まだ、春を知りたくない。——いちばん近くて、いちばん遠い君

 私は春が嫌い、だけど好き。
 春って、なんだか、深く知ってしまったらいけない気がする。
 春って、みんなをたぶらかす。
 春って心地よいかと思えば急に冷たくなったりして、鬱陶しい。
 私は春をまだ、知りたくない。
 でも、やっぱりもっと知ってみたい。


 。❀·̩͙꙳。Ohno_Shun。❀·̩͙꙳。


 「好きです!付き合ってください!」
 「こんな俺で良ければ。」

 そんな声がテレビから聞こえてくる。
 その甘い雰囲気が鬱陶しくてリモコンを手に取って乱暴にボタンを押す。
 俺にはこんな青春が訪れることもなければ、こんな想いを抱くこともないだろう。
 菖蒲第一中学校2年生、吹奏楽部所属、彼女なし歴=年齢の俺、大野(おおの)は今日もだらだらとテレビを見ている。
 来週からテストだというのに俺のやる気は1向に出ず、ソファに寝っ転がりながら、適当にテレビを見て、お菓子を食べてゲームをして…なんていうとってもテスト前だとは思えない過ごし方をしている。
 だって頑張ったって仕方ないじゃないか。
 辛い経験をしたわけではないが、そういう話をきく。出る杭は打たれるだとか、努力は全部無駄になるだとか。そうだろう?だから俺は何もしない。
 とりあえず俺はまぁ、今を楽しく生きたい。


 。☾·̩͙✧。Hara_Marino。☾·̩͙✧。


 「(はら)ー。ごめん今日遅れる。」
 朝8時ぴったり。
 そろそろ大野の家まで迎えに行かないとなと思い家を出ようとした瞬間、そんなメッセージが大野から来た。
 「はぁ?無理なんですけど。1分で準備しろ」
 私、原まりのは乱暴にメッセージを返して大野の家まで足を運ぶ。
 大野はいつだってマイペース。
 私の家と大野の家は公園を挟んでいるだけだからとても近い。
 だから私は、朝起きるのが苦手な大野を毎日迎えに行っている。
 桜が満開で、とっても気分がいい。
 春は大野にぴったりの季節だ。
 桜の花びらがスマホの画面に落ちてきて、そっと払ってから、
 「始業式に遅れるとかやばいから急げ」
 私はさらに追いメッセージをする。
 今頃大野は結構頑張って急いでいるんだろうなと思う。
 大野はずっと幼馴染の男子。
 いつも笑顔をはっつけて、本心はよくわからない。
 かといってフレンドリーで人気者ってわけではなくて、ずっとへらりとした笑顔を貼り付けている。大野は全く八方美人をしなくて、少し冷たいように感じるが普通に面白い人間だ。
 大野の性格は?って聞かれても、とりあえずマイペースで、他は大野は大野だよねって感じ。
 そんなことを考えていたら大野の家の前に着く。
 ぴんぽーん
 気の抜けたチャイムの音が鳴る。
 バタバタバタっと音がした後に思いっきり扉が開かれる。
 扉の前に立っていた私は思わずびっくりして後ろに倒れそうになる。
 「あ、やべ」
 大野の声が聞こえたかと思えば、大野の顔が目の前にあった。
 「うわ」
 大野がパッと私の手を離す。
 一応大野が私が倒れるのは阻止してくれたらしいが。
 レディに対する態度がそれ?
 「大野!遅れたくせに、か弱いレディにそんなことすんな!」
 私は大野に怒ってやる。
 「あーはいはいすんませーん。いやでも原は、か弱くもなければレディでもないだろw」
 大野がへらりと笑う。
 「はぁ!?」
 大野のその発言にイラっと来た私は思わずイラつきを全面に出してしまう。
 「あー、やべ。」
 目線をゆらゆら泳がせた大野は私の腕時計に目を止め、
 「あ、時間!」
 と、思いついたように言った。
 つられて時計を見れば現在8時10分。
 登校時間は8時15分までだから、このままでは遅刻してしまう。
 大野は笑って、
 「俺のチャリ乗ってこ」
 と言う。
 「はぁ!?校則違反よ!!」
 思わず叫んだ私の口を塞いで、後部座席に座らせてくる。
 「まりの様のことは遅刻させません。どうぞお座りくださいませ。」
 と、謎の紳士風の大野が言ってくる。
 思わず赤くなってしまった頬を隠すようにマフラーを引き上げ、
 「全力で走りなさい!」
 と言いながら大野の背中を叩く。
 「ふーい。がんばりまーす。」
 いつもの調子に戻った大野は自転車を漕ぎ始めた。
 驚くほど綺麗な桜並木。春の心地よい風が頬を撫でていく。
 大野の呼吸が近くに聞こえて、なぜだか心がくすぐったくなった。
 今日から新学期。ワクワクよりも大野が上手くやっていけるかが不安になる。まぁなんとか上手くやるんだろう。
 時たま大野の頭に降ってくる花びらを払いながら、私達は学校へ向かった。


