉が、まだ胸の奥で温かく残っていた。
抱きしめられた腕の感触。
耳元で聞いた、低い声。
キスは、なかった。
でも、それでよかった。
あの人は、ちゃんと私を大事にしてくれている。
そう思えたから。
会場の弓道場は、張りつめた空気に包まれていた。
道着に袖を通し、弓を持つ。
手は少し震えていたけれど、
不思議と心は落ち着いていた。
視線を上げると、
向こう側に、颯真先輩がいた。
目が合う。
ほんの一瞬。
それだけで、胸の奥が、すっと静まった。
――大丈夫。
そう、言われた気がした。
一本目。
呼吸を整え、弓を引く。
頭に浮かぶのは、
昨日の夜の弓道場。
「好きだからだ」
その言葉が、背中を押してくれる。
矢を放つ。
乾いた音。
的の、中心。
「……っ」
思わず、息を詰めた。
次の矢も、その次も。
私は、自分でも驚くほど集中できていた。
結果発表。
団体――準優勝。
一瞬、悔しさが胸をよぎったけれど、
すぐに、それ以上の感情が込み上げる。
「よくやったな」
颯真先輩が、私の前に立った。
その目は、誇らしげで、優しくて。
「先輩のおかげです」
そう言うと、
先輩は小さく首を振った。
「澪自身の力だ」
その一言で、胸がいっぱいになった。
夕方。
大会が終わり、三年生は正式に引退となった。
弓道場で、最後の挨拶。
「今まで、ありがとうございました」
そう言う先輩の背中を、
私は、まっすぐ見つめていた。
――終わりじゃない。
そう、信じたかった。
【最終章 春、ふたりのはじまり】
先輩が卒業してから、
季節はゆっくりと春へ向かった。
連絡は、続いていた。
短いメッセージ。
時々の電話。
「元気?」
それだけで、一日が明るくなる。
桜が咲き始めた頃。
「会える?」
先輩から届いた、その一言。
胸が、跳ねた。
待ち合わせは、あの弓道場だった。
「久しぶり」
制服じゃない先輩は、
少しだけ大人びて見えた。
「……はい」
ぎこちなく笑う私に、
先輩は照れたように目を逸らす。
「改めて、言わせて」
真剣な声。
「俺は、澪が好きだ」
「これからは、ちゃんと恋人として、そばにいたい」
胸の奥が、熱くなる。
「……私もです」
そう答えると、
先輩は、そっと近づいてきた。
今度は、逃げなかった。
唇が、触れる。
やさしくて、慎重で、
大切にするみたいなキス。
春の風が、二人の間を通り抜けた。
放課後、弓道場で始まった恋は、
これからも、続いていく。
まっすぐに、
同じ未来を見つめながら。
春の風は、まだ少しだけ冷たかった。
校舎の裏手にある弓道場へ続く道を歩きながら、私は制服の袖をぎゅっと握る。
放課後。
それは、一日の中でいちばん好きで、いちばん緊張する時間だった。
「おはようございます」
弓道場の戸を開けると、乾いた木の匂いがふわりと鼻をくすぐる。
すでに何人かの先輩が準備をしていて、その中に――
「澪。今日は早いな」
神谷颯真先輩の姿があった。
胸が、小さく跳ねる。
「はい。授業、早く終わったので」
平静を装って答えるけれど、声が少しだけ上ずったのが自分でも分かった。
颯真先輩は三年生。
背は高くて、目元が優しくて、弓を引く姿がとてもきれいな人。
部員全員から信頼されていて、後輩にも丁寧で――
そして。
私が、好きになってしまった人。
弓道部に入った理由は、正直に言えば「なんとなく」だった。
運動部に入りたかったけれど、激しいスポーツは少し苦手で。
そんなときに見学した弓道場で、初めて颯真先輩を見た。
凛と背筋を伸ばし、静かに弓を引く姿。
矢を放つ一瞬の、研ぎ澄まされた空気。
――きれい。
そう思ったのが、すべての始まりだった。
