この国の人々は、あの天蓋の下で、エアモンと共に笑い、共に歩み、共に人生を過ごしているのだろう。それが、この国の「日常」なのだ。
なんという豊かさだろう。
なんという幸福だろう。
妖精は、レスター三世の表情の変化を敏感に感じ取り、その小さな手でレスター三世の頬をそっと撫でた。
皺だらけの、老人の頬を。
「大丈夫だよ」と言うかのように。「いつでもまた会えるよ」と言うかのように。
その仕草があまりにも優しくて、レスター三世は喉の奥が詰まるのを感じた。
レスター三世は、その小さな手に自分の手を重ねた。
節くれだった、老人の手を。
胸の奥の温もりが、ほんの少しだけ熱くなった気がした。
◇
従者たちも、それぞれに眼鏡を渡されていた。
騎士団長は、妖精を見た瞬間に剣の柄に手をかけ、次の瞬間には呆然と口を開けていた。
枢機卿は、膝から崩れ落ちて祈り始めていた。
若い従者は妖精に話しかけ、話が通じたことにおののいていた。
誰もが、それぞれの形で衝撃を受けている。
ミーシャは、その光景を微笑みながら見守っていた。
――かつての自分も、初めてこの光景を見たときは、きっと同じ顔をしていたのだろう。
そう思いながら、彼女は静かに呟いた。
「ようこそ、大アルカナ王国へ」
その声には、心からの歓迎が込められていた。
◇
レスター三世は、眼鏡をかけたまま、もう一度この国の景色を見渡した。
花びらが舞い、妖精たちが踊り、天に向かって青い炎が脈動する世界――。
美しかった。
あまりにも美しかった。
しかし今は、その美しさの中に、別の感情が混ざっていた。
羨望。
そして――慚愧。
『冒険者の作った貧民の国』そう嗤っていた自分の姿が、脳裏に蘇ってきた。
あれは、いつのことだったか。大アルカナ王国の噂を初めて耳にした時、レスター三世は鼻で笑った。「冒険者崩れが国を作った? そんなものは長続きせん。内政なめるなよ?」と。側近たちも同調した。
誰も、この国の本当の姿を知ろうとはしなかった。
知らないまま見下し、嗤っていた。
なんと愚かだったことか。
涙が、滲んできた。
悔恨の涙だった。
思い返せば、数十年王国を率いながら、自分は何をやっていたのか?
どこまでも続く権力闘争。貴族たちの陰謀、派閥の駆け引き、暗殺の噂。毎日毎日、誰かを蹴落とし、誰かに蹴落とされまいと足掻いていた。
そして、奪い取った権力で実現していく豪奢な暮らし。金糸の錦、宝玉の冠、山海の珍味。民が飢えていても、王宮の宴は絶えることがなかった。
ただ、それだけだ。
それだけの人生だった。
何を成し遂げた? 何を残した? 何を創り上げた?
――何もない。
そんな先の見えない生活で心をすり減らし、気づけばでっぷりと太った醜い身体で老醜をさらすばかり。
鏡を見るたびに、そこには父の面影も、若き日の精悍さも見当たらなかった。ただ、脂肪に埋もれた小さな目と、二重三重に垂れ下がった顎があるだけだった。
それが、六十年の成果だ。
それが、王としての自分だ。
レスター三世は、拳を握りしめた。
レスター三世は今回の訪問で何かを持ち帰らねばと心を新たにした。
このままでは終われない。
終わってたまるものか。
妖精が、心配そうにレスター三世の顔を覗き込んでいた。「どうしたの?」と言わんばかりに、小首を傾げている。
レスター三世は、無理やり笑みを作った。
――大丈夫じゃ。ワシは、まだ終わっておらん。
何とかこの若造たちに一矢報い、何かを得て凱旋せねばならなかった。
それは、国のためだけではない。
自分自身のためだ。
六十年の人生を、無駄ではなかったと証明するために。
まだ、何かを成し遂げられると信じるために。
レスター三世は、天蓋を見上げた。
あの巨大な構造物は、かつての自分には理解できないものだった。しかし今は違う。あれは、誰かの夢の結晶なのだ。誰かが「こんな世界を作りたい」と願い、その願いを形にしたものなのだ。
きっとそれは国王なのだろう。新たな国のリーダーとして旗を掲げた冒険者レオン――。
くっ、見事だ……。
自分にも、できるだろうか。
今からでも、遅くはないだろうか。
その答えは、まだ分からない。
しかし、問いかけることはできる。
それだけで、今朝までの自分とは全く違うのだから。
妖精が、レスター三世の肩にそっと降り立った。
小さな重みが、不思議と心強かった。
「さあ、参りましょうか」
ミーシャの声が、物思いを破った。
「まだまだ、ご案内したい場所がたくさんございますの」
その言葉に、レスター三世は頷いた。
この国にはまだ見ぬもの、学ぶべきことが、山ほどあるのだろう。
