「鍵も掛かってるし、気のせいだったかしら。でも私が第一美術室から出たとき、このあたりに動くものが見えた気がしたのよね」
鍵がかかっていることをしっかりと確認した高木先生は、気のせいだったかもしれないと言いつつも、物音を立てた〝何か〟の存在をまだ疑っている様子だった。それは僕と蜜木なのだが、どうかこのまま気のせいだったと納得して立ち去ってほしい。
「ええっ……それってもしかして、幽霊だったりしません……?」
高木先生のそばにいる女子生徒が、震えた声で恐々と話し始める。
「あの……この学校に代々伝わる七不思議があるんですけど、そのうちのひとつが第二美術室に出る女子生徒の幽霊なんです」
この学校に代々伝わる七不思議。第二美術室に出る女子生徒の幽霊。どちらも初耳である。
だが今は聞きたくない。こんな状況でそんな話は聞きたくない!
けれど耳を塞ぐこともできず、壁の向こうにいる僕の心境など知る由もない女子生徒は語りだした。
「昔、この学校に通っていた美術部の女子生徒が休みの日に本土へ画材を買いに出かけたそうなんですけど、その時にうっかり道路へ飛び出して車に轢かれちゃったんです。瑠璃村島は車がめったに走っていないので、左右を確認してから道路を横断する癖がついていなかったんですね。女子生徒はその時の事故で足がもげて亡くなってしまったんですけど、美術室に残した書きかけの絵が大きな未練として残ってしまったせいで、毎日足がない姿で放課後に現れては永遠に描き終わることのない絵の続きを描いているそうです……。そして、その女子生徒の幽霊を見てしまった人は、瑠璃村島中学校を卒業するまでは必ず横断歩道を渡る時に右左の安全確認を三回繰り返さないと、同じように交通事故で足がもげて死んでしまうそうです……」
女子生徒が語り終えた後、心地の悪い湿った間が流れた。
「や、やめなさい! 幽霊なんているわけないでしょう!?」
そう言った高木先生の語尾は見事に裏返っていた。
どうやら高木先生は幽霊が苦手のようだ。
しかし、その怖い話は第二美術室の暗闇の中にいる僕にも効果はてきめんであった。室内は無音であったが、耳を澄ますとなんだか聞こえるような気がしてくるのだ。すぐそばの暗闇から、女子生徒が絵を描いている筆の音が……
僕は叫び出したくなる衝動を堪えて、蜜木の心臓の音を聞くことに集中した。すぐそばにある蜜木の心臓は、相変わらず激しく鼓動を続けている。
自分を落ち着かせるために、蜜木の胸でゆっくりと息を吸う。蜜木の匂いがした。嫌な匂いではなく、むしろどこか落ち着く匂いだった。
大丈夫だ。僕はひとりじゃない。蜜木がここにいる。
「幽霊なんていません! それに、今は放課後じゃなくて昼休みだから大丈夫よ!」
少し慌てた様子で、反論するように高木先生が言った。
その言葉に僕の恐怖がまた少し和らぐ。
そうだ。今は昼休みだ。だからきっと大丈夫だ。
「そんなことより」
高木先生が手をパンと強く叩いて、話題を変えた。
「春日さんは家庭科部よね? 家庭科室に接着剤とか置いてなかったかしら? 私のメガネのブリッジが折れちゃって困ってるの。美術室を探してみたんだけど、ステイックのりしか見つからなくてね。私、視力が弱くて、メガネがないと生活に支障が出るのよ」
「た、大変ですね。ええと、接着剤なら確か技術室にあった気がします。取ってきましょうか?」
高木先生が女子生徒を春日さんと呼んだ。言われてみれば、確かにこれは隣の席の春日くんの声だ。
「ありがとう。でも、そこまでしてくれなくていいわよ。自分で行くから」
「わかりました。あの、お気をつけて」
高木先生はもう一度「ありがとう」と言って、技術室へ向かった。ヒールの音が遠ざかっていく。春日くんの足音も遠ざかり、やがて足音はなにも聞こえなくなった。
「……行ったみたいだな」
幽霊はまだ少し怖いが、ひとまずの安堵のため息と共に僕は蜜木から離れた。心の中で『君のせいで寿命が三ヶ月くらい縮んだぞ』と悪態をつく。声に出さなかったのは僕が自分の意思でここへ入ったという落ち度を自覚していたためであるが、それでも九十パーセントくらいは蜜木のせいである。
変な体勢でいたせいで、少し身体が痛い。同じく変な体勢のまま僕に抱きつかれていた蜜木はかなり大変だっただろうなと思う。
僕がゆっくりと立ち上がると、つられるようにして蜜木も立ち上がった。
そして、黙って僕の腕を引いた。
どうした、なんて聞く間もなく、そのまま蜜木は僕を自分の腕の中に引き寄せた。
