夜風(よかぜ)。おつかれさま」
 階段の踊り場でひらりと手を振った(はる)に、夜風が盛大に溜息を吐く。
「『おつかれさま』じゃないよ、無理があるって。私にマジシャンの真似事ができるとでも?」
「できてた、できてたよ。急遽の代役なのに、すごいじゃん夜風。期待以上ってみんな言ってたよ」
 笑って肩を叩いてくる晴を睨みながら、夜風は黒いネコのお面を外した。
「大体」
 不満気に顔を(しか)めながら、お面をひらひらと振って見せる。朱の房の横に付いた、金色の鈴がちりんと音を立てた。
「私が代役務めなきゃいけなくなった原因はどこにいるのさ。文句のひとつやふたつ言ってやらないと」
田代(たしろ)なら体調不良で保健室。せっかく練習してたのに文化祭初日から可哀想な目に遭ってるんだから、そっとしておいてあげてよ」
 病人に突撃するほど鬼じゃないけどさ、とぶつぶつ言う夜風に、僅かに首を傾げながら晴が問う。
「てかさ、夜風。カードマジックなんていつ覚えたの? ちょっと(かじ)ってるの知ってたから推薦したけど、あんなにできるなんて……僕、知らなかったけど」
「あんなのはちょっと練習すれば誰でも出来るよ。夏休みに暇だったからちょっと練習したの。好きな小説にマジック好きのキャラクターが出てきて再燃したんだよね」
「ふぅん。流石、文学少女」
 感心したように呟く晴を見て、愉快そうに笑った夜風がぼそりと言う。
「ドラマにもなってるよ」
「……マジ?知らなかった」
「マジ。割と有名なんじゃないかな」
 夜風が楽しそうに笑った。
(あおい)くーん、そっちに奇二(きじ)ちゃんいる?」
 クラスメイトの声が階下から聞こえて、晴は慌てて逃げようとする夜風の袖を捕まえた。
「待て待て待て待て。逃亡しなくても」
 夜風はさっきまでの笑顔とは打って変わって、嫌そうに歪む表情を隠そうともしない。
「……もうやらないよ」
「さっきのが評判になったらしいよ。奇二ちゃん、もう一回だけ。ね?」
 お願いだよ、とクラスメイトに手を合わせられて、夜風が困ったように目を逸らす。
「ほんとにもう一回だけ?」
「ゔ、うぅーん、もしかしたらもっとやってもらう、かも……」
 嘘がつけないらしいクラスメイトの彼女に、夜風はふふっと笑って言った。
「何回かやるかも、ってことか。じゃあプログラム真面目に考えないと」
 クラスメイトの表情がぱぁと輝く。
「え、じゃあ、奇二ちゃんやってくれるの?」
「うん、その場しのぎで終わらせないでいてくれたしね。盛大に失敗するかもしれないけど」
 うわぁマジ神、奇二ちゃんありがとう、なんて言いながら、クラスメイトの彼女は夜風の手を引っ張っていった。
 そこにぽつんと取り残されたのは、晴ただ1人。
「あと10分後ぐらい? ……暇だし、見に行くか」
 小さく独りごちて、晴は伸びをしながら教室へと向かった。

 演技直前。
 夜風は未だクラスメイトの彼女に拝まれている。早々にプログラムを組み終えて、暇を持て余しているのはすぐに分かった。
「夜風」
 晴が声をかけると、少し困り顔の夜風が振り返った。大方、クラスメイトの彼女になんと言えば良いのか分からなくて困っていたのだろう。
「もうサクラは御免だぞ。演技するの大変だったんだから」
「さっきは初めてだったし、晴が目の前にいたからだよ。もうやらないって」
 本当に戸惑ってはいたじゃん、と笑う彼女は、本番前ならではの緊張などというものとは無縁らしい。
「なぁ、夜風。緊張しないの?」
「ネコ被るから。全然平気」
 猫を被る。物理的にネコのお面を被るだなんて、この諺を生み出した人も考えていなかっただろう。
「ふぅん。ま、頑張れ。程々に」
「りょーかい」
 黒いネコのお面で、夜風の顔の上半分が隠れる。普段の夜風からは想像できないくらい強気な笑みが、彼女の口に浮かんだ。
「ではでは、お楽しみくださいね」
 2人に向かってスカートの裾を摘む古風なお辞儀をしてから、ゆっくり教室に入っていく。
「ねぇ、葵くん」
「うん?」
「奇二ちゃんって、いつもあんな感じだっけ?」
「いいや、全然。あんまり目立ちたがらない性格な癖に、いざ演るとなるとエンターテイナーだよな、彼奴(あいつ)
 観衆を目の前にして朗々と語り出す黒ネコを、晴はどこか嬉しそうに見つめていた。