春 今日 恋シタ

その後のその後のその後……


「成海先生、今日は、ここでお暇させて頂きます。遅くまで失礼致しました。原稿はしかと預かりましたので、このまま、印刷会社への入稿、お任せください。先生は、早めに身体を休めてくださいね」
信じられない事だが、僕は夢だった児童文学の小説家になり、更に、桜橋先輩が担当編集者になるという、人生の全ての運を使い切った感のある出来事に、今も慣れない。

「あの、桜橋先輩…その…敬語、なんとかなりませんか?」
「成海先生こそ、敬語はやめてください」
いや、僕はもう、敬語がデフォなんで…とぶつぶつ言っていると、背の高い桜橋先輩は、
屈むようにして僕の左の耳元に、口を近づけた。

「これは、自分の戒めの為なんだよ。恋人の成海に、仕事で一緒にいるのに四六時中手を出して、担当者の俺が、執筆を遅らせる訳にはいかないだろ?」
要は、公私混同しないように、使い分けてるという事なのか…

「桜橋先輩なら、キチンと棲み分け出来そうですけどね…」
「それ!俺もそう思ってたんだよ…でも年々、満足するどころか、成海に対しての貪欲さが増し続ける自分に、ちょっと引いてて…これは、俺なりのけじめ」
なんだか、さらっと凄い事を言われた気がするけど、先輩の意思は固そうなので、僕は頷いた。

こんなにも編集者の仕事が忍耐を試されるとは知らなかった…と苦い顔をしている先輩を見て、思わず笑ってしまった。

「では、お疲れ様でした。失礼致します」
サヨナラの言葉とは裏腹に、先輩は僕の手を握ったまま、離そうとはしない。

「あの…先輩?やっぱり、入稿は明日にして、泊まって行かれますか?」
「ダメです。私には無事に入稿するという重要な任務が…筒井成海作品を世に出すという責務が…グハッ」
先輩は、スルリと手を離すと、玄関から出て行った。

離れた手を見つめ、グーパーしてみる。
そして、閉じてしまった扉を見つめると、今ある全ての出来事が、実は夢なのでは無いかと…扉を凝視してしまう。
いつまでも、不安で…心が落ち着かないのは、性分なのか。

ガチャと、扉が開いて、桜橋先輩が顔を覗かせた。
「なんとなく、成海が、顔が陰った気がして…」
「あ、いや…大丈夫ですよ、行ってください」
僕は照れて手を振った。
先輩は、素早く僕の口に触れるだけのキスをした。

「これ以上は、俺がヤバいから……入稿を済ませましたら…再びお宅に伺いますので…寝ててくださいよ!私は合鍵で入りますので…成海先生、おやすみなさい」

なんだか、ホッとして…桜橋先輩は、魔法使いみたいだと思った。
僕は、大きく息を吐き、ゆっくりと、リビングへと戻った。