最高190センチ

「おー、すげ、これが車椅子か」

 クラスメイトたちが車椅子になった小島の周りに集まり、わいのわいのと騒いでいた。

「初めて見たかも」「小島が乗ると王様っぽいな」「触ってみてもいい?」

 退院してきたばかりの小島は、終始笑顔だった。
 病院でずっと練習していたのかと思えるほどの大きな笑顔。しかもそれを絶えず張り付かせ、凱旋パレードでさえもう少し表情に休む隙がありそうなものだが。

 しかしそのおかげで、クラスメイトたちから心配の色はすっかり消えていた。

 二週間。あの夜に小島が交通事故に遭ってから、今日でちょうどそれだけの日が過ぎていた。
 俺がその事実を知ったのは、翌日の朝礼で担任から告げられた時。

 一向に事実を飲み込めなかった。あんなデカい小島が交通事故? 逆に突き飛ばす側じゃないかと思ったが、当然ながら小島もただの人間だったということだ。

 とはいえ、小島の有り余る生命力のおかげで退院は早く、戻ってきた初日から周囲は小島に質問攻めだ。
 やれ手術はどうだったかだの、看護師さんは可愛かったかだの、中にはそんな質問に怒りながら泣きべそをかいている女子もいた。
 転校してきたばかりのくせに、まるで長年の幼馴染が倒れたかのような顔をする女子がちらほらといた。あれは俺じゃあ決して起こり得なかったことだ、けしからん。

「いや、あん時の朝礼の担任(フクちゃん)の言い方よ。まじで死んだみたいな空気になってさ」
「はは。うちのお袋がパニックになって、担任にすごい勢いで電話したらしくて」
「なんにせよ無事でよかったよ、まじで。こいつ泣いてたんだからなー」
「それ言うなし……」

 そんな小島と周囲のやり取りを、少し離れた場所からぼんやり眺める。
 ……小島がクラスにいると、教室の色が少し違うな。
 そんなバカみたいな感想が一瞬頭をかすめると、気付けばクラスメイトの別の女子がむしろ俺の方を心配そうに見ていた。

「矢壁くん、いいの? 小島くんが一番話したいの、矢壁くんだと思ったけど」
「へ? そうなの?」
「どう見たってそうでしょ。小島くん、矢壁くんと話す時だけ全然違うし」
「はぁ。んじゃ、あとでライン送っとくか」
「ラインじゃなくてちゃんと話しなって」

 ぺこ、と頭に軽いチョップを入れられてしまった。
 俺のことを怖がる女子が多かったから、こんなふうに絡まれるなんてちょっと珍しかったと思う。

 そんなやり取りのせいで、小島と俺の目が合ったのはすぐだった。

「なにジロジロ見てんだよ、矢壁」
「いや、背縮んだ? 半分くらいになってない?」
「バカお前、車椅子」

 俺と小島が話すと、クラスがちょっとだけ沸く。
 なんだか遠く離れた灯台同士が、お互いにしかわからない合図を送り合っているみたいな。これまでも小島とはそんな会話が多かったように思う。

 でも、そんなやり取りを楽しみにしているクラスの連中がいつの間にか増えていた。
 小島が俺の前に現れてから、なにもかも変わっていたんだなって。

「また、すぐ立てるようになるんだろ」

 そう訊ねると、小島はさっきまでの〝凱旋パレード〟の笑顔を捨て、違う表情を見せつけた。

「ああ。矢壁の背、抜いてると思う」

 またデカくなんのかよ。
 口の端を持ち上げて笑った小島は、今日一番誇らしげな顔を見せていた。

 ◇

 小島が退院してからというもの、俺たちはいつの間にか夜の海岸に行くことをやめていた。
 いや、何度か行こうという雰囲気にはなったのだ。海岸なんて学校からすぐなのだから、車椅子だって俺が押してやればいい。
 けれど小島は「勉強に専念する」と言い出して、やがて俺たちの夜に会う習慣は途切れるようになった。