 。❀·̩͙꙳。Ohno_Shun。❀·̩͙꙳。


 「おーい。原ー、早く帰ろうよー。」
 俺は原に声をかける。
 今朝はなんとか学校に間に合った俺たちは、下駄箱に張り出されたクラス分けの紙を確認して、それぞれのクラスへと向かった。
 始業式の日は午前授業だけだし、今日は早く帰れる。
 帰ったら原とゲームでもするか。
 なんてことを考えながら原が帰りの準備を終えるのを待つ。
 「ごめ、先帰っててもらってもいい?」
 来て早々、原がそんなこと言うからびっくりした。
 「えーなんで?」
 俺が尋ねると、
 「今日部活ないけど部室は開いてるから、チューバの手入れしたい。あと、ユーフォ吹きたいから。」
 と、原が急に真面目なことを言い出した。
 「え、部活行くの?」
 俺のそんな問いにこいつバカなの?って顔をしながら原が俺の手を引っ張って歩き出す。
 「えー行きたくない。てか手離しなよ。」
 「いいの!!手離したらどうせ逃げるでしょ!」
 そういう原の耳が少し赤っぽく見えた。
 頑固な原はもう何を言っても俺を部活に引っ張っていくんだろう。
 俺は文句を言わずに着いていくことにした。
 「早くユーフォ出して。」
 音楽室についた途端、原がそんなことを言ってくる。
 「どれ使うの?」
 ここの音楽室にはユーフォニアムが3台もあるからどれがいいか聞いた。
 「大野がいつも使ってるやつどれ?それでいいよ。」
 「ふーい。」
 俺がいつも使ってるユーフォニアムは美しいほどのシルバーだ。
 普通のユーフォより輝きがまろやかで美しい。
 さすが高級ブランド。
 まぁかなり綺麗だから原がいっつも鏡がわりに使ってくるのはなんとも言えないけど。
 「大野、試し吹きしといて。」
 原がチューバの管を抜いて手入れをしながら言ってくる。
 「ふーい。」
 返事をした俺は2週間ぶりくらいにユーフォを吹いた。
 ちゃんと全ての音が出るか確認しながら、ユーフォニアム特有の、柔らかくも力強くて雄大な音に耳を澄ませる。
 俺はまだまだユーフォの最大の力を引き出せるような奏者じゃないけれど、ユーフォニアムの出す音にはなんだか心が安らぐ。
 「おぉ〜。やっぱり大野は良い音を出すねぇ。」
 しみじみした声で原が言う。
 「え、そう?ありがと。」
 俺はそう言いながら原にユーフォを渡した。
 「原の方が柔らかくて良い音だよ。」
 俺は本心を伝えておく。
 どちらかといえば俺は、チューバの方が肺活量的には合っている。
 息を吐いて、大きく吸った原が、吹き始める。
 俺よりも柔らかくて、音階の動きも滑らかで。
 ユーフォが原のことを気に入っているんじゃないかと疑ってしまうほど、原の音は良い。
 原の音に耳を澄ませていたら、俺はあることに気づいた。
 「あ、マッピ変えてないけど大丈夫?」
 マッピとは楽器の口をつける部分のマウスピースのことだ。
 普通は1人1つ持っていて、誰かに貸す時にはマッピを洗うか違うものにしてから貸す。
 「あ、まじじゃん最悪!!洗ってくる!!!」
 勢いよく立った原が、譜面台に乗る楽譜が落ちるのも構わずにバタバタと音楽室からでていく。
 なんでそんなに焦っているんだろう。
 俺は不思議に思いながら楽譜を戻し、手入れ途中の原のチューバに近づき、代わりに手入れを進めた。


