どうにかしていたら家がぼやけた視界に映った。
帰ってきた瞬間、その場で静かに膝を崩した。
息を吐いた途端、口から何か魂みたいなのが溢れるような感覚がする。
「おかえり」
「うん……」
キッチンに向けて届かない返事を送ったむもりだった。
「ぅわっ……」
気の抜けた声。
一瞬、階段を踏み違えて転びそうになっていた。
角にぶつけた足からじわっと身体を蝕むみたいに、思ってたより強く痛みが広がる。
もう一息、どうにか手摺に寄りかかって登り切った。
何故だろう。体が重くて勝手にベットに転がり込んでた。首を動かしたいのに酷く錆びついたみたいだった。
そういえばまだお風呂に入ってなかった。
まだ着替えもしてないし、晩御飯もまだ。荷物だって放りっぱなしのままなのに……
でも机がぼやけて見――
――――
―――
――
温もりに包まれて心地よかった。
気づいたら眩しいのに瞼がまだ重い。
まだベッドに体を預けていたい。
あと五分なんて到底足りない。
「んん……」
連日の寝不足が体をだるくさせた。
顔が寒くて布団から外へ出る気がしない。それなのに誰も待ってはくれなくて急かすばかり。
だから一回だけ顔を布団に埋めてそれから目を開けた。
すぐに準備を整え家を出て早歩きで駅に向かう。勝手と早い電車に飛び乗っていた。
無意識に電車の揺れや暖房の暖かさが意識を遠のけた。けどそれに気づいて急いで単語帳を開いて昨日の確認をしだす。
席について教科書を開いてた。
少しすると運動部員がゾロゾロと冬なのにシャツの袖をまくって来た。その中に頬をぽっと赤くしてる卓也もいる。
「おはよう」
いつもの顔を作った。
「うす」
机の空いた端に軽く荷物を置かれる。
「昨日の科学とかむずくなかった?」
「本当だよ。ちょっとややこしかった」
「全然ちょっとじゃなーい。かなりだ」
卓也が冗談で机のペンで額を突っついてきた。
その扱いが子供っぽくて少し拗ねて見せる。
「いたいなー。かなりね、かなりー」
「そう。苦手な人にはそうなの」
昨日は期末テストという名のビッグイベントがあった。昨日のためにいくらの時間を費やしたことか。
いつ返されるかは分からない。でも全力を出し切ったはずなのに怖い。思い出すと息が詰まりそうだ。肩にも力が入る。そして勝手に脳が最悪の情景を創り出す。
成績は低い訳じゃない。むしろ全体から見たらかなり高いと思う。でもそれでも毎回毎回評価がつくものには人一倍に身が震える。
今日の返される予定の科学の課題も恐ろしい。
「棚橋、評価なんだった」
三限目。息を整えてプリントの評価欄に目を向けた。
「……うん、」
とりあえず一安心。
「まぁまぁかな……」
周りの生徒の視線が向けられる。
「そんなことないじゃん。どうやったらそんな点数取れんだよ」
「ここに考察を入れてみた。あとは前に習ったことまで関連付けられるからそれも書いた」
「なるほどねー、さすがじゃん」
「成績交換しようよぉ。オレ今回やばくて半分頂戴」
「やだよー。僕も頑張ってるんだから」
今日は掃除の最後の最後までスローモーションのような時間だった。
「ねぇ、誰がゴミ捨てる?」
「「「……」」」
やっと終わるかと思ってたところでこれだ。
ゴミ捨ての当番。大体班の中で登板が回るがあいにく今日の担当が欠席。
誰も声をあげず声をかけた女子を見てる。
「じゃあ、僕がやるよ。貸して」
みんなの視線が向けられた。
「本当? ありがとう」
「マジでナイス」
「さすがっす」
「お願いするね」
そう言って膨らんだビニール袋を渡される。
そのあと、掃除を終えて校舎裏に向かった。自分で引き受けた仕事なのに階段を降りてる途中で胸の中でなにか黒いものがウジャウジャしてる気分になった。
「あっ、棚橋君」
科学担当の吉羽先生だ。先生の手にもゴミ袋。
「持っていくよ。ついでに」
差し出された手に袋を預けると少し胸のどこかが軽くなる。
