酷い目にあった。
僕はげっそりとした気分で五限目の日本史の授業を聞いていた。
斜め前の席の蜜木が、心配そうな顔でチラチラと僕の方を振り向いて、【大丈夫?】と書かれた手紙を回してきた。人目も憚らず堂々と回してきたその手紙は、たった今資料として配られたプリントの裏に書いてあった。
【大丈夫ではない。】とシャーペンで書き込み、その下に赤いボールペンで【※手紙回しの基本ルール! 手紙回しは先生にバレないようにコッソリと回すべし!】と注意書きをして、咳払い。振り向いた蜜木に手紙を返した。
返ってきた手紙を読んで、蜜木が頷いている。手紙回しのルールをようやく身につけてくれたようだ。
高木先生はあの後、僕と蜜木に奉仕内容を厳しい口調で手短に説明した。
命じられた奉仕活動の内容は、通学自転車の安全確認。放課後、生徒達が部活動をしている間に駐輪場へ行き、自転車通学の生徒がきちんと校則を守って通学しているか厳しくチェックするというものだった。
自転車通学時に着用必須となっているヘルメットがきちんと自転車のカゴに入っているか。自転車が改造されていないか。学校に申請していない自転車で通学してきていないか。以上のことを、自転車の登録番号と氏名が記載された名簿と照らし合わせて、一台一台確認していくのだ。
名簿は蜜木が渋々という態度で高木先生から受け取っていた。
それにしても、この生徒会長である僕が、生徒指導の末に校内奉仕活動とは……
憂鬱な気分で窓の外を見れば、五限目が始まった頃にぽつぽつと降り始めた雨がいよいよ本降りになってきた。風も出てきたようで、風に煽られた雨粒が窓ガラスに叩きつけられている。
そんな空模様が、僕の憂鬱な気分に拍車をかけた。
瑠璃島村中学校の駐輪場の自転車置き場は、最低限の支柱の上に心もとない屋根を乗せた簡素なものだった。屋根の幅も狭いため、自転車が停まっている状態では雨宿りができない。こんな暴風雨の中で高木先生に命じられた作業を行えば、傘をさしていても僕たちはびしょ濡れになってしまう。名簿だって無事では済まないだろう。
間が悪いことに、今日は体育がなかったので、僕も蜜木も体操着を持ってきていない。なのでこの奉仕活動は制服で行うという選択肢しかなく、それがますます僕を悩ませた。
制服が濡れるのは嫌だ。
蜜木だって困るはずだ。なにせ、蜜木の制服は買ったばかりだろうし。
蜜木も天候を気にしているようだった。再び回ってきた手紙には、【天気悪くてイヤだね。今日、カサ持ってきた? オレは忘れちゃった】と書いてあった。文末に、蜜木の書いた蜜木猫の絵が添えられている。蜜木猫は目がバッテンになっていて、困っている様子だった。
僕は蜜木猫に矢印を引いて【かわいい】と書いた。
それから、【持ってきていない。困った】と書いて、その横に泣いている黒猫の絵を描いた。
この手紙を読むまですっかり忘れていたが、そういえば僕も今日、傘を持ってきていなかった。本当にもう、この絵のとおりに泣きたい気分である。
机を消しゴムでトントンと叩いて、振り向いた蜜木に手紙を回す。
また手紙が回ってくる。
僕の描いた黒猫の絵に矢印が引かれて【かわいい】と書いてあった。ちょっと嬉しい。その下に【そっか。自転車チェックの時に借りようと思ったんだけどね。でも、第二美術室に使われてない折りたたみカサが置いてあったから大丈夫。そのカサさして、自転車チェックはオレがやるよ。怒られたの、オレのせいだし。会長は部室で待ってて。】と、書いてある。
