藤間くんは発明部を認めない

 ……以上が、事の顛末である。
「会長、会長」
 蜜木に肩を揺すられて、僕は目を開けた。
 目の前のベッドに寝ている高木先生のまぶたが、僅かに動いている。
「高木先生」
 僕が呼びかけると、高木先生の目がゆっくりと開いた。ぼんやりとした高木先生の視線が、「高木先生」ともう一度呼びかけた僕の声に反応してこちらへ向く。
「藤間さん、蜜木さん。……ここは?」
 赤縁メガネのレンズ越しに、不思議そうに僕と蜜木を見る高木先生。
「保健室です」
「どうして私は保健室に……?」
 言葉に詰まった僕の代わりに、蜜木が答えた。
「高木先生の悲鳴が聞こえたので、僕と会長で慌てて様子を見に行ったんです。そしたら、高木先生が第二美術室の前の廊下で倒れていました」
 嘘はついていないが、僕たちが第二美術室にいたことはやはり当然のように伏せていた。
「第二美術室」
 高木先生の表情が曇る。
「どうしてあんなところで倒れていたんですか?」
 蜜木が核心に触れた。
 沈黙の中で、高木先生の瞳が徐々に恐怖の色に染まっていく。
「……見たのよ、第二美術室の幽霊を」
 唇を震わせながら、高木先生が話し始めた。
「藤間さん、さっき駐輪場近くの通用口にいたわよね。あの時、藤間さんは見えなかったかもしれないけど、私は確かに第二美術室の幽霊を見たの。足の無い、恨めしそうに佇む幽霊を」
 高木先生は自分で自分を抱きしめるように、胸の前で腕を組んでいた。話が進むにつれて、その腕も恐怖で震えだす。
「私、叫んで職員室に逃げたわ。でも、藤間さんが危ないと思って、勇気を出して通用口に戻ったのよ。戻ってみたら、藤間さんの姿も幽霊の姿もなくて。その時は、全部私の見間違いだったのかしらと思ったわ。でも、通用口から雨水が足跡みたいに点々と廊下の先に続いていて、気になったから私はそれを辿ってみたの。そしたら——」
 高木先生が一際大きく震え上がった。
「第二美術室の前の廊下で、それは途切れていたの! 間違いないわ! 第二美術室の幽霊よ! 雨に濡れた第二美術室の幽霊が、雨水を滴らせながら廊下を進んで、第二美術室の壁をすり抜けて中に入ったのよ! 私が見たのは、紛れもなく第二美術室の幽霊だったのよ!」
 ガタガタと震えながら、強い口調で高木先生が言った。
 僕たちはここでようやく、高木先生が第二美術室の前で倒れていた理由を知った。
 高木先生は、きのこアンブレラくんから滴っていた雨水を辿って、第二美術室の前まで来たのだ。
 そして、廊下の途中で途切れていた水滴を見て、雨に濡れた第二美術室の幽霊が、壁をすり抜けて中に入ったと勘違いした。けれど、実際にはそれは第二美術室の幽霊ではなくきのこアンブレラくんで、廊下の途中で水滴が途切れていたのは、僕が空気窓へきのこアンブレラくんを投げ入れたからだ。
「藤間さんは大丈夫? 第二美術室の幽霊、見なかった? ああもうおしまいよ、私。きっと呪われたんだわ。そのうちうっかり事故に遭って、足がもげて死ぬのよ。……馬鹿なこと言ってると思う? 私ね、情けないけど、子供の頃から本当に幽霊が苦手なの」
 高木先生の血の気はすっかり引いていた。
 僕の胸がザワザワと騒ぎだす。
 これは全部、全部、僕のせいだ。最初にきのこアンブレラくんを作ることを提案したのは、僕なのだから。 
 僕は勢いよく椅子から立ち上がって、口を開いた。
「あの、高木先生が見た第二美術室の幽霊は、」
 正直に言わなければいけないと思った。
 でも、その先の言葉を紡ぐ勇気が、どうしても出てこなかった。
「……なんでもないです」
 何も、言えなかった。
  

 完全下校時刻の五分前。
 生徒玄関にはもう誰もいない。大きな下駄箱には、学校指定の白い内履きが静かに並んでいた。
 背後からタタタタと、足音が近づいてくる。蜜木だ。
「お待たせ会長。一緒に入って帰ろう」
 蜜木の手にはビニール傘。用務員の関屋さんから借りてきてくれた傘だ。持ち手に『貸出用』と書かれたシールが貼られている。
 僕は「ああ」と頷いて、蜜木が開いた傘に入れてもらった。
 外は暗い。風は止んだものの、雨は相変わらず激しく降っていた。
 空を見上げると、まるで自分の心の空模様を見ている気分になった。暗くて、重くて、どしゃぶりだ。
「こうやって会長と同じ傘に入ってさ、並んで帰る日が来るなんて思わなかったな」
 喋っているのは蜜木だけだった。
 僕は「ああ」とか「うん」みたいな、曖昧な生返事を返すことしかできない。
 高木先生への罪悪感と、正直に謝れなかった意気地無しな自分への自己嫌悪。今の僕の心はその二つの雲に暗く覆われていて、少しも楽しい気分にはなれなかったのだ。
「会長、趣味とあるの? やっぱり本を読むこと? 会長、いつも推理小説読んでるよね。俺、仙台の古本屋でもっと推理小説読んでおけばよかったな。そしたら会長と話が合ったかもしれないのに。残念」