「澪、肩の力、少し抜いてみようか」
私の後ろに立ち、先輩はそう言って、そっと肩に触れる。
その一瞬で、心臓が跳ね上がった。
「こ、こうですか……?」
「うん。いい感じ」
耳元で聞こえる声が近くて、息がかかるほどで。
集中しなきゃいけないのに、頭の中は真っ白になる。
――ばか。
自分にそう言い聞かせながら、私は必死に弓を引いた。
矢は、的の真ん中より少し下。
「十分だよ」
そう言って笑う先輩の顔を、私はまともに見られなかった。
部活が終わり、片付けを終えた帰り道。
夕焼けに染まる校舎の中庭を、先輩と二人で歩く。
「澪はさ、弓道楽しい?」
突然そう聞かれて、私は少し考えた。
「……はい。楽しいです」
それは嘘じゃない。
でも、本当は。
――先輩がいるから、楽しい。
そんなこと、言えるはずもなくて。
「それならよかった」
先輩は安心したように笑った。
その笑顔を見て、胸がぎゅっとなる。
この距離が、心地よくて、でも少し苦しい。
先輩は三年生。
私は二年生。
この時間は、永遠じゃない。
それを思うと、胸の奥がきゅっと締めつけられた。
その日の夜。
布団に入っても、なかなか眠れなかった。
先輩の声。
先輩の笑顔。
肩に触れた、あの一瞬。
「……好きだなぁ」
小さく呟いて、枕に顔をうずめる。
伝える勇気は、まだない。
でも、この気持ちを抱えたままでもいい。
――今は、そばにいられるだけで。
そう思いながら、私はゆっくりと目を閉じた。
【第二章 近すぎる距離、触れられない想い】
次の日から、颯真先輩は少しだけ変わった。
――正確に言えば、「私に対して」だけ。
「澪、今日は俺と同じ的使おう」
そう言われたのは、部活が始まってすぐのことだった。
「え、でも……」
「混んでるし、効率いいだろ?」
それ以上反論できず、私は小さく頷く。
同じ的。
それは、立つ位置も、待つ時間も、自然と近くなるということだった。
隣に立つ先輩の腕が、少し動くだけで触れそうになる。
意識しない方が無理だった。
「澪、集中」
小声でそう言われ、私はびくっと肩を揺らす。
「す、すみません」
「謝るなよ」
そう言って、先輩は少しだけ困ったように笑った。
それからというもの、先輩はよく私の様子を気にするようになった。
「昼ちゃんと食べた?」
「最近、無理してないか?」
「疲れてるなら、休め」
その一つひとつが優しくて、でも。
――少しだけ、近すぎる。
他の後輩には、そこまで言わないのに。
「澪」
名前を呼ばれるたび、胸がきゅっとなる。
期待してはいけない。
でも、してしまう。
ある日の帰り道。
校門を出たところで、同じクラスの男子が私に声をかけてきた。
「澪、一緒に帰らない?」
ただのクラスメイト。
特別な意味はないはずなのに――
「悪い、澪は今日は用事ある」
間に割って入ったのは、颯真先輩だった。
「え?」
私も、クラスメイトも、同時に声を上げる。
「部のことで、少し話すから」
先輩はそう言って、私の手首を軽く引いた。
触れた指先が、熱い。
「す、すみません」
クラスメイトが気まずそうに去っていくのを見送りながら、私は混乱していた。
「せ、先輩……?」
「……ああ、ごめん」
手を離した先輩は、少しだけ視線を逸らす。
「澪が誰かと一緒に帰るの、あんまり見たくなかった」
低い声で、そう言われた。
心臓が、どくんと大きく鳴る。
「それって……」
「深い意味はない」
そう言い切るくせに、先輩の表情はどこか強張っていた。
帰り道、二人で並んで歩く。
「さっきのこと、忘れて」
先輩はそう言ったけれど。
忘れられるわけがない。
「澪は……可愛いから」
ぽつりと落とされた言葉に、私は足を止めた。