「ありがとうございます」
今、上手く笑えただろうか。
でももうどうでもいい。
昨日に引き続き身体が重い。授業もそこまで記憶にないし重力が倍になってるんじゃないかというほど体が重い。すぐに横になりたいくらい。でもどれだけ重くても足は自然と美術室へ向かう。
やっと解放された。
「おつかれー」
「お疲れ様……」
部室にはもう何人か集まっていた。
適当な席に荷物を下ろして一息つこうと椅子に深く腰掛ける。何気なく景色を眺めた。
窓際に近い席なのに暖房の風が身にしみる。
勝手に瞼が垂れた。
まずい、でも勝手とまどろ――
――――
―――
心地良い。
でも何か当たった。
頭が揺れて何かが耳に届く。
「――、奏――、奏斗君……」
今度ははっきり「奏斗君」と聞こえた。
慌てて目を開けて辺りを見回した。
そうだ、ここは美術室だ。こんなところで怠けてしまった。
「おはよう、奏斗君ってまつ毛長いね」
肩を揺らしてくれたのは隣にいた笑真だった。寝起きで眩しく見える。というか彼女以外いない。
窓から見えた景色はもう真っ暗。
「あれなんで、こんな……」
寝てたのは一瞬のはずなのに。
「もう、終わっちゃう時間」
その一言で理解した。
「嘘、そんな寝てたのか……」
さぼるなんて情けない。何やってるんだろう、学校で爆睡なんて。
息が自然と押し出された。
笑真はその姿を見てクスクスと笑い始める。
「大丈夫だよ。お疲れ様。皆『奏斗君が珍しい』って言ってた」
「そう……」
呆れられてないのなら良かった。
「というか、ごめん。待たせちゃって。迷惑だった」
そう言って脚に力を込めたのに、すとんと椅子に腰が戻った。
「そんなことないよ。ゆっくりしてて」
笑真はにっこり微笑んでた。その喋り方がゆったりしてて気を遣わせた気がした。
部屋はすっかり静まり返ってて二人だけ。文化祭の準備とは違って今、自分が人に迷惑をかけてる。
嫌、今だけじゃない。
ゴミ捨ての時も先生に頼った。多分間違えなく酷い顔してた。
今日の朝も気づいたら布団の中だった。それに夕飯に呼ばれもしなかった。きっと親が心配しただろう。
だから今は急がないといけない。だけど肩も力が抜けて首も傾いたまま。目もどこか分からないとこをぼぉっと眺めてた。
これじゃまずいのにどこか他人事みたいに感じた。
息も浅い。
「奏斗君大丈夫?」
隣を振り向くと彼女が真剣にこちらを覗き込んでた。
「目がちょっと赤い……」
手で目を軽く抑えた。視界が軽くぼやけてた。
息が吸えてない気がして一回上を向いて深く鼻で吸い込んだ。でも吸えてない。息が漏れ出してしまう。
苦しい、
そう思った時に目が熱くなった。
「えっ?」
自分でも訳が分かんない。
熱は体に広がっていった。目もぼやける。
「奏斗君……」
そっと手が握られた。包まれるような感覚。不思議と自分の手の方が体温が高いはずなのに笑真に触れられてるところが一番温かい。
「強がらなくてもいいんだよ? 赤ちゃんみたいに泣いても」
「え?」
その言葉を聞いて初めて頬に伝った物が自分の涙だと気づいた。どうしたんだろう。急に溢れて来るなんて。何も悲しいことなかったのに。
でも一滴じゃ収まらなかった。自分の手で拭ってもまだ溢れて来る。どんどん顔が熱くなってった。
隣にいた彼女はただ見守ってた。少し心配そうな顔をしてたけど目が合うと「大丈夫だよ」と微笑んでる。距離は近いし手も握られてた。でも自然と恥ずかしくない。
「奏斗君、一回外出よ。もう少しで出ないと」
数分経って涙が収まった頃。笑真は人の荷物分まで待って連れ添ってくれた。何もできなかった。ただ手で目を押さえて鼻をすすって前に進むことしか。
玄関口まで行くと一人人影が仁王立ちしてた。
「おい、棚橋。今日一緒に帰るって約束したじゃんか。何人を――」
目があった瞬間、彼の驚く顔が見えた。きっと真っ赤な目元で子供みたいな顔が彼の瞳に映ったんだろう。