 高木先生の話題には触れない。けれど、僕が高木先生のことを気にしていることなどは、尋ねなくても分かっているようだった。
「会長、苦手な食べ物なに? 俺ね、なめこが苦手なんだ。小学生の時に給食で初めて食べたんだけど、ヌメヌメが気持ち悪くて吐いちゃった。なんでみんな平気で食べられるんだろうね」
 蜜木が笑っている。
 僕は気がついていた。蜜木は、僕が気を紛らわすことができそうな話題を振って、なんとか元気づけようとしてくれているのだ。
「会長はさ、釣りとかしたことある? 俺、やったことないんだ。今度一緒にやろうよ。もし魚が釣れたら、焚き火で焼いて食べてみたいな。俺、魚苦手なんだけど、会長と釣った魚なら食べられる気がするよ」
 いいやつだな、と思った。まともに応える余裕がないことを、申し訳なく思った。
 蜜木はそれからも話し続けた。
「俺ね、小学生の時に学芸会の劇で、王子の役をやったことがあるんだ。あ、立候補したんじゃなくて、女子に無理やり押し付けられて、嫌々引き受けたんだけどね。だけど俺、台詞が覚えられなくてさ。本番は適当な台詞喋って乗り切っちゃったんだ。そしたら、劇が終わった直後に脚本担当の女子が俺のところに走ってきてさ、『蜜木くんのせいでストーリーがめちゃくちゃ! どうして村人Bとお姫様が結婚するの!?』って、かなり怒られちゃった。でも客席はかなりウケてたから、あれはあれで大成功だと思うんだけどなー」
 ……はた迷惑な王子様だ。一体、蜜木は学芸会の劇をどんなストーリーにしてしまったのだろう。
 あまりのとんでもエピソードに、僕は「なんだそれ」と吹き出してしまった。胸のつっかえが、全部ではないけれど、少し取れたような気がした。
「怒った女子生徒の気持ちはわかる。他の人もアドリブに合わせるのは大変だっただろうし、大失敗じゃないか」
「ううん。俺は、やっぱり大成功だったと思うよ」
「どうして」
 蜜木を見上げた。
 蜜木と僕の目が合った。
「会長が今、笑ってくれたから」
 蜜木の目は優しくて、僕だけを見ていた。
 その時、ほんの少しだけ、世界の時間が止まったような気がした。
 不思議な感覚が芽生えた。それは、驚きだとか、喜びだとか、悲しみだとか、その全てを合わせたようで、どれとも違うような。
 自然と立ち止まった僕に合わせて、蜜木も足を止める。
「また明日ね、会長」
 蜜木の言葉ではたと我に帰ると、そこは自宅の門扉の前であった。
 いつの間に。僕はかなりの間、心ここに在らずで歩いてきたらしい。
「……あ、ああ。えっと、また明日」
 頷きながら、いつもよりぎこちなく門扉を開けた。
 傘を出る直前、ちらりと蜜木の目を見てから、すぐに目を逸らして玄関のひさしの下まで走った。蜜木の目はまだ優しかった。
 僕の中に芽生えた未知の感覚は、まだ僕の中でくすぶっている。なんだ、これは。
 玄関を開ける前に振り返ると、蜜木はまだ後ろにいて僕を見ていた。
「バイバイ」
 蜜木が手を振るから、柄でもなく真似をして手を振ってみた。
 その時、気がついたのだ。外灯に照らされた蜜木の片肩が、雨で濡れていることに。
 僕の肩は全く濡れていないのに、だ。
 肩の力が抜けた。
 静かに息を吐いて、負けたな、と悟った。
 蜜木となにかを競っているつもりなど全くなかったが、僕はその時、確かにそう思ってしまったのだ。
 昨日までの僕は、蜜木のことをろくに知ろうともせず、不良だと決めつけてどこかで見下していた。
 僕にはできない。そんなやつに自ら「仲良くなりたい」と言って歩み寄ったり、落ち込んでいるそいつをさりげなく慰めたり、そいつが濡れないように自分を犠牲にしたりするなんてことは。
 だから、認めるのは悔しいけれど、僕の負けだ。
 蜜木の方が、人間ができている。
 だが、これは結論でも決着でもない。
 あくまで途中経過。なにせ勝負はまだ、始まったばかりなのである。
 落ち込む必要も、落ち込んでいる暇もない。
 明日からは負けたくない。明日も、明後日も、その先も、蜜木と肩を並べられる人間でいたい。
「蜜木」
 背を向けて歩き出した蜜木を、勢いで呼び止めた。
 蜜木が不思議そうな顔をして振り向く。
「ありがとう」
 僕を励まそうとしてくれて、濡れないように傘を差してくれて。そして、僕に興味を持ってくれて。
 「何がー?」と不思議そうに首を傾げる蜜木に、僕は「また明日」と押し付けるように伝えて、家に入った。
 玄関を閉めた途端に、くすぶっていた未知の感情が鼓動を始める。それはあっという間に憂鬱な気分を押しのけて、大きくなっていく。
 よし。明日、高木先生に謝りにいこう。
 めいいっぱい怒られるかもしれないが、それでもいい。
 その後で蜜木に「恐かった」と笑いながら報告できれば、きっと元は取れる。そんな気がするのである。