老いた身体に鞭打って、すべてを吸収してやる。
そして――何かを、持ち帰る。
必ず。
なんという豊かさだろう。
なんという幸福だろう。
妖精は、レスター三世の表情の変化を敏感に感じ取り、その小さな手でレスター三世の頬をそっと撫でた。
皺だらけの、老人の頬を。
「大丈夫だよ」と言うかのように。「いつでもまた会えるよ」と言うかのように。
その仕草があまりにも優しくて、レスター三世は喉の奥が詰まるのを感じた。
レスター三世は、その小さな手に自分の手を重ねた。
節くれだった、老人の手を。
胸の奥の温もりが、ほんの少しだけ熱くなった気がした。
◇
従者たちも、それぞれに眼鏡を渡されていた。
騎士団長は、妖精を見た瞬間に剣の柄に手をかけ、次の瞬間には呆然と口を開けていた。
枢機卿は、膝から崩れ落ちて祈り始めていた。
若い従者は妖精に話しかけ、話が通じたことにおののいていた。
誰もが、それぞれの形で衝撃を受けている。
ミーシャは、その光景を微笑みながら見守っていた。
――かつての自分も、初めてこの光景を見たときは、きっと同じ顔をしていたのだろう。
そう思いながら、彼女は静かに呟いた。
「ようこそ、大アルカナ王国へ」
その声には、心からの歓迎が込められていた。
◇
レスター三世は、眼鏡をかけたまま、もう一度この国の景色を見渡した。
花びらが舞い、妖精たちが踊り、天に向かって青い炎が脈動する世界――。
美しかった。
あまりにも美しかった。
しかし今は、その美しさの中に、別の感情が混ざっていた。
羨望。
そして――慚愧。
『冒険者の作った貧民の国』そう嗤っていた自分の姿が、脳裏に蘇ってきた。
あれは、いつのことだったか。大アルカナ王国の噂を初めて耳にした時、レスター三世は鼻で笑った。「冒険者崩れが国を作った? そんなものは長続きせん。内政なめるなよ?」と。側近たちも同調した。
誰も、この国の本当の姿を知ろうとはしなかった。
知らないまま見下し、嗤っていた。
なんと愚かだったことか。
涙が、滲んできた。
悔恨の涙だった。
思い返せば、数十年王国を率いながら、自分は何をやっていたのか?
どこまでも続く権力闘争。貴族たちの陰謀、派閥の駆け引き、暗殺の噂。毎日毎日、誰かを蹴落とし、誰かに蹴落とされまいと足掻いていた。
そして、奪い取った権力で実現していく豪奢な暮らし。金糸の錦、宝玉の冠、山海の珍味。民が飢えていても、王宮の宴は絶えることがなかった。
ただ、それだけだ。
それだけの人生だった。
何を成し遂げた? 何を残した? 何を創り上げた?
――何もない。
そんな先の見えない生活で心をすり減らし、気づけばでっぷりと太った醜い身体で老醜をさらすばかり。
鏡を見るたびに、そこには父の面影も、若き日の精悍さも見当たらなかった。ただ、脂肪に埋もれた小さな目と、二重三重に垂れ下がった顎があるだけだった。
それが、六十年の成果だ。
それが、王としての自分だ。
レスター三世は、拳を握りしめた。
レスター三世は今回の訪問で何かを持ち帰らねばと心を新たにした。
このままでは終われない。
終わってたまるものか。
妖精が、心配そうにレスター三世の顔を覗き込んでいた。「どうしたの?」と言わんばかりに、小首を傾げている。
レスター三世は、無理やり笑みを作った。
――大丈夫じゃ。ワシは、まだ終わっておらん。
何とかこの若造たちに一矢報い、何かを得て凱旋せねばならなかった。
それは、国のためだけではない。
自分自身のためだ。
六十年の人生を、無駄ではなかったと証明するために。
まだ、何かを成し遂げられると信じるために。
レスター三世は、天蓋を見上げた。
あの巨大な構造物は、かつての自分には理解できないものだった。しかし今は違う。あれは、誰かの夢の結晶なのだ。誰かが「こんな世界を作りたい」と願い、その願いを形にしたものなのだ。
きっとそれは国王なのだろう。新たな国のリーダーとして旗を掲げた冒険者レオン――。
くっ、見事だ……。
自分にも、できるだろうか。
今からでも、遅くはないだろうか。
その答えは、まだ分からない。
しかし、問いかけることはできる。
それだけで、今朝までの自分とは全く違うのだから。
妖精が、レスター三世の肩にそっと降り立った。
小さな重みが、不思議と心強かった。
「さあ、参りましょうか」
ミーシャの声が、物思いを破った。
「まだまだ、ご案内したい場所がたくさんございますの」
その言葉に、レスター三世は頷いた。
この国にはまだ見ぬもの、学ぶべきことが、山ほどあるのだろう。
老いた身体に鞭打って、すべてを吸収してやる。
そして――何かを、持ち帰る。
必ず。



