知ってほしい。そのままの君が、こんなにも素敵なことを

 多分どこか壊れてた。必要な部品はきっとお母さんのお腹に置いて来たのかもしれない。
 いつも自分のことだけで精一杯だった。自分の楽しいことが優先。次のこと、お昼の後のこと、明日のこと、未来のことなんか何も見えてなかった。

「ねぇ、宿題は?」

「今から琴美(ことみ)ちゃんと遊んでくる」

そう言ってよく思いっきり駆け出してってた。
頭の中にはいつもあれもこれもってポンポンと止まるところを知らずに浮かんできてた。そして気づいてると勝手にそうしてる。

「ねぇ、何してるの?」

「サッカー」

「えまもやる」

ボールで遊んだり、かくれんぼしたり、いろんな種類の鬼ごっこしたり。夏は友達の家のプール行ったり、冬は公園で雪遊びとかあったかい家でゲーム大会してたり。毎日、クタクタになるまで何かしてた。遊びじゃなくてもやってみたいこと、言いたいこと、食べたいものは我慢せずに言ってた。
 絵を描くのだって頭の中にあった世界を何度も見れることが短期のくせに飽きなかった。

「笑真、学校は楽しい?」

「うん」

「いいな。お父さんは嫌いだったけど。笑真は違うんだね」

「そうなの?」

別に、自分だけが特別のお姫様なんて思わなかった。ただ好きなようにして楽しめてれば良かった。
だから周りと自分を比べることもしない。

「そろそろ、宿題の時間なんじゃない?」

眉間に皺が寄る。

「ぇえ? 明日にする。もう眠いからおやすみー」

そう言ってベットに飛び込んだ


「え?」

「おやすみ」

布団にくるまって目を閉じた。
するとお父さんも頭を撫でて電気を消してから部屋を出ていく。あとは全てまどろむままに任せた。
やりたくないことからは逃げればいい。
そう思ってたから。

中学三年生になってからだった。
四月の日の午後、その年初のテストが返って来た。ちょうどそのすぐ前には先生に「進路希望を白紙で出すな」と言われたらのも逃げてた。
 出席番号順に呼ばれていよいよ自分が呼ばれる。
答案は開かずに友達の方へ行く。

「見て見て、エグくない? やったぁ。まじで今回頑張った」

琴美が答案の点数を指さして見せた。

「ねぇ笑真はどうだった」

友達の何人かが目の前に集まって来た。
そして彼女らの前でパッと自分の解答用紙を開いて見せた。

「おぉ〜」

やっぱりいつもの通り、そこには赤のレ点が何個も並んでる。名前の横にはCに丸がついてる。

「えー。やばくない? これで大丈夫なの?」

「何が?」

その時、初めて彼女の表情が曇って見えた。

「だって、高校受験じゃん。三年の成績は受験に影響するし、笑真のその成績じゃやばいよ。バカ高なんてやめた方がいいと思うし」

「それなら受験しない」

いつもみたいに逃げてしまえばいい。

「卒業して仕事するの?」

怪訝そうに首を傾げられた。

「中卒って雇ってくれるかな」

「バイトとか?」

「でもそれじゃキツくない? 生きてける?」

目の前で笑い合う二人。
今日だけはその笑顔を見たくなかった。

「じゃあ。それもやだ……」

気づけば自分の手の中の答案用紙はぐちゃぐちゃに丸めてあった。もう見せられないから。
 いつもの逃げ道がそこにはなかった。
二人も周りの人の持ってる紙に書いてある評価も自分を置いてく。なんてないって顔で。

 その日初めて知った。
社会は逃げようとする自分に選択肢をくれないこと。周りの人もいつも笑ってるのに当たり前みたいに私が逃げてるものと立ち向かってる。
それだけで酷く遠くて、自分が小さくて。いつも晴れたお花畑にいたのに土砂降りの泥まみれのまま置いてかれたような。
でも、もう見えないほど前にいる人たちのところまで走れる気もなくて。

 けれど周りは動いてく。
先生も無理やりにでも進路希望案を書かせてきたし、親も私を塾まで送るようになった。友達だって遊びの約束をなかなかしてくれなくなった。

『受験生だから』

って。
結局高校はなんとなく、模試の結果で先生に勧めされたところ。成績もなんとなくとって。でもまたダメだったりして、点数で自分の価値が決まっていくような日々だった。
 そうやって入った高校ではまた自分のしたいことに逃げてった。勉強はできるようになっても毎日毎日をなんとなく過ごすだけ。
 でも多分、本当はどこかで分かってた。未来とか、周りの競争とか逃げてばっかりだって。だからテストの評価で息をするのが苦しくなっても誰にも見せなかった。
奏斗君にも。
 中学の頃付き合った子もそう。自分から突っ込んだのに嫌だったことを言えないままだった。