「どうした? 泣いてんの?」
「疲れた、みたいな……」
笑真がそう軽く状況説明すると、教科書が何冊か入ったリュックを代わりに卓也が持ってくれた。それから腕を引いて校門前のベンチまで引っ張ってもらった。
ベンチに腰掛けてから軽く卓也が背中に手を回した。
「なことあった?」
「なんかあったん? 言ってみ?」
そう言われても悲しい訳でもないし。
口を開こうとしたけど声が出なかった。喉で詰まる。
「わか、……な、い……」
もがいて声を絞り出した。
その時卓也に背中を叩かれた。
「お前さ、自覚あるだろ。疲れだよ。俺の約束は覚えてないし、期末もあったしさ」
今日一日を振り返った。特にいつもと変わらない一日だと思う。強いて言えば卓也の言う通り期末試験のことだけ。
でもなんで。今までも何回も受けてきたはずなのに。
「……」
「自分の気持ちには正直になれよ」
なんか、ちょっと胸の奥が苦しい。重石が積まれてってるみたいに。
息をしてるのに辛い。肺の動きが止まってしまったのだろうか。
「勉強そんなに追い込んだ?」
近そうで違う。
「部活やだった?」
「うぅん……」
わずかに首を振った。
「なんて、いうか……」
言葉を探した。
少し迷ってると笑真の手が優しく重なった。
「ゆっくりでいいよ」
やっぱり思い浮かんだのはテスト。
だけど、それだけじゃない……
「評、価……」
もう一度声帯を動かそうとする。
「評価が、気になって……」
自分のズボンを見下ろした。自然と手に力が入っててシワができてる。
「ずっと。いい成績、取らなきゃいけない気がして……取れなきゃ白い目で見られるような感覚があって……」
ある人の顔が浮かんだ。親と教師の顔だった。
「『できるよ』とか進路のこととか……やっても、やっても終わらなくて」
声が少し揺れた。
また目が熱くなった。
それに気づいたのか笑真が距離を詰めた。
「テストだけでも、時間が惜しいくらいに必要で、その上良い評価ばっか取って……」
何だか声に出すと違和感があった。高い成績をとってるのに苦しいだなんて。
「でも、」
感情じゃなくて理性が抵抗した。
「これって贅沢なことだよね……」
「だって成績取れてるんだからそれに越したことはないのに。努力しても評価取れないことの方がきっと嫌だと思う……」
もし、さっきの涙の要因がこれなのだったら「悩むことなんて何もない」そう思う。
そう言い切ったら何故か本当にそれでしっくり来てしまった。
息苦しい。重い。疲れた。辛い。
「奏斗君……」
左隣を見た。笑真の悲しそうな顔がこちらをじっと見つめてた。
「苦しいは苦しいだよ。成績がいいから文句が言えないなんてないよ。嫌だって言って良いんだよ」
握られた左手が熱くなった。
「ちょっと、辛かった……」
そう言い切ったら何故か本当にそれでしっくり来てしまった。
息苦しい。重い。疲れた。辛い。
また涙腺が緩んだ。
でも今度は理由があった。
「そうだよ素直になっていいんだよ。我慢して泣かないとか、一人になっちゃうとか、沢山無理して縮こまっちゃうとか」
「棚橋はなんか、頼るとか苦手そうだけど」
また、軽く背中を叩かれた。
「でも、今ちょっと楽になったんだったらまた話そう。いつでも口頭でもメールでも、思った時にさ」
柔らかな頬が街灯に照らされてるその微笑みが見ててどこか軽くなった。
「ありがと……」
少し息が軽かった。目元ももう冷え始めてた。
でもどこか温かかった。北風が体温を奪ってしまいそうなのに胸の奥に温もりがある。
「そんな、浸るなよ彼氏」
「え?」
卓也が横にいるのを思い出した。一瞬ぼんやりしていた。
「まぁ、それで気が楽ならいいけど」
「えっ、あぁ。ごめん」
慌てて笑真の手を離した。
笑みがぎこちなくて照れてしまったものの、彼女はあまり気にしてもいない様子。
でも指先が少し冷えた。
