古い喫茶店の二階は、午後の光を静かに受けとめていた。
 窓辺のレースが、港から吹き上がる風に揺れるたび、白い影が水面のようにたゆたった。
 その揺れにつられて室内の光もわずかに動き、木の床に淡い影を落としては消した。
 漂う珈琲の香りは、どこか懐かしい記憶の端に触れるようだった。
 街の音は遠ざかり、この場所だけが別の時間を抱えているように思えた。

 小さな丸テーブルを挟んで、揚羽とマイクは向かい合っていた。
 ふたりは言葉を探しながら、同じ静けさを共有している。
 店の空気さえ、ふたりの会話が始まる瞬間を待っているかのようだった。

 やがて、その沈黙の底から、ゆっくりと幕が上がった。

「今回は、十一月の終わり頃に急に書いてみようって思ったんです。気づいたら二週間で終わっていて……ものすごく楽しかったです」

 マイクは片眉を上げ、煙草も吸わないくせに、煙でも吐くような笑いを零した。
「素人童貞にしちゃ上出来だな」

 揚羽は照れと戸惑いの間にあるような表情で、指先をそっと動かした。
「そんな……自分が物語を書けるなんて思っていませんでした」

「初めての作文にしちゃ、ちゃんと読めるよ」

「文字を覚えた子ども向けってことですか?
 これは“あ”です。
 これは“マ”です。
 そういう教材レベルならいける、って……ああ、まぁ、自分でもそう思いますけど」

「まぁ、そのくらいだな。で、何人かに読まれたのか?」

 揚羽は深呼吸して、少し声を落とした。
「自分で読み返すと眠くなって、睡眠薬としては役に立ってます。誤字脱字や誤用もあるんですけど……お手柔らかに、って感じです。

 ええと……八つの投稿サイトに載せてみたんですが、ありがたいことに、奇跡的に何人か読んでくれたみたいで。
 もちろん、間違ってクリックしただけかもしれませんけど……合計で数人です。本当にありがたいです。
 いいね!の欄は“いいね!○”って……書いてあります」

 マイクの口元に、薄い嘲りの影が浮かんだ。
「“いいね!×”じゃなくてよかったじゃねぇか」

「はい。ありがとうございます。
 でも本当は、“もっとここをこう書くといいよ”とか、“帰れ”とか……そういうアドバイスが欲しいんです。
 自分の投稿って、反応ゼロで、通報もゼロで……空気みたいなんですよ」

「誹謗中傷で地獄になるより平和でいいだろ。気にせず好きに書いて投稿しな」

「はい。そうします」

 ちょうどそのとき、古い柱時計が小さく“コトッ”と響いた。
 そのわずかな音に呼応するように光の角度が変わり、テーブルの影が伸びた。
 まるで舞台に照明が入ったようで、店の空気がふたりの会話を次の段へ押し出していく気配を帯びた。

「……なんかさ」
 マイクの声は、急に深い場所へ沈んだ。湿り気を帯びたアスファルトの匂いでも含んでいるような声だった。

「こうしてだらだら話してると、また続きが始まりそうじゃねぇか」

 揚羽の伏せたまつげの先が、ぴくりと動いた。
「え?」

「第二弾。勝手に動き出すときがあるんだよ、物語ってやつは。
 書き手が止まってても、向こうで勝手に転がる」

「そんなものなんでしょうか。
 私は今回の作文にアドバイスいただいてからじゃないと、次に進めないです」

「まぁな。でも、そのうちまた、お前の指が勝手に動き出す。
 そしたら、参加してやるよ」

 揚羽の頬に、柔らかな光が触れた。
 そのぬくもりを受けとめるように、揚羽は微笑んだ。
 胸の奥で、小さな灯がふっと跳ねた。

「……なんだか、とても嬉しいです」

「気張らずにやれよ。物語は逃げねぇ。
 そのうちまた、お前の前へふっと現れてくるぜ」

 揚羽は静かに息を吸った。
 その音が、店内の時間をまた一つ、柔らかい色に変えた。

 窓の外の光は、夕暮れの手前で立ち止まっている。
 幕は閉じる気配を見せず、薄いままそよいでいた。
 物語は舞台袖で片目をこちらに向けながら、出番をうかがっている。

 第二弾はすでに息をし始めていた。
 静かでありながら、確かな気配を帯びて。
 この古びた二階の空気もまた、その胎動に耳を澄ませているようだった。

 まずは、この『浦和探偵事務所帖』、
  一話ごとに幕が開き、
    水戸黄門のように、どこから読んでもお楽しみいただける趣向にてございまして……。

 ひとえに、皆さまのお力添えあってのことでございます。
  重ねて……
    重ねて……

 身に余る思いにございまして……
    心より、ありがたく頂戴しております。