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 大野のバカ!!!
 なんでマウスピース変えてない事に気づかないのよ!?
 めっちゃ吹いちゃったじゃない!!
 大野ってほんとなんも考えてない!!!
 トイレの水道でマウスピースをじゃぶじゃぶ洗う。
 おもいっきり水を顔にかけて口をよくすすぐ。
 はぁもうほんっっとに最悪。
 トイレの小窓から吹き込む春風が頬を撫でていく。
 ひんやりするはずなのに、顔が何故だかほてっている。
 ポケットからハンカチを取り出してマウスピースと顔を拭く。
 ふと顔を上げて鏡を見れば、ひどい顔の自分がいた。
 ポケットから櫛を出して整える。
 制服のリボンの歪みを治して、前髪のピンも付け直した。
 なんで直してるんだろう。
 大野には可愛く思われたいだなんて、そんなこと思ってるはずがないのに。
 首をふるふる振って、ハンカチも櫛もポケットに突っ込んで扉を開けにいく。
 後ろの小窓から春風が勢いよく吹き込んできた。
 私の脳裏に、桜の木の下で、いつもの笑顔の貼り付けなんじゃなくて、心の底から笑っている大野が現れた。
 不意に思い出したあの時の思い出を、振り払うように勢いよく扉を開け、春風に背中を押されるように私は大野の元に戻った。


 。❀·̩͙꙳。Ohno_Shun。❀·̩͙꙳。


 2週間後。
 窓から吹き込む風は春の暖かさより夏の涼しさを運んでくるようになった。
 音楽室に響くみんなの笑い声。
 吹奏楽部は今日も元気だ。始業式からもう2週間。
 そろそろ仮入部の期間も終わり、正式に入部する新1年生が決定する頃だ。
 今年は少し1年生が少ないかもしれない。
 でも一応、俺の友達はいた。
 小学校の頃、習い事のピアノで同じだった清水誠(しみずまこと)くんだ。
 背が小さくて、幼なげな印象ではあるが、声は落ち着いていて、聞いてて心地良くなるようなイケボだ。
 すごいフレンドリーだから、知り合いがほとんどいないこの中学校でも、すぐに友達を作って人気者らしい。
 まぁ、こんな俺でもすぐ友達になれるのだから彼は相当コミュニケーション能力が高いのだろう。
 ちなみに、誠くんはユーフォニアムの体験にもきてくれたが、結局は経験のあるトロンボーンになりそうだ。
 なんてことを思いながら部活のミーティングが始まるのを待つ。
 「はいはい皆さーん!ミーティング始めるので座ってー!!」
 部長が声を張り上げる。
 確か部長の名前は、霧ヶ丘墨(きりがおかすみ)、だったはずだ。
 なんか長くてかっこいい苗字だったから覚えている。
 うちの吹部の部長は明るく活発でありつつも、仕事は丁寧に完璧にこなしてしまうような先輩だからみんなからの信頼も熱い。
 かなりマメな人で、今日の反省をまとめて共有してくれたり、1人1人に良かった点や改善点を伝えてくれたりする。
 それもあってか、この部活の雰囲気は最高に心地がいい。
 部長が大きく息を吸う。
 「それじゃあ今日は新1年生正式入部の日だよ!」
 やっぱり。きょうはその日だったのか。
 「じゃあ新1年生は所属パートと名前、あとは自由に色々喋って自己紹介して!」
 その声で1年生が前にずらっと並ぶ。
 といってもぱっと見5、6人しかいない。
 もうちょっと入ってくると思っていたから残念だ。
 1年生を眺めてみた。なんだかキャラが濃そうな1年生ばっかりだ。
 1年生の自己紹介を聞き流しながら俺は窓の外のまだ少し残る桜を眺めていた。
 窓に原が反射して、原の横顔が見える。
 長いまつ毛と可愛らしい瞳。少し笑みを湛えた唇。
 あれ、原ってこんなに整った顔をしているのか。
 思わず原を眺めてしまった。
 「大野くーん??生きてますかー?」
 そんな声が聞こえた。
 気づいたら部長が目の前で手をひらひらさせていた。
 「あ、はい。なんすか?」
 何か俺に用だったのか。
 「あー!大野くん何も聞いてなかったな!!」
 部長が怒ったようなそぶりを見せながら、腕を組む。
 でも、顔面はにこにこしすぎている。
 きっとこの人は生きていること自体が楽しすぎると思っているんじゃないか。そう思わせるくらい彼女からは楽しいや喜びのオーラが常にダダ漏れだ。
 「自己紹介!!新1年生へ向けて自己紹介して!」
 部長が怒りつつも、にこにこしながら言う。
 なんだ。そういう時間だったのか。
 気づけば、俺に視線が集まっていた。
 あ、やべ。え、自己紹介とかまじ何言おう。
 そう思いながら席を立ち、1年生向けに自己紹介をする。
 「えっと。2年ユーフォニアムパートの大野春です。
 季節の『春』って漢字を書いて、『しゅん』って読みます。
 えー。部活には基本行きたくないけど、原に連れてこられてます。
 んー。趣味は映画鑑賞です。よろしくです。」
 とりあえず言い終わって、すとんと腰を下ろす。
 そうしたら、原に肘でどつかれた。
 え、何が悪かったんだ?
 原の頬がほんのり赤くなっている。
 あー。みんなの前で原の名前出したからか?
 それにしてもそんなに気にしなくていいだろう。
 まぁいいや。
 それから俺は窓を少しだけ開けた。ほのかに夏の香りのする風がふわりと入り込んできて、原の髪の毛を優しく撫でていった。
 そして俺はまた、窓の外の桜を見ながらぼーっとすることにした。