僕は慌て返信を書き込む。
【嫌だ。確かに怒られたのは蜜木のせいだ。でも、これは僕と蜜木に任されたことだから、蜜木ひとりに押し付けるのは僕の気が済まない。だったら全部サボって怒られた方がマシだ。】
その下にひとまわり小さい文字で【僕は真面目なので決してサボったりはしないが。】と書き足して、また机を消しゴムでトントンと叩く。
手紙を蜜木に回すと、すぐに返事が返ってきた。
まず、さっき僕の書いた返信に矢印が引いてあり、【真面目。あと優しい。そういうところが好き。】と書いてあった。
『好き』の二文字を妙に意識してしまって、読んだ瞬間に僕の鼓動が少し早くなる。
そういう意味の『好き』ではないのに、馬鹿みたいだ。僕も蜜木も男なのだし。
その下にはこう書かれていた。
【でも、オレのせいで会長がぬれるのは嫌だよ。せっかく少し仲良くなれたのに、こんなことで嫌われたくない。】
蜜木は心臓に毛が生えているくせに、変なところで気が小さくなるようだった。
【こんなことで嫌いになったりしない。僕の器の大きさをなめるな。】その横に、熊のように二足歩行で両手を上げて怒っている黒猫の絵を描いて、手紙を回す。
手紙を読んだ蜜木はふふ、と小さく声を漏らして笑った。
また手紙が回ってくる。
二重線を引いて強調された【好き】という二文字から、僕の返信と、怒っている黒猫の絵に向かってそれぞれ一本ずつ矢印が引いてあった。
不意に受け取った『好き』を、また意識してしまう。
蜜木め。そんな挨拶を交わすくらいの軽い調子で人に好き好き伝えていたら、いつか誰かに勘違いされても知らないぞ。なにせこの僕でさえ、ほんの一瞬、勘違いしそうになってしまうのだから。
こそばゆい気持ち半分、呆れた気持ち半分で斜め前の蜜木の背中を見つめてから、また視線を手紙に戻す。
その下に書かれた【ありがとう。じゃあ一緒にぬれようか。ごめんね。】という蜜木の書き込みで、あっという間にプリントの裏面は僕らのやり取りで埋まってしまっていた。
再び窓の外を見る。雨も風も、止む様子はなかった。
どうしたものだろう。
困り果ててため息が出た。
僕は自分が濡れるのも嫌だが、蜜木が濡れてしまうのも嫌なのだ。
蜜木は同居している祖母に気を使うと言っていた。蜜木はさっき奉仕活動をひとりでやると提案してくれていたが、雨に打たれて制服がずぶ濡れになった状態では家に帰りづらいだろう。
なんとかならないだろうか。
いや、なんとかしてやりたいのだ。
うーんと頭を捻る。
どこかに打開策のヒントがないか、僕は教室内に視線を漂わせる。窓、天井、蛍光灯、テレビ、時計、黒板、教卓。床、椅子、机、教科書……
僕の視線が、机の上の日本史の教科書で留まった。
教科書には、江戸時代の人たちが雨の日に傘を差している浮世絵が載っていた。
僕は気がついた。傘というものは、大昔から現代に至るまで、目立った進歩をしていないのだ。これがうんと進歩してくれていたら、僕は今こんなに困っていなかったかもしれないのに。
——いや、待て。
その瞬間、僕の頭の中に、ひらめきの閃光が走った。
だったら、僕らが進歩させればいいんじゃないか?
そうだ。斬新な発想で、人の役に立つ新しい何かを生み出してこそ発明だ。
この世のまだ誰も作っていないものがあるなら、発明部が世界中の誰よりも先に作ってやればいい!