「変な虫、寄ってきそうで」
冗談みたいな口調。
でも、その目は真剣だった。
「俺が、ちゃんと見てないと」
――ずるい。
そんなこと言われたら、期待してしまう。
でも、先輩は一線を越えない。
触れない。
踏み込まない。
それが、余計に苦しかった。
その夜。
『今日はごめん。嫌だったら、ちゃんと言って』
スマホに届いた、先輩からのメッセージ。
『嫌じゃ、ないです』
そう返すのに、何分もかかった。
画面の向こうで、先輩がどんな顔をしているのか、分からない。
でも。
『じゃあ、安心した』
その一文を見て、胸がじんわり温かくなった。
近いのに、遠い。
甘いのに、もどかしい。
この距離が壊れるのが怖くて、
でも、壊してほしくて。
私はスマホを胸に抱きしめた。
【第三章 先輩の視点――触れない理由】
――正直に言えば。
俺は最初から、澪のことが好きだった。
弓道部に入ってきたばかりの一年生。
緊張した顔で弓を握りしめて、的よりも俺の方を何度もちらっと見ていた。
放っておけなかった。
それだけだ。
「神谷先輩、お願いします」
澪が初めて俺をそう呼んだ日のことを、今でも覚えている。
声が小さくて、でも必死で。
教えたことを一つひとつ、真剣に吸収しようとする姿が可愛くて。
――いや、可愛いなんて言葉じゃ足りない。
守りたくて、独り占めしたくて、
それでいて、触れたら壊してしまいそうで。
俺は三年生。
澪は二年生。
この一年の差が、思っている以上に重いことを、俺は知っていた。
最近、澪を見るたびに胸がざわつく。
他の男と話しているだけで、視線がそっちに向く。
一緒に帰ろうなんて言われていたのを見たときは、正直――
我慢が、限界だった。
だから、間に入った。
理由なんて、後付けだ。
澪の手首を掴んだ瞬間、
細くて、あたたかくて。
――触れたらダメだ。
そう頭では分かっているのに、
離すのが、ひどく名残惜しかった。
澪は、たぶん気づいていない。
俺がどれだけ、触れないようにしているか。
どれだけ、距離を保つのに必死か。
肩に手を置くのも、
名前を呼ぶのも、
全部、理性との戦いだ。
もし、今ここで一線を越えたら。
澪の高校生活を、俺が縛ってしまう。
それだけは、したくなかった。
大会が終わったら、引退だ。
そのときまで、
俺は先輩でいなきゃいけない。
好きだなんて、言えない。
抱きしめることも、キスすることも、
全部――卒業してからだ。
でも。
「俺が見てないと」
そう思ってしまう自分を、
止めるつもりはなかった。
澪が誰かのものになるなんて、
考えたくもない。
だからせめて、
俺の視界の中にいろ。
――それくらいの独占欲は、許してくれ。
【第四章 雨音の中で、縮まる距離】
空が暗くなり始めたのは、部活の終わり頃だった。
「降りそうだな」
颯真先輩が空を見上げて、そう呟く。
その言葉通り、片付けを終える頃には、ぽつぽつと雨が落ち始めていた。
「傘、持ってる?」
「……いえ」
答えながら、少しだけ肩を落とす。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
先輩は当たり前みたいにそう言って、黒い傘を広げた。
相合傘。
それだけで、胸がざわつく言葉なのに。
傘の下に入ると、先輩との距離は思っていた以上に近かった。
肩が触れそうで、でも触れなくて。
雨音が、やけに大きく聞こえる。
「……狭いな」
先輩がそう言って、少しだけ傘を私の方に傾けた。
「濡れないように」
その優しさが、胸に染みる。
でも、先輩は私に触れない。
腕も、手も、ぎりぎりの距離を保ったまま。
――どうして?