「笑真って、ずっと楽しそうだな」

「へへ。そう見える?」

すぐ逃げるくせに、逃げるとその分重く溜まって取れないままだった。
自分の問題だから。

 気づけばまた、進路に向かって私だけ置いてかれる時期。どの子の瞳にもなりたいもの、行きたいところ、したいこと、が映ってるのに自分にはなくて、でも目を背けたくて。高校と同じように適当に大学に入ってた。

 段々とその危機は迫ってた。

大学でも、会社に入ってもいつまでも思ってた。
お腹の中に忘れてって部品のせいで悲鳴を上げ始めてた。
なんでこんな空っぽな人生なんだろう。なんで、どこで止まってるの。ずっと分かっていても逃げる癖。
何にもなれない。今から元気を出してやり方を変えることもできない。

『疲れた』

『なんで? 散々遊んだくせに、何疲れてんだよ』

『生きてるだけマシだろ。根性で乗り切れよ』

何回も頭の中で何かに強く叩かれる。叩かれた痕がジンジンとどんどん痛みが増す。叩いてるのも自分。
泣きたいのに泣かせたのは自分。
全部、自業自得。

 だから大嫌いになった。自分なんか。早く命も諦めてくれないかと思うほど――


 早くベッドに辿り着きたい。
なのにソファーに雑に身体を任せたきり。重力のまま垂れてく粘度の高い液体みたい。全てを無視して天井を見つめるだけ。それはもう死体同然かもしれない。
荷物の片付けもまだ。着替えも。ご飯も。お風呂も。
 でも動きたい意思はある。綺麗な身体でふわふわのパジャマに着替えて、ほかほかしたご飯と唐揚げを久しぶりに頬張りたい。広告で見かけたドラマも見てみたい。
なのに全て重たくて、息をするのでもう精一杯。
こうしてこのまま寝過ごすこと何日だろう。
でも指を折って数えはしない。
自傷行為だから。

部屋の煌々とした明かりさえどうでも良くなる頃だった。瞼が重く段々と下がってきたその時に、ピロンと何かが鳴った。
そしてすぐにもう一度なって仕方なくスマホを手に取る。

『やっほー』
『そろそろさ、集まろうと思って。凛も無事就職できたってメール来てて。みんなで入社祝いしよ』

自分とはまるで違う、自分が影に見えてくるようなメッセージだった。
 夜になると頭の声がたくさん聞こえてくる気がする。

そもそも、飲み会にも何にも顔を出せないのは自分のせい。奏斗君を振った人間に彼に会う資格はない。

『好き……』

『思ったんだ。笑真と付き合ってみたいって』

 告白された時、ふわっと軽くて熱かった。大好きだから。もっと一緒にいたかったから。
なのに、『私も』と答えた先を思い浮かべた。
その浮かべた先にいたの中学の頃のあの子。また自分から飛び込んで後悔する。
それだけなのに

『ごめん……』

勝手に口は動いた。
一瞬だけでも彼を悪者にしてた。私が悪者なのに。
気づいた時にはもう遅くて、やり直す権利も何も残ってなかった。
だから飲み会にも行く権利はない。
私は奏斗君にとっても害になってた。

 それでも今回だけでもいかないとと、震える手で

『いけたら行く』

と送った。
参加しなければ理由は奏斗君に求められる気がしたから。

夜の電車に揺られてた。約束の時間はとうにすぎたけど。人の間から覗く景色は駅に辿りつぐたびにどんどん派手に明るくなっていった。
と言ってもまだ一個。
なのに足の裏がじんじん痛み始めた。
最近こればっかだ。自分が嫌いになった時から身体が鉛のように思う日々が増えてった。

 なんとか立ったまま。目的の駅まで着く。
改札を出ると広場が続く。
遠くには電車から見えてた建物、でもここだけは少し足元が暗い。
そのせいか建物の間にいた満月が妙に明るかった。
星も白い砂みたいに点々と見える。
地上を見れば、「今日は呑むぞお」とはしゃぐ人達。あの人たちも輝いてた。思いっきりの笑顔で。まるで昔の私みたい。

あの人達は私となにが違ったんだろう。どうやったらずっと燃え続けられるんだろう。何が正解だったの。
燃え尽きた星は誰にも見つけてもらえない。
それならもういらないよね。