「ううん。大丈夫だよ。それより帰ろ?」
「そうだね……」
そう言って卓也が持っててくれた荷物を背負い、歩き出した。
もう下校する生徒は三人だった。ずっと時間を気にしてなかったが下校時間からは十分程度が過ぎてしまってた。
「なんか、さっき色々零してた……」
数歩先の道を眺めながらさっきのことが脳で再生されてた。見せようと思ってない涙も話そうと思ってなかった本音も溢れだしてしまった。少し頭が冷えれば恥ずかしい。
「赤ちゃんみたいに泣いていいなんて言ったけど、奏斗君は赤ちゃんじゃないよ? むしろ、嫌だったこととかもっと言っていいよ。言ってくれて楽になってたら嬉しい」
「そう……」
自然と笑真に釣られて控えめだけど口角が上がった。
卓也はその空気感を逃さない。
「もう、両思いじゃん」
茶化されて、ちょっと意識してしまう。
「たまたまだから……」
「へへへ。そんなつもりじゃないんだけどね」
駅までいつも通り向かい、笑真とわかれた。
「ありがとね」
「うん。じゃあまた明日」
「じゃあね」
それから、すぐ帰りの電車が迎えに来る。
混みは少し引いてちょうど二席空いてた。
腰を下ろすとふわっとする。
「寝てろよ。起こすから」
「ありがとう」
膝の荷物を抱いた。
瞼を閉じればすぐにうとうとと意識が遠のいてっ――
――――
―――
――
「んん……」
まだ降りないが目が覚めた。
あれ、なんか視界が斜めになってる。
「起きた?」
すぐ真横に卓也の顔があって、もたれてたことに気づく。
「ごめん。重かった?」
ゆっくり体を起こした。
そして彼の顔を覗く。
「俺の彼女じゃないんだから、肩こりそうだわ」
そう言って肩を回す仕草が大袈裟で「ごめん」と笑ってしまった。
「貸しだからな。今度何かしら返せよ」
そのツンとしたのがいつもの卓也で、いつものなのになぜか微笑ましかった。
「わかった。ありがとう」
そう言うとさりげなく「別に……」とそっぽ向いて、でも静かにそう言われた。
帰ってきた瞬間、その場で静かに膝を崩した。
息を吐いた途端、口から何か魂みたいなのが溢れるような感覚がする。
「おかえり」
「うん……」
キッチンに向けて届かない返事を送ったむもりだった。
「ぅわっ……」
気の抜けた声。
一瞬、階段を踏み違えて転びそうになっていた。
角にぶつけた足からじわっと身体を蝕むみたいに、思ってたより強く痛みが広がる。
もう一息、どうにか手摺に寄りかかって登り切った。
何故だろう。体が重くて勝手にベットに転がり込んでた。首を動かしたいのに酷く錆びついたみたいだった。
そういえばまだお風呂に入ってなかった。
まだ着替えもしてないし、晩御飯もまだ。荷物だって放りっぱなしのままなのに……
でも机がぼやけて見――
――――
―――
――
温もりに包まれて心地よかった。
気づいたら眩しいのに瞼がまだ重い。
まだベッドに体を預けていたい。
あと五分なんて到底足りない。
「んん……」
連日の寝不足が体をだるくさせた。
顔が寒くて布団から外へ出る気がしない。それなのに誰も待ってはくれなくて急かすばかり。
だから一回だけ顔を布団に埋めてそれから目を開けた。
すぐに準備を整え家を出て早歩きで駅に向かう。勝手と早い電車に飛び乗っていた。
無意識に電車の揺れや暖房の暖かさが意識を遠のけた。けどそれに気づいて急いで単語帳を開いて昨日の確認をしだす。
席について教科書を開いてた。
少しすると運動部員がゾロゾロと冬なのにシャツの袖をまくって来た。その中に頬をぽっと赤くしてる卓也もいる。
「おはよう」
いつもの顔を作った。
「うす」
机の空いた端に軽く荷物を置かれる。
「昨日の科学とかむずくなかった?」
「本当だよ。ちょっとややこしかった」
「全然ちょっとじゃなーい。かなりだ」
卓也が冗談で机のペンで額を突っついてきた。
その扱いが子供っぽくて少し拗ねて見せる。
「いたいなー。かなりね、かなりー」
