「奇二ちゃん。おつかれさま、ありがとう」
 クラスメイトの彼女が、演技を終えた夜風に駆け寄ってくる。
「此方こそ。楽しかったよ」
 にこりと笑った夜風に、クラスメイトの彼女はふっと表情を緩ませた。その顔がすぐにまた強張って、近くにいた晴は横目でその様子を伺っている。
「あ、そうだ。田代くん、なんだけどさ」
 彼女が携帯の画面を素早く操作して、夜風に差し出す。そこにはクラスのチャットルームの画面が映し出されていた。
《急性胃腸炎でした。明日の代役だれかたのみたい》
 田代からのメッセージだった。状況を察したらしい夜風が、『またか』と言いたげに苦笑いする。
「もう今日これしか言ってない気がするけどさ、明日もお願いしていい?」
「良いよ、私もやるなら最後までやりたいし」
「ありがとうー!奇二ちゃんマジ神、最高」
 ぶんぶんと夜風の手を振りながら、クラスメイトの彼女が飛び跳ねている。やめてよ神様なんて、と謙遜しつつも、夜風が照れ臭そうに微笑むのを、晴はほっとしたように眺めていた。

「晴」
 階段に座っていた晴が夜風の声に振り返ると、黒いネコの顔が彼の目の前に迫っていた。思わずびくっと肩を震わせて飛び退いた晴を見て、してやったりという風にそのお面の奥に覗く双眸が笑っている。
「……夜風か。びっっくりした」
 ちりん、と鈴の音を鳴らして、夜風が晴の隣に腰掛ける。
「ごめんごめん、びっくりさせて。おつかれさま」
「おつかれ。夜風、今日だけで本番何本こなしたの?」
「3本、かな」
「すごいよ。流石、夜風だ」
 晴が素直にそう言うと、夜風は少し照れたように笑った。

 翌日。
 文化祭は、一般公開の日を迎えていた。華やかな校舎の雰囲気とは裏腹にげんなりとした表情の夜風を見て、晴は少し笑ってしまう。
「どうしたの、辛気臭い顔して」
「………人混みが苦手なんだよ」
 本当に昨日のマジシャンと同一人物だよな、と思って、また少し笑ってしまった。夜風が晴の方をちらりと見て、更に眉間の皺を深くする。
「何が面白いの?」
「いや、別に」
 しらを切っても尚探るような視線から目を逸らして、時計を見る。
「夜風、そろそろじゃないの?」
「そうだ」
 そうだね、と夜風が言い掛けたその時、彼女の背後から元気な声が飛んできた。
「奇二ちゃん!」
 その勢いに、夜風だけでなく晴も肩をぴくりと震わせる。
「びっくりした。…って、そのお面」
 夜風が指差したクラスメイトの彼女の顔は、上半分が黒ネコのお面で覆われていた。
「借りたよ。宣伝してたんだ」
「私の物じゃないから別に良いけど、あれは宣伝するような大層なものじゃないよ」
「良いだろ。大層に見えるんだから大層なものってことにしとけ」
 晴がそう言ったのに応えて、クラスメイトの彼女がうんうんと頷く。夜風が少し困ったように、でもどこか嬉しそうに笑った。
「じゃあ、エンターテイナーさん。そろそろ出番ですよ」
 少し戯けたような彼女の声を聞いて、夜風がくすぐったそうに笑う。
「承知しました」
 スカートの裾を摘む古風なお辞儀をして、エンターテイナーは教室の方に向かって行った。

 いつもの階段の踊り場で、夜風が黒ネコのお面を見つめていた。それを見つけて、晴が訊ねる。
「夜風。今日はお面取るの?」
「え? 取らないよ」
 当然のように、夜風が言う。
「私は、ネコを被れば人前に立てる。でもまだ、素顔で人前には出られない」
 これが何かの物語なら、最後はお面取って舞台に上がるんだろうけどね、と続けて、彼女は笑った。
 お面を付けて歩き出す夜風を見て、嗚呼、と思う。楽しそうだ。何だか、すごく。
 確かに、これが何かの物語であるならば、主人公は最後にお面を取って、自分の素顔で舞台に立つだろう。
 でも、そうじゃない戦い方があったって、きっと良い。顔を隠しても、ネコを被っても、それで楽しく演れるなら、万々歳ではないか。
 でも、と、晴は思う。
 夜風の素顔がお面を被った顔だと、どうか彼女にだけは錯覚して欲しくない。
 舞台から降りた後、どうかそのお面を外してあげられる人が、彼女の側に居たら良い。もちろん、もしそれが僕なら、本当に嬉しいけれど。
「夜風」
 階段を降りた黒ネコが、此方を振り向いた。
「演技終わったら、それ外してさ」
 階段を降りて、1歩、歩み寄る。
 ネコの耳を、軽くこつんと弾いた。
「どっかの出し物でも、見に行こうよ」
 自分の耳を弾かれたみたいにそこをさすっていた夜風が、彼の方を見る。
 ふっと、夜風らしい優しい微笑みが、お面の下で花開いたのが分かった。
「うん、行く」
 魔性の黒ネコが、教室の扉の横に立つ。
 ふぅ、と息を吐く。
「……見てるから。行ってらっしゃい」
 晴の目を見たお面の奥の双眸が、ふっと笑った。ひと言だけ、言葉を発する。
「行ってきます」
 それで、良かった。
 それだけで、十分だった。
 ねこかぶりのエンターテイナーは、教壇の方へと一歩を踏み出した。

「さぁ、皆様、大変長らくお待たせいたしました。開演のお時間でございます………」
 朗々と語り出す黒ネコは、何だかどうしようもないほどに眩しかった。