『諦める』

『もうそろそろ諦めてしまおう』

そう、満月を見ながらへばりついた脚を動かした。
でも重ささえなくなってた。

 あれ。
目に映ったのは前にいた人達の茶色い後頭部、黄色やオレンジの淡い灯り、信号機の青、コンビニの緑。それが段々と端から白く濁ってった。シルエットだけ黒で残ってる。それから白が紫とか緑に変わってぼんやり浮かんで見えた。
広がる異世界に残されたのは静かになる高いキンとした音だけ。

「ちょっ大丈夫ー? おねーさん」

見上げると生温かくてきついアルコールの匂いがした。口から香ったと気づいた瞬間、眉が弱く動く。
街灯の逆光もあって顔はぼんやりしか分からない。

「おねーさん大丈夫そう? 俺の店で休んでく?」

誰かがしゃがんで顔を覗いてきた。
顎に指が添えられた。そして前に引かれる。
それだけで勝手に肩が跳ねた。
でも動けない。

「唇の色死んでるよ?」

あまりにも息が近くて濃厚に感じた。熱くて臭いも強い。
すると勝手に呼吸を忘れた。
口も開きかけて、でも喉でつっかえて止まる。
男の手が離れてもその感触が顎の皮膚に残った。

「とりあえず行こっか」

瞬時に腕を掴まれた。思いもせずに掠れた声が漏れる。

「なに? 痛かった?」

心臓が妙に早く、強く「ドドド」と聞こえてきそうだった。でも脚は半歩しか下がれなかった。

「じゃあ、こっちも持ってあげる」

また手が伸ばされる。
勝手に掴まれた自分の腕は男の腰に回されて固定された。そして反対の手が自分の背中に密着される。その手から全身に鳥肌が立っていく。

「ほら、行くよ」

 どこに連れてかれるんだろう。
 この人誰なんだろう。
 何されるの。
思うと一歩も動けなかった。

「どーしたの? 休んでこ?」

服から漂う甘い臭いも、その低い声も全て逃してくれそうにない。次にどんな手を出されるか分からない。

「ほら」

引っ張られて前のめりになったその時、渾身の力で腕を振り解いてた。そして次の手が出る前にその人を押しのけて走り出す。
 そのまま駅まで行ってしまおうと思った。
けれど、途中で頭がぐらっと揺れた。脚がふらついて、肩が周りの人に当たってしまう。

「……ぅみません……」

声を出すので一杯で呂律が上手く回らなかった。
倒れたい。脚も胴体にも力が入らない。膝も何度か折れかけてる。
胃もドロドロしてるなにかを口から出したがってた。

「おいっ」

周りの足音、話し声、汗臭い匂い、視線が全部自分に冷たくて鋭い水を浴びせてくるような気がした。だからどうにか道端に避けようとした。それで、限界だった。
 酔っ払いのように地面に尻をつけば、少しは気が引いた。でもそれでも今度は周りの音が妙にうるさくねじれて聞こえた。なにを言ってるか分からない、ただの雑音。
脳みそまでまたぐわんぐわんと揺れ出す。

「ぅっ…………」

本当に酸っぱいものが舌の奥まで上がってた。
口に手を置きたかったのにタイルの模様を睨めつけるだけ。
タイルについた手は震えてた。腕も鳥肌を立ててる。額や首、背中に冷たいものが伝ってく。
なのにひんやりしたタイルが心地いい。