「そう。苦手な人にはそうなの」
昨日は期末テストという名のビッグイベントがあった。昨日のためにいくらの時間を費やしたことか。
いつ返されるかは分からない。でも全力を出し切ったはずなのに怖い。思い出すと息が詰まりそうだ。肩にも力が入る。そして勝手に脳が最悪の情景を創り出す。
成績は低い訳じゃない。むしろ全体から見たらかなり高いと思う。でもそれでも毎回毎回評価がつくものには人一倍に身が震える。
今日の返される予定の科学の課題も恐ろしい。
「棚橋、評価なんだった」
三限目。息を整えてプリントの評価欄に目を向けた。
「……うん、」
とりあえず一安心。
「まぁまぁかな……」
周りの生徒の視線が向けられる。
「そんなことないじゃん。どうやったらそんな点数取れんだよ」
「ここに考察を入れてみた。あとは前に習ったことまで関連付けられるからそれも書いた」
「なるほどねー、さすがじゃん」
「成績交換しようよぉ。オレ今回やばくて半分頂戴」
「やだよー。僕も頑張ってるんだから」
今日は掃除の最後の最後までスローモーションのような時間だった。
「ねぇ、誰がゴミ捨てる?」
「「「……」」」
やっと終わるかと思ってたところでこれだ。
ゴミ捨ての当番。大体班の中で登板が回るがあいにく今日の担当が欠席。
誰も声をあげず声をかけた女子を見てる。
「じゃあ、僕がやるよ。貸して」
みんなの視線が向けられた。
「本当? ありがとう」
「マジでナイス」
「さすがっす」
「お願いするね」
そう言って膨らんだビニール袋を渡される。
そのあと、掃除を終えて校舎裏に向かった。自分で引き受けた仕事なのに階段を降りてる途中で胸の中でなにか黒いものがウジャウジャしてる気分になった。
「あっ、棚橋君」
科学担当の吉羽先生だ。先生の手にもゴミ袋。
「持っていくよ。ついでに」
差し出された手に袋を預けると少し胸のどこかが軽くなる。
「ありがとうございます」
今、上手く笑えただろうか。
でももうどうでもいい。
昨日に引き続き身体が重い。授業もそこまで記憶にないし重力が倍になってるんじゃないかというほど体が重い。すぐに横になりたいくらい。でもどれだけ重くても足は自然と美術室へ向かう。
やっと解放された。
「おつかれー」
「お疲れ様……」
部室にはもう何人か集まっていた。
適当な席に荷物を下ろして一息つこうと椅子に深く腰掛ける。何気なく景色を眺めた。
窓際に近い席なのに暖房の風が身にしみる。
勝手に瞼が垂れた。
まずい、でも勝手とまどろ――
――――
―――
心地良い。
でも何か当たった。
頭が揺れて何かが耳に届く。
「――、奏――、奏斗君……」
今度ははっきり「奏斗君」と聞こえた。
慌てて目を開けて辺りを見回した。
そうだ、ここは美術室だ。こんなところで怠けてしまった。
「おはよう、奏斗君ってまつ毛長いね」
肩を揺らしてくれたのは隣にいた笑真だった。寝起きで眩しく見える。というか彼女以外いない。
窓から見えた景色はもう真っ暗。
「あれなんで、こんな……」
寝てたのは一瞬のはずなのに。
「もう、終わっちゃう時間」
その一言で理解した。
「嘘、そんな寝てたのか……」
さぼるなんて情けない。何やってるんだろう、学校で爆睡なんて。
息が自然と押し出された。
笑真はその姿を見てクスクスと笑い始める。
「大丈夫だよ。お疲れ様。皆『奏斗君が珍しい』って言ってた」
「そう……」
呆れられてないのなら良かった。
「というか、ごめん。待たせちゃって。迷惑だった」
そう言って脚に力を込めたのに、すとんと椅子に腰が戻った。
「そんなことないよ。ゆっくりしてて」
笑真はにっこり微笑んでた。その喋り方がゆったりしてて気を遣わせた気がした。
部屋はすっかり静まり返ってて二人だけ。文化祭の準備とは違って今、自分が人に迷惑をかけてる。
嫌、今だけじゃない。