「ど、どうした?」
ようやくそれが聞けた頃には、再び僕の頭は蜜木の胸に収まっていた。さっきと違うのは、蜜木の腕が僕の背中に回っているということだ。
蜜木の心臓の音が聞こえる。落ち着きを取り戻し始めた僕の心臓とは対照的に、短距離走を全力で走り終えた後のような苦しそうな脈を打っていた。
「あのね、会長」
「ああ」と相槌を打って言葉の続きを待っていると、蜜木の腕が僕をゆっくりと抱きしめた。
「まだ、もう少しこうしていたい。会長がもし俺のことを嫌じゃなければ」
僕の耳元で囁いた蜜木の声は、いつものお気楽で責任感が微塵も感じられないふわふわした口調ではなく、喉の奥からようやく絞り出したような声だった。
僕は察した。
蜜木は幽霊が怖いのである。
「嫌じゃないぞ」
蜜木の腰に腕を回した。
不良生徒のくせに意外とかわいいところがあるのだなと、僕は親しみを感じて少し嬉しくなった。
僕だって幽霊は苦手だ。だが人間の心理とは不思議なもので、自分より怖がっている人間を前にすると急に冷静になれるものである。
それに僕もさっきは抱きついてしまったのだからお互い様だ。
「しばらくこのままでいよう」
僕がそう言ってやると、蜜木はやや驚いた調子で「本当に?」と尋ねてきた。
「ああ。ずっとそばにいるぞ」
「会長。俺ね、今すごく動揺してるんだ。心臓バクバクで、舌も上手く回らなくてさ」
その言葉通り、蜜木の心臓は大きく音を立てて跳ねていたし、言葉も途切れ途切れだった。
「たぶんちっとも格好良く伝えられないと思うんだけど、でも、それでも、ちゃんと伝えておきたいから、言わせてね」
「君の言いたいことはわかっている。大丈夫だ。僕がそばにいるから、幽霊なんて怖くないぞ」
「…………えっ?」
「…………ん?」
「……………………」
急に、その場に妙な沈黙が流れた。
僕は蜜木の背中を励ますように撫でながら考える。
何か、不適切なことを言ってしまっただろうか?
心にそんな一抹の不安が芽生えた時であった。蜜木が「そうきたかぁ」と呟いて、口から可笑しさが溢れて堪えきれないというように一人で笑い始めたのだ。
「やっぱりいいや」
蜜木の腕が僕から離れる。
「俺は、そういう意味で会長とくつっいていたかったわけじゃないよ」
鍵がかかっていることをしっかりと確認した高木先生は、気のせいだったかもしれないと言いつつも、物音を立てた〝何か〟の存在をまだ疑っている様子だった。それは僕と蜜木なのだが、どうかこのまま気のせいだったと納得して立ち去ってほしい。
「ええっ……それってもしかして、幽霊だったりしません……?」
高木先生のそばにいる女子生徒が、震えた声で恐々と話し始める。
「あの……この学校に代々伝わる七不思議があるんですけど、そのうちのひとつが第二美術室に出る女子生徒の幽霊なんです」
この学校に代々伝わる七不思議。第二美術室に出る女子生徒の幽霊。どちらも初耳である。
だが今は聞きたくない。こんな状況でそんな話は聞きたくない!
けれど耳を塞ぐこともできず、壁の向こうにいる僕の心境など知る由もない女子生徒は語りだした。
「昔、この学校に通っていた美術部の女子生徒が休みの日に本土へ画材を買いに出かけたそうなんですけど、その時にうっかり道路へ飛び出して車に轢かれちゃったんです。瑠璃村島は車がめったに走っていないので、左右を確認してから道路を横断する癖がついていなかったんですね。女子生徒はその時の事故で足がもげて亡くなってしまったんですけど、美術室に残した書きかけの絵が大きな未練として残ってしまったせいで、毎日足がない姿で放課後に現れては永遠に描き終わることのない絵の続きを描いているそうです……。そして、その女子生徒の幽霊を見てしまった人は、瑠璃村島中学校を卒業するまでは必ず横断歩道を渡る時に右左の安全確認を三回繰り返さないと、同じように交通事故で足がもげて死んでしまうそうです……」
女子生徒が語り終えた後、心地の悪い湿った間が流れた。
「や、やめなさい! 幽霊なんているわけないでしょう!?」
そう言った高木先生の語尾は見事に裏返っていた。
どうやら高木先生は幽霊が苦手のようだ。
しかし、その怖い話は第二美術室の暗闇の中にいる僕にも効果はてきめんであった。室内は無音であったが、耳を澄ますとなんだか聞こえるような気がしてくるのだ。すぐそばの暗闇から、女子生徒が絵を描いている筆の音が……