 。❀·̩͙꙳。Ohno_Shun。❀·̩͙꙳。


 「原先輩のメアドください」
 いつもの如くリビングのソファに寝っ転がってテレビを見ていたら、そんなメッセージが誠から来た。
 誠とメッセージのやり取りをするのは何年ぶりだろう。
 それにしてもなんだこれは。
 なんで誠は原のメアドが欲しいんだ?
 俺は誠と原の接点が何か考え始め、あのことを思い出した。


 。❀·̩͙꙳。Ohno_Shun。❀·̩͙꙳。


 「おはざーす。」
 「はざまーす。」
 今日は新1年生の正式入部が始まってから、初めての朝練だ。
 楽器に対する愛が強い俺たちは早朝、無人の音楽室へと足を踏み入れた。
 毎日のルーティーンを行う。
 原がおもいっきり窓を開けた。
 夏の風がふわっと入り込んでくる。
 この窓辺は唯一、中庭の木に邪魔されず光が差し込んでくるところだ。
 木漏れ日の暖かさが好きな原はこの季節になると必ずその窓辺の近くで練習をする。
 パーカッションのドラムや木琴が並べられていなかったら、入ってきてすぐ見えるところだ。
 原はいつも朝練の時にはユーフォを使う。
 なんでって聞いたら
 「朝からチューバ吹いたら肺が死んじゃうでしょ!」
 真面目な顔でそんなことを言うから、思わず爆笑した懐かしい記憶がある。
 原が、
 「いつもの楽器出しといてー!」
 と、第2音楽室から声をかけてくる。
 だから俺は、
 「はーい!!俺の分だけ出すー!」
 と、第1音楽室から声を返した。
 楽器ケースを棚から取り出そうとしたら、スマホの通知音がした。ブレザーのポケットからスマホを取り出して見てみると、
 「大野くん。迷っちゃった!お願い助けて」
 という誠からのメッセージが来ていた。
 まぁ、新1年生が迷うのも仕方ないだろう。この菖蒲第一中学校はとにかく校舎が広い。そして、この音楽室にたどり着くためには、中庭を通り抜けるか、渡り廊下を通って、その先にある北階段を使わないとたどり着けない。
 体験入部のときには部長などの3年生が引率をしていたから、今日1人で来て迷ってしまうのも仕方ない。
 誠に一旦下駄箱のところに戻ってとメールを送り、下まで迎えに行くことにした。
 うしろから
 「何してんのー?」
 と原が声をかけてきた。
 振り返ったら原の長いまつげが頬に触れた。
 「わぁ、ごめん。」
 俺は謝ってから、
 「誠くん迷ったっぽいから迎えに行く。」
 と言った。
 が、返事がない。
 原をよく見ると、なぜだか固まっていた。
 それがなんだか面白くて、原のほっぺをツンツンと突いてみる。
 原が俺の指をつかんで思いっきりひねってきた。
 なんだ。いつもの原じゃないか。
 俺は安心した。
 そして原に一声かけてから誠くんを迎えに行くために、音楽室の出口へ向かった。