ゴミ捨ての時も先生に頼った。多分間違えなく酷い顔してた。
今日の朝も気づいたら布団の中だった。それに夕飯に呼ばれもしなかった。きっと親が心配しただろう。
だから今は急がないといけない。だけど肩も力が抜けて首も傾いたまま。目もどこか分からないとこをぼぉっと眺めてた。
これじゃまずいのにどこか他人事みたいに感じた。
息も浅い。
「奏斗君大丈夫?」
隣を振り向くと彼女が真剣にこちらを覗き込んでた。
「目がちょっと赤い……」
手で目を軽く抑えた。視界が軽くぼやけてた。
息が吸えてない気がして一回上を向いて深く鼻で吸い込んだ。でも吸えてない。息が漏れ出してしまう。
苦しい、
そう思った時に目が熱くなった。
「えっ?」
自分でも訳が分かんない。
熱は体に広がっていった。目もぼやける。
「奏斗君……」
そっと手が握られた。包まれるような感覚。不思議と自分の手の方が体温が高いはずなのに笑真に触れられてるところが一番温かい。
「強がらなくてもいいんだよ? 赤ちゃんみたいに泣いても」
「え?」
その言葉を聞いて初めて頬に伝った物が自分の涙だと気づいた。どうしたんだろう。急に溢れて来るなんて。何も悲しいことなかったのに。
でも一滴じゃ収まらなかった。自分の手で拭ってもまだ溢れて来る。どんどん顔が熱くなってった。
隣にいた彼女はただ見守ってた。少し心配そうな顔をしてたけど目が合うと「大丈夫だよ」と微笑んでる。距離は近いし手も握られてた。でも自然と恥ずかしくない。
「奏斗君、一回外出よ。もう少しで出ないと」
数分経って涙が収まった頃。笑真は人の荷物分まで待って連れ添ってくれた。何もできなかった。ただ手で目を押さえて鼻をすすって前に進むことしか。
玄関口まで行くと一人人影が仁王立ちしてた。
「おい、棚橋。今日一緒に帰るって約束したじゃんか。何人を――」
目があった瞬間、彼の驚く顔が見えた。きっと真っ赤な目元で子供みたいな顔が彼の瞳に映ったんだろう。
「どうした? 泣いてんの?」
「疲れた、みたいな……」
笑真がそう軽く状況説明すると、教科書が何冊か入ったリュックを代わりに卓也が持ってくれた。それから腕を引いて校門前のベンチまで引っ張ってもらった。
ベンチに腰掛けてから軽く卓也が背中に手を回した。
「なことあった?」
「なんかあったん? 言ってみ?」
そう言われても悲しい訳でもないし。
口を開こうとしたけど声が出なかった。喉で詰まる。
「わか、……な、い……」
もがいて声を絞り出した。
その時卓也に背中を叩かれた。
「お前さ、自覚あるだろ。疲れだよ。俺の約束は覚えてないし、期末もあったしさ」
今日一日を振り返った。特にいつもと変わらない一日だと思う。強いて言えば卓也の言う通り期末試験のことだけ。
でもなんで。今までも何回も受けてきたはずなのに。
「……」
「自分の気持ちには正直になれよ」
なんか、ちょっと胸の奥が苦しい。重石が積まれてってるみたいに。
息をしてるのに辛い。肺の動きが止まってしまったのだろうか。
「勉強そんなに追い込んだ?」
近そうで違う。
「部活やだった?」
「うぅん……」
わずかに首を振った。
「なんて、いうか……」
言葉を探した。
少し迷ってると笑真の手が優しく重なった。
「ゆっくりでいいよ」
やっぱり思い浮かんだのはテスト。
だけど、それだけじゃない……
「評、価……」
もう一度声帯を動かそうとする。
「評価が、気になって……」
自分のズボンを見下ろした。自然と手に力が入っててシワができてる。
「ずっと。いい成績、取らなきゃいけない気がして……取れなきゃ白い目で見られるような感覚があって……」
ある人の顔が浮かんだ。親と教師の顔だった。
「『できるよ』とか進路のこととか……やっても、やっても終わらなくて」
声が少し揺れた。
また目が熱くなった。
それに気づいたのか笑真が距離を詰めた。
「テストだけでも、時間が惜しいくらいに必要で、その上良い評価ばっか取って……」