蜜木のプリントの裏は埋まってしまったため、今度は自分のプリントの裏に手紙を書くことにした。
今すぐ蜜木の背中を叩いて、振り向かせて大声で伝えたい。そんな気持ちを全部筆圧に乗せて、勢いよく書いた。
【まだ誰も作ったことのないような傘を発明しよう! 発明部の活動開始だ!】
▽
僕はげっそりとした気分で五限目の日本史の授業を聞いていた。
斜め前の席の蜜木が、心配そうな顔でチラチラと僕の方を振り向いて、【大丈夫?】と書かれた手紙を回してきた。人目も憚らず堂々と回してきたその手紙は、たった今資料として配られたプリントの裏に書いてあった。
【大丈夫ではない。】とシャーペンで書き込み、その下に赤いボールペンで【※手紙回しの基本ルール! 手紙回しは先生にバレないようにコッソリと回すべし!】と注意書きをして、咳払い。振り向いた蜜木に手紙を返した。
返ってきた手紙を読んで、蜜木が頷いている。手紙回しのルールをようやく身につけてくれたようだ。
高木先生はあの後、僕と蜜木に奉仕内容を厳しい口調で手短に説明した。
命じられた奉仕活動の内容は、通学自転車の安全確認。放課後、生徒達が部活動をしている間に駐輪場へ行き、自転車通学の生徒がきちんと校則を守って通学しているか厳しくチェックするというものだった。
自転車通学時に着用必須となっているヘルメットがきちんと自転車のカゴに入っているか。自転車が改造されていないか。学校に申請していない自転車で通学してきていないか。以上のことを、自転車の登録番号と氏名が記載された名簿と照らし合わせて、一台一台確認していくのだ。
名簿は蜜木が渋々という態度で高木先生から受け取っていた。
それにしても、この生徒会長である僕が、生徒指導の末に校内奉仕活動とは……
憂鬱な気分で窓の外を見れば、五限目が始まった頃にぽつぽつと降り始めた雨がいよいよ本降りになってきた。風も出てきたようで、風に煽られた雨粒が窓ガラスに叩きつけられている。
そんな空模様が、僕の憂鬱な気分に拍車をかけた。
瑠璃島村中学校の駐輪場の自転車置き場は、最低限の支柱の上に心もとない屋根を乗せた簡素なものだった。屋根の幅も狭いため、自転車が停まっている状態では雨宿りができない。こんな暴風雨の中で高木先生に命じられた作業を行えば、傘をさしていても僕たちはびしょ濡れになってしまう。名簿だって無事では済まないだろう。
間が悪いことに、今日は体育がなかったので、僕も蜜木も体操着を持ってきていない。なのでこの奉仕活動は制服で行うという選択肢しかなく、それがますます僕を悩ませた。
制服が濡れるのは嫌だ。
蜜木だって困るはずだ。なにせ、蜜木の制服は買ったばかりだろうし。
蜜木も天候を気にしているようだった。再び回ってきた手紙には、【天気悪くてイヤだね。今日、カサ持ってきた? オレは忘れちゃった】と書いてあった。文末に、蜜木の書いた蜜木猫の絵が添えられている。蜜木猫は目がバッテンになっていて、困っている様子だった。
僕は蜜木猫に矢印を引いて【かわいい】と書いた。
それから、【持ってきていない。困った】と書いて、その横に泣いている黒猫の絵を描いた。
この手紙を読むまですっかり忘れていたが、そういえば僕も今日、傘を持ってきていなかった。本当にもう、この絵のとおりに泣きたい気分である。
机を消しゴムでトントンと叩いて、振り向いた蜜木に手紙を回す。
また手紙が回ってくる。
僕の描いた黒猫の絵に矢印が引かれて【かわいい】と書いてあった。ちょっと嬉しい。その下に【そっか。自転車チェックの時に借りようと思ったんだけどね。でも、第二美術室に使われてない折りたたみカサが置いてあったから大丈夫。そのカサさして、自転車チェックはオレがやるよ。怒られたの、オレのせいだし。会長は部室で待ってて。】と、書いてある。