期待してはいけないと分かっているのに、
どうしても、考えてしまう。
「澪」
名前を呼ばれて、顔を上げる。
「最近、無理してないか?」
また、その言葉。
「……大丈夫です」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
「そうか」
先輩はそれ以上、踏み込んでこなかった。
雨が、二人の間を埋めるみたいに、静かに降り続く。
校門の前に着いたとき、雨は少し弱まっていた。
「じゃあ、ここで」
そう言って、先輩は立ち止まる。
「ありがとうございました」
そう言うと、先輩は少しだけ眉を下げて笑った。
「風邪ひくなよ」
それだけ。
触れない。
引き止めない。
優しさだけを残して、先輩は去っていった。
残された私は、胸の奥が少しだけ、痛かった。
近かったのに。
同じ傘の下にいたのに。
――やっぱり、私の勘違いなのかな。
そう思った瞬間、雨よりも冷たい不安が、胸に落ちてきた。
【第五章 離れることで、近づく心】
それから、私は少しだけ先輩と距離を取るようになった。
意識して避けている、というほど露骨ではない。
ただ、同じ的に立たないようにしたり、帰りのタイミングをずらしたり。
――それだけ。
なのに、胸はずっと落ち着かなかった。
「澪、最近どうした?」
同級生にそう聞かれて、私は曖昧に笑う。
「別に、何でもないよ」
本当は、何でもなくなんてなかった。
弓道場で、先輩と目が合う回数が減った。
声をかけられることも、名前を呼ばれることも。
そのたびに、
――これでいい。
そう自分に言い聞かせる。
期待して、傷つくくらいなら。
最初から、何も期待しなければいい。
そう思っているはずなのに。
「澪」
背中から名前を呼ばれただけで、心臓が跳ねる。
振り向いてしまう自分が、情けなかった。
「最近、避けられてる気がするんだけど」
放課後、部室の前で、先輩はそう言った。
「そんなこと……」
ない、と言いかけて、言葉を飲み込む。
「俺、何かした?」
真剣な目。
優しい声。
それが、いちばんずるい。
「……いえ」
嘘だった。
でも、本当のことなんて言えない。
「なら、よかった」
先輩はそう言って、それ以上追及しなかった。
その優しさが、胸に刺さる。
帰り道。
夕焼けに染まる校舎を見ながら、私は歩いた。
――先輩は、きっと誰にでも優しい。
私だけが特別だと思っていたのは、
ただの勘違い。
そう思おうとすればするほど、
胸の奥が苦しくなる。
「……好きにならなきゃよかった」
小さく呟いた言葉は、
風にさらわれて消えた。
その日の夜。
スマホが震えた。
『最近、ちゃんと話せてないな』
先輩からのメッセージ。
画面を見つめたまま、指が動かない。
『忙しいなら、無理しなくていい』
続けて届いたその一文に、
胸がきゅっとなる。
――やっぱり、優しい。
でも、その優しさが、
私を一番苦しめる。
返信は、しなかった。
既読をつけないまま、
スマホを伏せる。
それが、今の私にできる精一杯だった。
【第六章 大会前夜、抑えきれない想い】
――おかしい。
澪の様子が変わった理由を、俺はずっと考えていた。
避けられている。
そう感じるのに、嫌われたわけじゃない。
視線は、まだ俺を追っている。
なのに、近づこうとすると、離れていく。
その理由に思い当たったとき、
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
大会前夜。
弓道場には、俺一人だった。
弓を手入れしながら、今日一日のことを思い返す。
澪は、俺と目を合わせなかった。
声をかけても、どこかよそよそしい。
――俺が、何も言わなかったからだ。
触れずに。
踏み込まずに。
大切にしているつもりで、
不安にさせていた。
「……馬鹿だな、俺」
そう呟いたとき、
背後で、戸が開く音がした。
「颯真先輩……?」
澪だった。
「どうした?」
驚きを隠して声をかけると、
