藤間くんは発明部を認めない

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 見てしまった。見てしまった。見てしまった。
 私、高木玲香は、職員室に戻ってくるなり自分の机で頭を抱えました。
 足はガクガクと震えています。それは、あまりにも大きな恐怖を感じたから。そして、万年運動不足の身でありながら、ヒールで廊下を全力疾走したから。
 ああ。思い出すだけでも恐ろしい。たった今、私は幽霊を見てしまったのです!

 私は今日の昼休み、二人の男子生徒を職員室に呼び出しました。蜜木和と藤間秀一です。
 蜜木和は先月転校してきたばかりの問題児。性格は穏やかであるものの、無責任。マイペースで社会性がありません。
 藤間秀一は生徒会長をしている真面目な優等生。ただ、少し頑固で融通が効かないところがあります。
 そんな性格的には正反対の二人が、どういうわけだか手を組んで、変な発明品を校内で売り捌いたのです。
 私は二人を叱りつけ、罰として放課後になったら駐輪場で奉仕活動をするように命じました。その時の私は、夕方から大雨が降るということを知らなかったのです。
 しかし、問題はその後。あろうことか、放課後になる頃には、私は奉仕活動を命じたことを綺麗さっぱり忘れてしまっていたのです。
 思い出したのは、私が顧問をしている吹奏楽部の練習の合間に職員室へ戻った時。自分の机の上に、壊れた赤縁メガネと並べて置いておいた、没収品のすやすやメガネくんを見た瞬間でした。
 いけない! すっかり忘れていた!
 一瞬だけ焦りましたが、私はすぐに冷静さを取り戻します。
 なにせ、窓の外は激しい雨。この雨の中、わざわざ言いつけ通り奉仕活動なんて行っていないだろうと考えたのです。
 ですが、そうは考えつつも、藤間秀一のことがやや気になりました。蜜木和はともかくとして、藤間秀一は生真面目な生徒なのです。
 あの子ならこの雨の中、ひとりで奉仕活動をしているかもしれない。
 私はしばし考えたのち、あの子ならあり得るな、と結論づけました。
 様子を見にいく必要があります。
 ビニール傘を持って、駐輪場近くの通用口へ向かいました。
 その通用口は普通教室の並ぶ廊下にあります。日中は面した教室から生徒たちの声が聞こえてくる賑やかな廊下ですが、授業が終わって放課後になると、人気がなくなり心許ない雰囲気が漂います。薄暗い廊下に、非常ベルの表示灯と非常口の誘導灯だけが静かに灯っていました。
 そんな、どこか人を不安にさせるような雰囲気のせいでしょうか。こんな時に考えるべきではないとわかっているのに、私は昼休みに春日さんから聞いた、第二美術室の幽霊の話を思い出しました。
 ——毎日足がない姿で放課後に現れては、永遠に描き終わることのない絵の続きを描いているそうです……。そして、その女子生徒の幽霊を見てしまった人は、横断歩道を渡る時に右左の安全確認を三回繰り返さないと、同じように交通事故で足がもげて死んでしまうらしいです……
 背筋がゾクリと粟立ちます。
 いけない。あんな話、早く忘れなくては。
 とりあえず、あの子がこの雨の中で奉仕活動をしていないことを確認したら、すぐに職員室に戻りましょう。
 通用口に近づくと、その前に人影があるとこに気がつきました。男子生徒です。通用口は開いていました。
 私は目を細めて、その生徒に近づきます。おそらく藤間秀一だと思うのですが、今の私は裸眼のため、遠くからでは確信が持てません。
 やがて視界のピントが合ってきます。通用口に立っていたのは、やはり藤間秀一でした。
 藤間秀一は私が背後にいることに気付いた様子もなく、顎に手を当てて、考え込むように土砂降りの雨の向こうを見ていました。
 こんなところで、一体何をしているのでしょう。
 尋ねるより先に、私は藤間秀一の視線の先をたどりました。
 ああ! ここから先は、思い出すだけでも恐ろしい!
 信じられませんが、私は見てしまったのです。これは決して夢ではありません。

 藤間秀一の視線の先には、白い幽体が恨めしそうにぼんやりと浮かんでいたのです!