僕は慌て返信を書き込む。
【嫌だ。確かに怒られたのは蜜木のせいだ。でも、これは僕と蜜木に任されたことだから、蜜木ひとりに押し付けるのは僕の気が済まない。だったら全部サボって怒られた方がマシだ。】
その下にひとまわり小さい文字で【僕は真面目なので決してサボったりはしないが。】と書き足して、また机を消しゴムでトントンと叩く。
手紙を蜜木に回すと、すぐに返事が返ってきた。
まず、さっき僕の書いた返信に矢印が引いてあり、【真面目。あと優しい。そういうところが好き。】と書いてあった。
『好き』の二文字を妙に意識してしまって、読んだ瞬間に僕の鼓動が少し早くなる。
そういう意味の『好き』ではないのに、馬鹿みたいだ。僕も蜜木も男なのだし。
その下にはこう書かれていた。
【でも、オレのせいで会長がぬれるのは嫌だよ。せっかく少し仲良くなれたのに、こんなことで嫌われたくない。】
蜜木は心臓に毛が生えているくせに、変なところで気が小さくなるようだった。
【こんなことで嫌いになったりしない。僕の器の大きさをなめるな。】その横に、熊のように二足歩行で両手を上げて怒っている黒猫の絵を描いて、手紙を回す。
手紙を読んだ蜜木はふふ、と小さく声を漏らして笑った。
また手紙が回ってくる。
二重線を引いて強調された【好き】という二文字から、僕の返信と、怒っている黒猫の絵に向かってそれぞれ一本ずつ矢印が引いてあった。
不意に受け取った『好き』を、また意識してしまう。
蜜木め。そんな挨拶を交わすくらいの軽い調子で人に好き好き伝えていたら、いつか誰かに勘違いされても知らないぞ。なにせこの僕でさえ、ほんの一瞬、勘違いしそうになってしまうのだから。
こそばゆい気持ち半分、呆れた気持ち半分で斜め前の蜜木の背中を見つめてから、また視線を手紙に戻す。
その下に書かれた【ありがとう。じゃあ一緒にぬれようか。ごめんね。】という蜜木の書き込みで、あっという間にプリントの裏面は僕らのやり取りで埋まってしまっていた。
再び窓の外を見る。雨も風も、止む様子はなかった。
どうしたものだろう。
困り果ててため息が出た。
僕は自分が濡れるのも嫌だが、蜜木が濡れてしまうのも嫌なのだ。
蜜木は同居している祖母に気を使うと言っていた。蜜木はさっき奉仕活動をひとりでやると提案してくれていたが、雨に打たれて制服がずぶ濡れになった状態では家に帰りづらいだろう。
なんとかならないだろうか。
いや、なんとかしてやりたいのだ。
うーんと頭を捻る。
どこかに打開策のヒントがないか、僕は教室内に視線を漂わせる。窓、天井、蛍光灯、テレビ、時計、黒板、教卓。床、椅子、机、教科書……
僕の視線が、机の上の日本史の教科書で留まった。
教科書には、江戸時代の人たちが雨の日に傘を差している浮世絵が載っていた。
僕は気がついた。傘というものは、大昔から現代に至るまで、目立った進歩をしていないのだ。これがうんと進歩してくれていたら、僕は今こんなに困っていなかったかもしれないのに。
——いや、待て。
その瞬間、僕の頭の中に、ひらめきの閃光が走った。
だったら、僕らが進歩させればいいんじゃないか?
そうだ。斬新な発想で、人の役に立つ新しい何かを生み出してこそ発明だ。
この世のまだ誰も作っていないものがあるなら、発明部が世界中の誰よりも先に作ってやればいい!
蜜木のプリントの裏は埋まってしまったため、今度は自分のプリントの裏に手紙を書くことにした。
今すぐ蜜木の背中を叩いて、振り向かせて大声で伝えたい。そんな気持ちを全部筆圧に乗せて、勢いよく書いた。
【まだ誰も作ったことのないような傘を発明しよう! 発明部の活動開始だ!】
▽