澪は少しだけ迷ってから、口を開いた。
「明日……大会なので」
「うん」
「最後だから……」
それ以上、言葉が続かない。
震える指先。
伏せられた視線。
俺は、もう耐えられなかった。
「澪」
名前を呼んで、一歩近づく。
「俺から離れようとしてるだろ」
澪の肩が、小さく揺れた。
「……そんなこと」
「ある」
きっぱり言うと、
澪は唇を噛みしめた。
「俺が、何もしないからだろ」
沈黙。
それが、答えだった。
「……好きだからだ」
気づいたら、そう口にしていた。
「え……?」
澪が顔を上げる。
驚きと、不安と、期待が入り混じった表情。
「触れたら、壊れると思った」
「先輩と後輩で……」
「澪の高校生活を、縛りたくなかった」
全部、本音だった。
「でも、離れていかれるのは……無理だった」
その瞬間、
澪の目から、涙がこぼれた。
反射的に、抱きしめていた。
腕の中の体温が、確かで。
「……ごめん」
耳元で、そう囁く。
澪は、抵抗しなかった。
「……好きです」
小さな声で、そう言われて、
胸がいっぱいになる。
でも、俺は顔を離した。
キスは、しない。
「明日、ちゃんと勝とう」
「それから……全部、話そう」
澪は、涙を拭いて、
小さく頷いた。
その仕草が、
何よりも愛しかった。
【第七章 矢先に宿る想い】
大会当日の朝は、驚くほど静かだった。
目覚ましが鳴る前に目が覚めて、天井を見つめる。
――好きです。
昨夜、口にした言葉が、まだ胸の奥で温かく残っていた。
抱きしめられた腕の感触。
耳元で聞いた、低い声。
キスは、なかった。
でも、それでよかった。
あの人は、ちゃんと私を大事にしてくれている。
そう思えたから。
会場の弓道場は、張りつめた空気に包まれていた。
道着に袖を通し、弓を持つ。
手は少し震えていたけれど、
不思議と心は落ち着いていた。
視線を上げると、
向こう側に、颯真先輩がいた。
目が合う。
ほんの一瞬。
それだけで、胸の奥が、すっと静まった。
――大丈夫。
そう、言われた気がした。
一本目。
呼吸を整え、弓を引く。
頭に浮かぶのは、
昨日の夜の弓道場。
「好きだからだ」
その言葉が、背中を押してくれる。
矢を放つ。
乾いた音。
的の、中心。
「……っ」
思わず、息を詰めた。
次の矢も、その次も。
私は、自分でも驚くほど集中できていた。
結果発表。
団体――準優勝。
一瞬、悔しさが胸をよぎったけれど、
すぐに、それ以上の感情が込み上げる。
「よくやったな」
颯真先輩が、私の前に立った。
その目は、誇らしげで、優しくて。
「先輩のおかげです」
そう言うと、
先輩は小さく首を振った。
「澪自身の力だ」
その一言で、胸がいっぱいになった。
夕方。
大会が終わり、三年生は正式に引退となった。
弓道場で、最後の挨拶。
「今まで、ありがとうございました」
そう言う先輩の背中を、
私は、まっすぐ見つめていた。
――終わりじゃない。
そう、信じたかった。
【最終章 春、ふたりのはじまり】
先輩が卒業してから、
季節はゆっくりと春へ向かった。
連絡は、続いていた。
短いメッセージ。
時々の電話。
「元気?」
それだけで、一日が明るくなる。
桜が咲き始めた頃。
「会える?」
先輩から届いた、その一言。
胸が、跳ねた。
待ち合わせは、あの弓道場だった。
「久しぶり」
制服じゃない先輩は、
少しだけ大人びて見えた。
「……はい」
ぎこちなく笑う私に、
先輩は照れたように目を逸らす。
「改めて、言わせて」
真剣な声。
「俺は、澪が好きだ」
「これからは、ちゃんと恋人として、そばにいたい」
胸の奥が、熱くなる。
「……私もです」
そう答えると、
先輩は、そっと近づいてきた。
今度は、逃げなかった。
唇が、触れる。
やさしくて、慎重で、
大切にするみたいなキス。
春の風が、二人の間を通り抜けた。
放課後、弓道場で始まった恋は、
これからも、続いていく。
まっすぐに、
同じ未来を見つめながら。