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 大野がすたすたと音楽室から出ていくその背中をただ茫然と眺める。
 窓から入ってきたすがすがしく、冷たい風が私の手の中の楽譜をバラバラと落としていく。
 我に返った私は楽譜を拾い上げ、譜面台を取りに行く。
 さっき、おでこに大野の唇が、ほんの一瞬触れた気がする。
 でもきっと大野は気づいていない。けれど、確かに触れた。
 おでこに触ってみると、ほのかなぬくもりが残っている気がした。
 赤くなる頬を冷まそうと、窓辺に近づく。
 窓辺には椅子とユーフォが置いてあった。
 暖かな日差しを受けてキラキラと光るユーフォに心が落ち着いて、準備室から自分のマウスピースをもってきて、そのまろやかなシルバーのユーフォにはめた、
 ふうっと息を入れてみる。
 やっぱり、このユーフォニアムは息が入りやすくて、吹きやすい。
 私は昨日大野にもらった、ユーフォニアムのために作られたという曲を吹くことにした。
 楽譜をざっと目に通す。
 まだ聞いたことない曲だけれども、なんだか難しそうな曲だ。
 でも、大丈夫。
 目を閉じて頭の中で音符を並べて、再生していく。
 こんな感じかな。イメージがつかめたからマウスピースに口をつける。
 そして、優しく息を入れ込んだ。
 何も意識しないのに、楽器と心が1つになったようにメロディーがあふれ出していく。
 優しい音階の流れに、弾むようなリズムや、忙しい連符。ソロで吹くとユーフォの良さがより際立つ。
 吹き終わって、何とも言えない心地よさが胸に広がった。
 もっとこの曲を豊かに、誰かの心に響くように演奏したい。そう思って、目を閉じ、耳を澄ませながら吹く。
 顔に、外からの日差しが当たっていることがわかる。いま目を開けて外に視線をやれば、鮮やかな朝日が光っているのだろう。
 このユーフォの音は、ほんとに素晴らしい。ナルシストみたいだが、私の吹くユーフォの音色には自分ですら恋をしてしまいそうだ。
 吹いていたら、大野の笑顔が脳裏に浮かんだ。
 今の大野は、いつも本心を隠すように笑顔を張り付けている気がする。でもたぶん思ったことは口にしてしまうタイプだとおもうから、ただ謎の仮面をつけているだけだ。
 子供のころ、桜の木の下で遊んだ時を思い出す。
 あの時の私たちは純粋で、大野はあんなひねくれタイプではなかったし、私ももう少し無邪気で可愛かった。
 大野はなぜ、あんなにも鈍感で、感情を失いかけているような、謎の笑顔をくっつけているのだろう。
 大野の心の中を覗くことができたらいいのに。
 私はそう思った。