「まあ、あいつがまたバスケできるようになる頃には……きっと夏だもんな」

 適当に拾った石を夜の海に向かって放り投げた。

 夏。高校三年生の俺たちにとって、大学受験がいよいよ現実味を帯びてくる時期だ。
 そこそこの大学を目指す俺はまだしも、あんな超難関大学を目指すと言った小島がこれから夜遊びするなんてことは、もうほとんどないだろう。まして、あいつは夜に交通事故に遭ってしまった身だ。

 そうして、真っ黒い海を一人で眺める日々がまた戻ってきた。
 夜の海は暗い。吸い込まれそうになる。あそこから無数の手が伸びてきそうだと、何度も想像したことがある。

 だから視線は別の場所へ逸らそうと、暗くなるといつもスマホの画面に集中した。
 それがゲームだった。だけど今はもうやっていない。
 あれだけやり込んでいたはずなのに、なんでやめたんだっけな。

 今の視線は、夜空の方に向いていた。

「スピカ、アークトゥルス……」

 星は、赤いよりも青い方が熱いらしい。
 月は、綺麗だけど裏側がボコボコらしい。
 小島のうんちくを毎日のように聞かされていたんだ。天体に興味なんてなかったはずなのに、自然と首が空を向くようになってしまった。

 そんな時だった。

「あ、ほんとにいた。おーい、矢壁くーん」

 暗闇の中から、聞き覚えのある声がやってきた。
 クラスメイトの女子三人組がこちらへ近づいてくる。

「あれ? お前らなんでここに」
「ウチら、この近くのカフェ行っててさ。なんとなく海寄ってこーよって話になって」
「へぇ、でも今日ちょっと寒いだろ」
「平気平気。バスケするから」
「バスケ?」
「ほら、ここのバスケコート、いっつも夜は『都庁コンビ』が使ってるじゃん。邪魔しちゃ悪いと思ってたけど、最近二人とも使ってないもんね。今日は女バスが使うよー」

 なんと、俺と小島が夜な夜なバスケをやっていたことはクラスメイトにも知られていたのか。デカい二人なんだからそりゃ目立つか。

「悪い。譲ればよかった」
「あはは、いいのいいの。夜は使わないし、今日はたまたま」
「あー、でもウチら三人だから矢壁くんも一緒にバスケやらん?」
「え」
「よし決まり。ウチら下手だからちょー手加減して! 右手使用禁止!」

 なんてこった。クラスメイト、それも体格があまりに違う女子相手にバスケなんて大丈夫だろうか。
 俺は電柱、俺は電柱。そう念じて突っ立っているだけでディフェンスになると思っていたが、女バスの動きが思いのほか鋭く、あれよあれよと点を取られあっけなく負けてしまった。

 別につまらない時間ではなかった。
 それでも、悔しいという感情は少しも湧いてこなかった。
 掻いた汗は借り物の身体から流れたものみたいで。
 小島と同じスポーツをしていたとは思えず、ぼんやりしていたところをチームメイトに何度怒られてしまったことか。

 やがて夜が一層深まり、皆で駅へ向かって歩いている途中、ある女子がふとこんなことを訊ねた。

「そういえば矢壁くん、小島くんのケガの話ってどこまで聞いてる?」

 するともう一人が彼女をつつき、「全部知ってると思うよ」とつぶやく。
 しかし俺は本当になにも知らなかった。

「ん? いや、別になにも聞いてないけど」
「あれ、そうなの? いや、ウチの母親、小島くんのお母さんと仲良くて。色々聞いちゃったんだけど」

 彼女は視線を落とし、少し早口にこう言った。


「小島くん、足はもう完全に治らないんだって」


 近くを走り抜けた車が、ぐん、と低い唸りを残して遠ざかっていく。
 それから遅れて静けさが戻ってくると、彼女の言葉がじわりと身体の中へ染み渡っていった。

「……え……?」
「結構ひどい事故だったみたいで。あ、でも普通に立って歩く程度なら大丈夫らしいよ? ただ、小島くんって前にバスケやってたらしいじゃん? 矢壁くんともバスケしてるっていうし、平気だったかなって……」

 聞いてない。あいつはずっと、いつも通りに振る舞って……。

 ……なんで、言わなかった?

