今週の怪獣対策当番

教室の前で一度立ち止まって、深呼吸で気持ちを落ち着かせる。

この日も「なにも変なことがありませんように」と心で唱えながら教室のドアを開けると、中から同じくドアを開けようとしていた足立さんと対面する形になった。

「あ…おはよう…」
「ワッ、おはよう!めずらしい、海野くんが挨拶してくれた!!」

足立さんの明るい声とは裏腹に、早朝の教室の空気は凍り付いた。
クラス中が驚愕と嫌悪の視線を向けてくる。

あぁ、自ら『変なこと』を引き起こしてしまった。
女子に「おはよう」と挨拶してしまうなんて…
しかもクラス一人気者の足立さんに…

「え、なにお前?いまなんて言ったの?」

椅子から乱暴に立ちあがった安田が詰め寄って来て、ボクの胸ぐらを掴み上げた。
バスケ部の安田に掴まれると、自分みたいなチビはつま先立ちにならざる得ない。

「あーあ、安田くん怒らせた」
「怒っててもカッコイイよねぇ」
「安田くんやっちゃえ、やっちゃえ」

長身で比較的顔も整っている安田はクラスの女子から声援を受けている。
矮小で卑屈な悪者(ボク)をやっける、正義のヒーロー参上。

…いや、ただひとり非難の声を上げている女子がいた。

「やめてよッ!!海野くん挨拶しただけじゃん!!」

「足立は黙ってろよ!!」
足立さんの声で安田の手にはさらに力がこもった。

「俺は別にッ…」

口に出してから、しまったと思った。
ここ最近、昼休憩に足立さんから話しかけられたことで、自分が思っている以上に浮かれていたらしい。

「はぁ?こいつ女子の前でカッコつけてんの?」

自分も小学校低学年くらいで、周りの男子と同じように一人称が「ボク」から「俺」に変わる時期があった。

「なんか海野が『俺』って言ってるの生意気じゃね?」

当時クラスのボス的存在からの、たった一言でボクの『俺』は禁止用語となって封印された。

ドスンッとお腹に痛みを感じて、身体がくの字に曲がる。
息ができない、熱い、安田がボクの胸ぐらをつかんだままボディブローを叩き込んでいた。
「ゲプッ!」
胃から朝食がせり上がってくる。

「うわッ汚ねぇ!!」

急いで腕を引っ込めた安田は間一髪でそれを避けた、胃液混じりの朝食だったものは、ボタボタと教室の床に広がった。

侮蔑と嘲笑の視線がさらに強くなった教室で、朝から自分の吐しゃ物を掃除する羽目になったが、ともかく安田の暴力と糾弾からは解放された。

「なにしてんの、柚乃が気にすることじゃないよ」
「柚乃が優しいからアイツ調子乗ってんだよ?」

心配してボクに声をかけようとした足立さんが、クラスの女子に囲まれて連れて行かれる姿が見えた。


対策当番3日目。


<チェック項目①:怪獣の身体が線から出てないかチェックする>

校庭の隅に行くと、確認するまでも無かった。
遠目から見ても、尻尾が線から完全に出ている。

<チェック項目②:怪獣の体温を計って変化がないかチェックする。>

43.6℃

人間の体温を超えた。

<チェック項目③:怪獣を周囲から5分間観察して気になることはないかチェックする。>

怪獣の顔の近くまで行くと、生暖かい風が顔に当たった。

「メッチャ息してるじゃん…」

その呼吸に合わせて、ゆっくりと背中が上下していた。

さすがに見過ごせない【異常】だ、加藤先生のところに報告に行かないと…

職員室に入るのは、すごく嫌いだった。

重苦しいドアを開けて「失礼します」と声をかける。
各教師たちは、それぞれ作業の手を止めることはなかった。
意識だけをドアに向けて「職員室に来るなんて、なにを悪いことした生徒だ?」と考えている、そんな気がした。

「あの、加藤先生…」
テストの採点をしていた先生は、一瞬チラリとボクを見て「なんだ」と言ってまた答案に戻った。

「怪獣が息をしていました」
「そりゃ生きてるんだから息くらいするだろ」
「いや…いつもよりしてて、尻尾が線から出てたし、体温も高くて…」

ハァッとこれみよがしなタメ息をついた加藤先生は、面倒くさそうにイスを回転させて、やっとこちらを向いた。

「あのなぁ海野、怪獣はもう30年以上も動いてないの。それなのに昨日今日で急に動くわけないだろう?」

お前のチェックがいい加減だから、そんなことになるんだと怒られた。

いい加減にやってるなら、わざわざこんなところに来るもんか…。

「この際だから言うけどな、海野。お前いっつもボーッとして先生の話を聞いてないだろ。このままじゃお前、社会に出てから通用しないぞ」

目の前が真っ暗になった。

言われたことをしただけなのに。

ここにきた理由とまったく関係ない話で、自分の人生を全否定された。

くやし涙がこぼれそうになった。
なにか口を開けば我慢出来なそうで、その場を走り去った。

「オイ海野!まだ話は終わって…!!」
「お前…んなッ…だからッ…!!」
「かえッ…こいッ…!!」

背後で神経質な怒声が響いていた。

「やっぱり、どう見ても動いてるじゃん…」

校庭の隅に戻ってみると、ずっと寝ているハズの怪獣は、その瞼すら開けていてボクを驚かせた。
巨大でうつろな眼球に、ボクの姿が反射している。

ギュルルルルル…怪獣のお腹のほうで低い唸り声ような音がした。
お腹を空かせているらしい。

ボクは学校の近所にあるゴミ取集場所から、生ゴミの袋を全部持ってきて怪獣の口に放り込んでみた。

最初はゴミの中から食べれそうな物を選り分けようと思ったけど、袋を開けた瞬間臭すぎてやめた。

「食べるかな?」

ゆっくりと咀嚼しゴミを飲み込んだ怪獣は、もっと寄越せと口を開く。
生ゴミと長年熟成したカビた空気が混じって、ヒドイ臭いだった。

「わかったわかった、明日なにか持ってきてやるから」

とは言ったものの、今回の件でこの怪獣対策当番は、本当に意味のない形だけの物なんだと確信した。

おそらく対策ノートも「記入しました」「チェックしました」という体裁だけで、誰も内容なんて気にしていないんだ。

…やめてしまおうか。

いや、逆に最後までしっかり記録して、立派に怪獣対策当番をやり切ってやろう。

誰もその存在を気にしようとしない、巨大な粗大ゴミのような怪獣を、ボクだけはちゃんと見届けてやろう。

怪獣に自分の境遇を重ねたのか、同情したのか、ボクは変な意地になっていた。

ギュオォーン…

もうとっくに昼休憩は終わっている。

教室に戻ろうとするボクに、怪獣が悲しげな鳴き声を上げた。

「また来るって、あと白い線から出ないようにして、ボク以外の人間が居るときは、あんま動くなよ?」

ギュオォーン

今度のは返事だろうか?