 。❀·̩͙꙳。Ohno_Shun。❀·̩͙꙳。


 トントントンと自分が階段をおりる音だけが廊下に響く。
 俺は誠くんを迎えに下駄箱へ向かっていた。
 中庭の桜は、もう花びらは全然なかった。
 でもほのかに桜の香りがして、なんだか心がくすぐったくなった。
 こんな感情を抱くのは何年ぶりなんだろう。
 自然で心が動かされるのは久しぶりだ。
 桜は大野みたいだねって入学式の時原が言ってくれた。
 そこからなぜだか、桜とか花を見ると原のことを思い出して、謎にわくわくするのだ。
 本当に不思議だ。
 そんなことを考えながら俺は下駄箱に到着した。
 「大野くーん!やばいですねこの学校…」
 誠くんがそう声をかけてきた。
 「いや敬語かタメ語か統1しろよw」
 誠くんの謎の敬語とタメ語の混ざりが気になって思わずツッコんでしまう。
 「えーだって大野くんは大野くんだけど一応先輩じゃないですか〜」
 誠くんがふわっと笑う。
 まぁ喋り方なんて、なんでもいいか。
 「まぁなんでもいいでしょー」
 そういって前を向いて歩き始める。
 音楽室までの階段を登りながら俺は誠くんと色々な雑談をした。
 誠くんはなんと元カノが3人もいるらしい。中学1年生なんてまだ13歳くらいじゃないのだろうか。最近の子は怖いなぁと思う。
 俺が恋とか好きとか、人に向けてそういう感情を抱くことがなくてよくわからない。と言うと、ものすごく恋愛について語ってくれたが、さっぱり何一つ共感はできなかった。
 あと1階。やっと3階まで着いた。が、もう俺の体力はゼロに等しい。
 でも、その時。
 ものすごく綺麗な音色が聞こえてきた。
 あぁ、これは原の音色だ。俺はすぐ確信する。
 原の音をもっと聴きたくなって、階段を登ることにする。
 誠くんが
 「綺麗な音ですね。」
 と言うから俺は、
 「そうだろう。俺のユーフォだから。」
 と、返した。
 本当は原だからこんな素敵な音色になるんだろうけれど。
 誠くんが音楽室の扉をノックする。
 でも、反応がなかったので誠くんに変わって俺が扉を開けた。
 音楽室の窓際。そこだけ一筋の光が差していて。
 音楽室に踏み込んだ瞬間。
 柔らかくて、美しくて、惹き込まれるような音色に包み込まれた。
 原は目を瞑っているから、もしかしたら俺たちの存在に気付いていないのかもしれない。
 吹いている原の閉ざされた瞳の長いまつ毛は、差し込んだ光でキラキラと輝いて見える。
 その瞳がゆっくり開いて、俺をまっすぐに見る。
 そして、今までに見たことがないくらい美しく、可愛らしく、天使のような微笑みを投げてきた。
 なぜだか俺は、手からスマホを滑らせてしまった。ゴトっと鈍い音が響く。
 その瞬間、暖かな空気に包まれちた幻想的な世界から、現実に引き戻された。
 原が恥ずかしそうに頬を染める。
 「やだ、見てた?え、誠くんも?」
 誠くんはそう言う原に近づいていき、手をとった。
 「すごい、素敵な演奏でした!オレ、原先輩の音色大好きです!」
 そう言われた原を見ると、オレが褒めた時よりも嬉しそうな顔をしていて、なんだか無性に腹が立った。


 と、いうようなことがあったのだ。
 だからきっと誠くんは、あの時原に恋をしたのだろう。
 そして、アタックするために原のメアドが欲しいというわけだろう。
 だからといってメアドを無許可であげるなんて非道なことできない。
 絶対に渡さない。いや多分、渡したくないって気持ちだ。
 だからおれは、
 「ごめん、無理だわ」
 そう返して早々にスマホをシャットダウンして、ゲームの起動を始めた。


 。☾·̩͙✧。Hara_Marino。☾·̩͙✧。


 「原先輩おはようございます!」
 朝七時ぴったり。
 スマホの通知音がしたかと思えば、誠くんからのメッセージだった。
 「おはよう。あれ、メアド教えたっけ。」
 教えた気がしてなかったから聞く。
 「あ、吹奏楽全体のところにメアドあったんで繋いじゃいました!」
 なんだそういうことか。
 じゃあいいや。
 そう思ってたら、誠くんから追加でメッセージが来た。
「あの、先輩!突然なんですけど、オレ、原先輩のこと好きです!付き合ってください!!」
 …は??
 ちょっと待て。何を言っているのかがさっぱりだ。
 「返信、ずっと待ってます!」
 そう送られたきり、誠くんからメッセージが来ることはなかった。
 とりあえず大野の家に行かなきゃ。
 気の抜けたインターホンの音と共に大野が眠そうな顔で出てくる。
 ねぇ、大野。私が誠くんと付き合ったら、大野はどう思うの?
 そんなこと口が裂けても言えないや。
 上の空で授業を聞き流す。
 そして気づいたら、家のベッドの上にいた。
 スマホの画面を眺めると、今朝の誠くんのメッセージが変わらずそこにあった。
 ねぇ神様。私は今、別に好きな人はいないよね?
 だから、付き合うとか、そういうことを経験してもいいよね。
 誠くんってかっこよくて優しそうだから、いいよね?
 心の中で神様に問いかける。
 でも、私の脳裏にはどうしても桜の木の下で笑う大野がフラッシュバックしてしまって。
 そんな気持ちを振り払うように私は、
 「いいよ。付き合おう。」
 と、メッセージを送ったのだった。