「……ぅう…………」

なんだか呼吸をするのも苦しく感じた。息を吸うと吐き気が強まる。
 このまま死ぬのかな。

『早く、このまま楽にならないかな』

意識が体から逃げていこうとする。

「大、丈夫です、か……?」

 また来た。
 あぁ、もういいや。

「…………」

背後からした声に強張ることはもうしない。
 どうにでもなれ。

「えっと……あの、聞こえてる……?」

足音が近づいてくる。

「意識。ある?」

少し開けてから一瞬だけ肩を軽く叩かれた。
薄暗い目の端にしゃがんだのが見えた。

「…………」

「あっ」

目が合った。
でも白く濁って顔は分からない。

「救急車呼びます?」

それには軽く横に首を振った。
そこまでは頼りたくない。

「……人混みで、大丈夫?」

横に振った。

「移動したほうがいい?」

「…………ぅん」

気づくとしゃがんでたその人影に手を伸ばしてた。
するとその人も腕をこちらに伸ばす。

「肩、貸しますね」

ゆっくりと肩を掴まれた。

「立つよ」

ほぼ、その人に身体を預けるようになる。立ち上がる時も脚に力が入ってなかった。

「近くのコンビニのとこまでで大丈夫です?」

小さく頷くと一歩一歩丁寧に進み出した。
全てこの人に固定されてる。
安定するくらい肩は力強く支えられてた。

「痛くない」

「……うん」

なんとかコンビニのベンチまで辿り着いた。
彼がゆっくりと降ろしてくれる。
完全に力が抜けた。

「何か飲んだ方がいいです。買って来ましょうか?」

彼に目を向けた。

「いや、それは大丈夫です……」

「汗かいてるし、一応。心配なので」

「……じゃあ、お願いします……」

そう答えると微かに笑って見えた。
顔はほとんどは店から漏れる光のせいで見えてない。でも彼の髪が天使の金髪みたいにふわふわ金色に輝いてるのは分かった。

「水買って来ます」

 彼が店戻って来る時には吐き気も息苦しさも段々と消えかけてた。

「ちょっと良くなりました」

水を一、二口含んで口を開いた。

「本当?」

「もう少し経ったら帰ります」

「一人で平気ですか?」

「タクシー乗ります……」

「そう……」

 この人は隣にいても変に気にならなかった。

「……」

駅近くのコンビニは不思議なくらい虫の声がはっきり聞こえる。遠くからさっきの人の声や車の音が届く。

「あっ……」

彼が何か発して携帯を手にとるように見えた。

「そろそろ、行かないとかも……大丈夫?」

「大丈夫」

こくと頷いた。

「じゃあ、気をつけてください」

彼が立ち上がった。

「本当にありがとうございました」

下げた頭が上がらない。

「いいって。それより気をつけてね」

そう言って歩き出す。
一瞬顔を上げると、風と共にいい匂いが運ばれて来た。ムスクみたいな香りの。

 タクシーにこんなに長く乗ったことはなかった。家に帰ってもずっとぼぉっとしたまま。飲み会にも参加できずに終わってた。
けれど、前の重たい気持ちはのしかかって来ない。
少しだけ人に頼れたからか。
ベッドに沈んでからの方が、少しだけさっきのことが頭に浮かび上がってくる気がする。肩を組んで支えてくれたこと、飲み物を買って来てくれたこと、ちゃんと心配してくれたこと。
それだけだけど、自然と胸の奥が温まっていく。
 少しだけ一人の夜が軽くなってくる気がした。

 久しぶりにぬは心地よくまどろんでいった。

 翌朝。
目が覚めた時には昼近かった。それでもまだ、ブランケットに埋まったまま。少しの間、目を閉じる。
 数分経ってからだらだらと身体を起こした。
歯を磨くのは重くて口をゆすいだだけ。
そのままなんとなくキッチンにに向かった。
昨日の夜から何も食べていないのに全くお腹は空いてない。
けれど、テーブルに置いてあった袋が目に入った。中にはコンビニおにぎり。昨日のものではなく一昨日くらいに買って帰ったものだった。
それをなんとなく手に取る。

 そして、その日の夜。
かなり早めに寝床についた。昼間調べたところ、明日は朝早めに病院に行くことにした。

「……ぁ」

瞼を閉じかけて止めて、電気をつけた。
リモコンの「ぴっ」という音と共に部屋がまたオレンジ色の光に包まれる。
ブランケットにくるまりながらスマホを開いた。

『昨日はやっぱり、忙しくて飲み会行けなかった』
『ごめん。』

部活のグループチャットに報告するのを忘れてた。
深夜ではないのですぐ既読がつく。

『大丈夫だよ。お疲れ様!』
『また今度行けたら行こうね』

穂乃花からだった。

『休日の昼とか飲みじゃなくても行こ』
『笑真の好きなとこでもいいし』

楓真からも届く。

『ありがとう』

それだけ返してチャット閉じた。それ以上は返信を見れない気がしたから。
避けるようにグループチャットの通知を切ってアラームのアプリを開く。少し早めにセットしておいた。

 もう用はないとさっさと寝てしまおうとした。
スマホを置きかけたその時「ピロン」と通知音がなる。
躊躇いもなくまたそのアプリを開いた。
 通知を切り忘れたと一瞬思ったから。
 なのにそこに表示されたのはいつの間にかなってた開かずのチャット。
指が一瞬止まった。でも逃げなかった。

『できれば今度でもいいから病院に行った方がいいかも』

目を見開いた。
もう過去に置いてきっぱなしにしたままだった。
なのに一瞬、なんのことか分からない。

『昨日はあの後無事に家に帰れた?』
『今は平気?』

「……ぇ?」
もしや……
頭に浮かんだのは柔らかい金髪のムスクの香り。声はあまり思い出せない。
 また一通届く。

『あと、ちゃんと顔見せてほしい』