 いっそ夢であれば良かったのに!
 その幽体は、春日さんが言っていた第二美術室の幽霊に違いない。私はすぐに直感しました。
 子供の頃から幽霊は大の苦手でした。幽霊なんているわけがないと自分に言い聞かせて、いなければいいなと思いながら生きてきました。
 けれど、いた(・・)のです。
 私は恐怖で我を忘れ、走って職員室まで帰ってきました。

 ……そして、今に至るのです。
 我に帰ると、自分が教師としてあるまじき行為をしてしまったことに気がつきました。
 あんな状況で、生徒を残して自分だけ逃げてきたのです。
 いくら怖かったからといえ、教師失格です。自己嫌悪で自分のことが大嫌いになりました。
 今からでも藤間秀一のところに行かなくてはいけません。藤間秀一は目の前の怪異に気がついていないようでした。もしかすると霊感が無かったのかもしれませんが、霊感が無いからといって無事で済むとは限りません。
 でも、怖いのです。恐怖で足が動かないのです。
「高木先生、顔色が悪いですよ。何かありました?」
 頭を抱えていた私に、おそるおそる声をかけてきたのは、タバコの香りを纏った富和先生でした。
 私は富和先生の顔を見上げて、唐突に尋ねます。
「富和先生。幽霊って、いると思いますか?」
 真剣な顔で聞きました。
 私は、『いない』といって欲しかったのです。
 その一言が、私に藤間秀一の元に向かう勇気をくれると信じて。
「……お疲れですか? 今日はもう、早めにお帰りになったほうがいいんじゃないですか」
 富和先生の顔がわかりやすく引きつっています。
 その目は明らかに〝やばい人〟を見る目でした。
 これには私も少し頭に来ました。こんなにも真面目に尋ねているというのに。
「いいですか富和先生。これは質問です。幽霊なんて、いませんよね?(・・・・・・・)
 若干の圧をかけて尋ね直します。
いませんよね?(・・・・・・・)
 出せる限りの低い声で、更に圧をかけます。
 途端に富和先生の目つきが変わりました。慌てて背筋を伸ばし、ガクガクと首を縦に振ります。
「いませんよ。幽霊なんて、いません。迷信です。ありえません」
「そうですよね。ありがとうございます」
 私がにっこりと微笑むと、富和先生は足早に去っていきました。
 ありがたいことです。富和先生のおかげで、私は勇気を取り戻すことができました。
 そうです。幽霊なんていないのです。
 あれはきっと、なにかを幽霊と見間違えたのです。私は裸眼で視界が不明瞭だったのですから。
 藤間秀一も無事に違いありません。
 私は赤縁メガネの折れたブリッジ部分をセロテープでぐるぐると巻いて補修し、そっと掛けてみました。
 見た目は悪いし、かなりぐらつきますが、藤間秀一の様子と幽霊の正体を確認しに行く間くらいはこれでもつでしょう。自分が幽霊と見間違えたものの正体をしっかりと確認して、不安を払拭しなければなりません。
 おばけなんてないさ。おばけなんてうそさ。心の中で歌いながら通用口へ向かいます。通用口に近づいたあたりからは、小さく声に出して歌いました。
 やがて通用口が見えてきます。そこに藤間秀一の姿はありませんでした。
 藤間秀一どころか、誰もいません。ですが、戸は開けっぱなしです。
 勇気を出して通用口から外を覗くと、先ほど白い何かが浮いていたところには何もありません。人気のない駐輪場が、黙って雨に打たれているだけでした。
 では私は一体、何を幽霊と見間違えたのでしょう?
 釈然としない気持ちを抱えながら、通用口の戸を閉めます。
 戸は立て付けが悪いようで、片手では閉められませんでした。
 仕方なしに、えい!と、力いっぱい両手で戸を閉めます。
「あら……?」
 その時に頭を下げていた私は、戸のレールの部分からその周辺の廊下までがびっしょりと濡れていることに気が付きました。
 そして、そこから水滴が点々と、その先の廊下へ続いています。
 それはまるで、外から入ってきた〝何か〟の痕跡のように。
 ごくりと息を呑みました。
 もしかして。
 嫌な予感が一瞬だけ私の頭をよぎりましたが、すぐにかぶりを振って否定しました。
 大丈夫です。幽霊なんていないのですから。
 私はその水滴をたどることにしました。もしかしたら、ずぶ濡れの地域猫が校内に迷い込んだのかもしれません。瑠璃村島は地域猫が多いのです。
 俯いたまま廊下を歩き、階段を登り、また廊下を進みます。
 少しずつ、水滴が落ちている間隔が広くなっていきました。
 ところが、あるところまで来ると、その水滴は廊下の真ん中で突然途切れていたのです。そこから先、どれだけ目を凝らしても廊下に水滴は落ちていません。
 おや?と思い、顔を上げます。

 ——そこは、第二美術室の前だったのです。

 一階の駐輪場近くの出入り口から続いていた水滴は、第二美術室の前の廊下で突然ぷつりと途切れていました。まるで、雨水を滴らせながら廊下を進んでいた〝何か〟が、すぐ横の壁をすり抜けて第二美術室の中に入ったように。
 壁をすり抜けるなんて、生身の生き物にできるわけがありません。つまり——
 私の身体中の血の気が引いていきます。恐怖のあまり身体が強張って、上手く息が吸えません。でも、それでも、私は肺に残っていた空気をありったけ吐き出しながら叫びました。

 ……そこからどうなったのか、私はよく覚えていません。
 気がついた時には、保健室のベッドの上だったのですから。

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