何だか声に出すと違和感があった。高い成績をとってるのに苦しいだなんて。
「でも、」
感情じゃなくて理性が抵抗した。
「これって贅沢なことだよね……」
「だって成績取れてるんだからそれに越したことはないのに。努力しても評価取れないことの方がきっと嫌だと思う……」
もし、さっきの涙の要因がこれなのだったら「悩むことなんて何もない」そう思う。
そう言い切ったら何故か本当にそれでしっくり来てしまった。
息苦しい。重い。疲れた。辛い。
「奏斗君……」
左隣を見た。笑真の悲しそうな顔がこちらをじっと見つめてた。
「苦しいは苦しいだよ。成績がいいから文句が言えないなんてないよ。嫌だって言って良いんだよ」
握られた左手が熱くなった。
「ちょっと、辛かった……」
そう言い切ったら何故か本当にそれでしっくり来てしまった。
息苦しい。重い。疲れた。辛い。
また涙腺が緩んだ。
でも今度は理由があった。
「そうだよ素直になっていいんだよ。我慢して泣かないとか、一人になっちゃうとか、沢山無理して縮こまっちゃうとか」
「棚橋はなんか、頼るとか苦手そうだけど」
また、軽く背中を叩かれた。
「でも、今ちょっと楽になったんだったらまた話そう。いつでも口頭でもメールでも、思った時にさ」
柔らかな頬が街灯に照らされてるその微笑みが見ててどこか軽くなった。
「ありがと……」
少し息が軽かった。目元ももう冷え始めてた。
でもどこか温かかった。北風が体温を奪ってしまいそうなのに胸の奥に温もりがある。
「そんな、浸るなよ彼氏」
「え?」
卓也が横にいるのを思い出した。一瞬ぼんやりしていた。
「まぁ、それで気が楽ならいいけど」
「えっ、あぁ。ごめん」
慌てて笑真の手を離した。
笑みがぎこちなくて照れてしまったものの、彼女はあまり気にしてもいない様子。
でも指先が少し冷えた。
「ううん。大丈夫だよ。それより帰ろ?」
「そうだね……」
そう言って卓也が持っててくれた荷物を背負い、歩き出した。
もう下校する生徒は三人だった。ずっと時間を気にしてなかったが下校時間からは十分程度が過ぎてしまってた。
「なんか、さっき色々零してた……」
数歩先の道を眺めながらさっきのことが脳で再生されてた。見せようと思ってない涙も話そうと思ってなかった本音も溢れだしてしまった。少し頭が冷えれば恥ずかしい。
「赤ちゃんみたいに泣いていいなんて言ったけど、奏斗君は赤ちゃんじゃないよ? むしろ、嫌だったこととかもっと言っていいよ。言ってくれて楽になってたら嬉しい」
「そう……」
自然と笑真に釣られて控えめだけど口角が上がった。
卓也はその空気感を逃さない。
「もう、両思いじゃん」
茶化されて、ちょっと意識してしまう。
「たまたまだから……」
「へへへ。そんなつもりじゃないんだけどね」
駅までいつも通り向かい、笑真とわかれた。
「ありがとね」
「うん。じゃあまた明日」
「じゃあね」
それから、すぐ帰りの電車が迎えに来る。
混みは少し引いてちょうど二席空いてた。
腰を下ろすとふわっとする。
「寝てろよ。起こすから」
「ありがとう」
膝の荷物を抱いた。
瞼を閉じればすぐにうとうとと意識が遠のいてっ――
――――
―――
――
「んん……」
まだ降りないが目が覚めた。
あれ、なんか視界が斜めになってる。
「起きた?」
すぐ真横に卓也の顔があって、もたれてたことに気づく。
「ごめん。重かった?」
ゆっくり体を起こした。
そして彼の顔を覗く。
「俺の彼女じゃないんだから、肩こりそうだわ」
そう言って肩を回す仕草が大袈裟で「ごめん」と笑ってしまった。
「貸しだからな。今度何かしら返せよ」
そのツンとしたのがいつもの卓也で、いつものなのになぜか微笑ましかった。
「わかった。ありがとう」
そう言うとさりげなく「別に……」とそっぽ向いて、でも静かにそう言われた。