僕は叫び出したくなる衝動を堪えて、蜜木の心臓の音を聞くことに集中した。すぐそばにある蜜木の心臓は、相変わらず激しく鼓動を続けている。
自分を落ち着かせるために、蜜木の胸でゆっくりと息を吸う。蜜木の匂いがした。嫌な匂いではなく、むしろどこか落ち着く匂いだった。
大丈夫だ。僕はひとりじゃない。蜜木がここにいる。
「幽霊なんていません! それに、今は放課後じゃなくて昼休みだから大丈夫よ!」
少し慌てた様子で、反論するように高木先生が言った。
その言葉に僕の恐怖がまた少し和らぐ。
そうだ。今は昼休みだ。だからきっと大丈夫だ。
「そんなことより」
高木先生が手をパンと強く叩いて、話題を変えた。
「春日さんは家庭科部よね? 家庭科室に接着剤とか置いてなかったかしら? 私のメガネのブリッジが折れちゃって困ってるの。美術室を探してみたんだけど、ステイックのりしか見つからなくてね。私、視力が弱くて、メガネがないと生活に支障が出るのよ」
「た、大変ですね。ええと、接着剤なら確か技術室にあった気がします。取ってきましょうか?」
高木先生が女子生徒を春日さんと呼んだ。言われてみれば、確かにこれは隣の席の春日くんの声だ。
「ありがとう。でも、そこまでしてくれなくていいわよ。自分で行くから」
「わかりました。あの、お気をつけて」
高木先生はもう一度「ありがとう」と言って、技術室へ向かった。ヒールの音が遠ざかっていく。春日くんの足音も遠ざかり、やがて足音はなにも聞こえなくなった。
「……行ったみたいだな」
幽霊はまだ少し怖いが、ひとまずの安堵のため息と共に僕は蜜木から離れた。心の中で『君のせいで寿命が三ヶ月くらい縮んだぞ』と悪態をつく。声に出さなかったのは僕が自分の意思でここへ入ったという落ち度を自覚していたためであるが、それでも九十パーセントくらいは蜜木のせいである。
変な体勢でいたせいで、少し身体が痛い。同じく変な体勢のまま僕に抱きつかれていた蜜木はかなり大変だっただろうなと思う。
僕がゆっくりと立ち上がると、つられるようにして蜜木も立ち上がった。
そして、黙って僕の腕を引いた。
どうした、なんて聞く間もなく、そのまま蜜木は僕を自分の腕の中に引き寄せた。
「ど、どうした?」
ようやくそれが聞けた頃には、再び僕の頭は蜜木の胸に収まっていた。さっきと違うのは、蜜木の腕が僕の背中に回っているということだ。
蜜木の心臓の音が聞こえる。落ち着きを取り戻し始めた僕の心臓とは対照的に、短距離走を全力で走り終えた後のような苦しそうな脈を打っていた。
「あのね、会長」
「ああ」と相槌を打って言葉の続きを待っていると、蜜木の腕が僕をゆっくりと抱きしめた。
「まだ、もう少しこうしていたい。会長がもし俺のことを嫌じゃなければ」
僕の耳元で囁いた蜜木の声は、いつものお気楽で責任感が微塵も感じられないふわふわした口調ではなく、喉の奥からようやく絞り出したような声だった。
僕は察した。
蜜木は幽霊が怖いのである。
「嫌じゃないぞ」
蜜木の腰に腕を回した。
不良生徒のくせに意外とかわいいところがあるのだなと、僕は親しみを感じて少し嬉しくなった。
僕だって幽霊は苦手だ。だが人間の心理とは不思議なもので、自分より怖がっている人間を前にすると急に冷静になれるものである。
それに僕もさっきは抱きついてしまったのだからお互い様だ。
「しばらくこのままでいよう」
僕がそう言ってやると、蜜木はやや驚いた調子で「本当に?」と尋ねてきた。
「ああ。ずっとそばにいるぞ」
「会長。俺ね、今すごく動揺してるんだ。心臓バクバクで、舌も上手く回らなくてさ」
その言葉通り、蜜木の心臓は大きく音を立てて跳ねていたし、言葉も途切れ途切れだった。
「たぶんちっとも格好良く伝えられないと思うんだけど、でも、それでも、ちゃんと伝えておきたいから、言わせてね」
「君の言いたいことはわかっている。大丈夫だ。僕がそばにいるから、幽霊なんて怖くないぞ」
「…………えっ?」
「…………ん?」
「……………………」
急に、その場に妙な沈黙が流れた。
僕は蜜木の背中を励ますように撫でながら考える。
何か、不適切なことを言ってしまっただろうか?
心にそんな一抹の不安が芽生えた時であった。蜜木が「そうきたかぁ」と呟いて、口から可笑しさが溢れて堪えきれないというように一人で笑い始めたのだ。
「やっぱりいいや」
蜜木の腕が僕から離れる。
「俺は、そういう意味で会長とくつっいていたかったわけじゃないよ」