 言う必要がなかったから? 小島がバスケやスポーツを本気でやっていくなんて話は一度もなくて、だからあいつにとってそれは重要じゃなくて……。

 いや、……それは絶対に違う。

「ていうか二人とも、そういう話あんましないんだね? ちょっと意外っていうか」

 なんで小島が言ってくれなかった、じゃない。
 なんで〝俺が〟小島のことを、知ろうとしなかった。

 ぼんやりぼんやりと日々を過ごして。
 でも、小島がやってきてから日常がちょっと変わったなんて思った。
 そんな変化を当たり前に享受し、小島が夜の海に行かなくなったことさえ、そんなものかと疑問もなく受け入れていた。

 俺を引っ張り出したのは、俺じゃない。あいつだろ。
 なのにそんなことすら忘れて、虫みたいに甘いところだけ吸って、小島の様子がちょっとおかしくなった途端に、はいそうですかって。

 ……なんかそれ。
 すげぇ、イヤだ。
 だってそれ、ずるくないか。

 俺はあいつのこと、全然知ろうとしていなかったんだろ。

「悪い、忘れ物した」

 そんなウソをついて、夜の道を駆け出していた。

 あの真っ黒い海にも、あのコートにも、もう未練はなくなっていたはずなのに。
 今、それがどうしても必要になった。

 さっきのバスケよりもよっぽど息を切らし、再び海岸へと辿り着く。
 されどそこに待ち人はない。答えもない。半分ヤケでやってきてしまったんだから、当然だ。

「っつったって……どうすりゃいいんだ……?」

 小島の考えていることがわからない。
 人との関わりを避けてきた俺だ。人の変化に気づく感受性に乏しく、今になってそのツケが回ってきてしまった。
 小島のことを考える時間はいくらでもあったはずなのに、バカみたいだ。

 ……いや、でも構わない。俺には切り札のような〝便利な力〟がある。

 視界共有(サイト・シェア)

 小島の視界を覗けば、あいつがなにを考えているのかわかるはずだ。
 あいつがもし助けを必要としているなら、それを叶えてやることだってできる。

 使い方は簡単。目を閉じ、心の中で扉をひとつ開くように念じればいい。
 あいつにバレることはない。デメリットだってない。

 だけど。

「……いや、……違うわ」

 その力を与えた神様が、にっこり笑ってくれたような気さえしたのに。
 なのに不思議と俺は、それを拒んでしまった。

 本当にどうしてだろう。
 多分、星空がバカみたいに綺麗で、こっちを見ろってほっぺたをつねってきたから。

 スピカ、アークトゥルス、デネボラ。
 春の大三角を指でなぞり、名前を読み上げ、それ以外の星のいくつかも今は言えそうだった。

 神奈川からでも星ってこんな見えるんだな。いや、ゲームをやめて目がよくなっただけか?

 ともあれ小島がしていたように砂浜に横たわり、満天の空を見上げた。
 制服は一瞬で砂まみれだ。あの時はそれがイヤで突っ立ったままだったのに、今は不思議と気にならない。むしろこの地球にぺたりとくっついたような気がして、その感覚が心地よかった。

 星空へ手を伸ばそうとしていた小島の姿を思い出す。
 寝転がった俺が想像したあいつの立ち姿は、やたらとデカいんだ。


 ――「ああ、高すぎる。ギリギリだ。でもそれがいい」


 ――「その中で一番高い視点を手に入れられる。それが190センチだ」


 あの時の小島の言葉が再生された。

 ……いや、それって。

 俺の中でなにかが灯された気がすると、身体は勢いよく立ち上がっていた。