いつもの制服が今日になって初めて腕を通す時重みを感じた。第一ボタン一つさえ今日は少し透けてて綺麗に見える。
勝手と髪を整える手つきも毛を一本一本確認するみたいにゆったりになった。使い慣れてないワックスもなんとなく手に取ってみる。
それから一旦手を止めた。
「……」
目の前にいた自分に一瞬だけ瞬きを忘れてた。
大事な時、どう見られるか想像したからか。
「行ってくる」
玄関前に立っていると急いで母親、遅れて父親もやって来る。
「気をつけてね」
「僕も後から夏織と行くから」
「うん」
お父さんは昨日帰ってきたばかりのはず。
けれど自然と変わらないその柔らかい目を細める笑いを見せた。
「髪整えた? ワックスとか」
「一応。変だった?」
後頭部に手が回る。
「全然、似合ってる」
すると髪の方へ母の腕を伸びた。
気付けば今は僕よりも小さく華奢な手。
「ちょっと曲がってる」
「ありがと」
「スマホとか定期券とか忘れ物ない?」
「ないよ。それ入試の日も言ってた」
父が低く落ち着いた声でふふと笑う。
母もそれを見て顔が綻んだ。
「ちょっと心配なだけ」
今日に限って何か変わったわけじゃない。ただ少し丁寧だった。
教室に着くとまだ早いのにだいぶ集まっていた。
式が始まるとただ目の前の静けさに背筋が曲がらない。けど練習していた時より校長の話や証書の授与の進みがなぜか速かった。
「卒業生、退場」
気づけば式が終わった。着々と出来事は進でる。
体育館内に響いてるオルゴールの曲が少しだけ気を細くさせた。
担任の話の後、ホームルームが終わった後。
少しだけこの教室、先生、生徒がもう遠くなるように感じる。いつも座っていた椅子、そこから見える景色、まだそこにあるのに触れられない。
これで終わってしまうのか。
「棚橋、またさ、会おうな」
卓也の声と目が濡れてた。
それを見て僕まで目頭が熱くなる。
「うん」
するとスマホが向けられた。
笑顔を作ると卓也が肩に腕を絡ませる。目が赤いまま歯を見せて笑った。その後も何枚か彼が変顔をした。
それが妙に心細い。
「頑張ってこいよ」
「えっ」
一瞬にして心臓が跳ねる。
抜けていた肩にまた力が入る。
そして背中を押された。その押してくれた手が少しだけ熱を帯びてるように感じた。
「言ってくる……」
もちろん、それ以外もう道なんてない。けれど廊下を歩くと一歩一歩が頭の中で強く響く。
教室の前で少しだけ止まる。
まだ、やめれる。
「笑真」
けど腹を括った。
一瞬だけ口に出すのも躊躇っていた。
「奏斗君。また会うよね」
教室からひょっこ彼女が現れる。
目が頬も鼻も真っ赤だった。眉を下げてこちらを見る瞳は震えた光を帯びてる。
それを見て少しだけ軽く頬が上がった。
「もちろん。僕も、また会いたい。あのさ、外出ない?」
「うん」
歩きなが横目で見ると彼女の髪がいつもよりふわふわしてる。巻かれてて、ハーフアップに白い花の髪飾りが添えられてた。
かわいい。今日もかわいい。
でもその姿を見てると段々と息が詰まっていきそう。
外に出ると何組か生徒たちが集まってる。
「笑真。写真撮ろ」
「撮ったの後で送って」
桜が散る門とその後ろの校舎を背景にスマホを向けると彼女が近づいてきた。
そのせいで肩が触れる。それだけでまた跳ねそうだった。シャッターボタンを押すまでそこに目がいきそうになった。
「目赤いな。思いっきり泣いちゃって」
撮った写真を画面に表示すると彼女が寄る。
「それでもいいよ。綺麗に撮れてるから」
「そうだね。ありがとう」
いつもの目を細める笑いをした。
本当ならここで笑い合いたかった。
「笑真、少し話そ」
また少し口が重くなる。
「いいよ」
近くのベンチに腰掛けた。
彼女は自然と背を丸めて花びらが舞うのを眺めてる。
そんな隣であちこちに視線を泳がせてた。膝の上の手、校舎、一瞬だけ彼女を。
頭の中では誰かが何度も『今だ、今だ』と叫ぶ。けれど指一本固まったまま。
「またさ、会えるよね。大学の夏休みとか」
「……うん」
その瞬間、また誰かが強く『言え』と叫んだ。
「ねぇ。話がある……」
変に肩に力が入り直した。
「なに?」
「笑真……」
けれどすぐに耳まで暑くなる。
ちゃんと目を見たかった。
ちゃんと見てもらいたかった。本当だったら朝、鏡に立ってたような整った自分を見せたかった。今はどんな顔をしてるだろう。
でも力のこもった拳から視線が動かない。
口の中が震えた。でも引き返せない。
『好き……』
顔を真っ白に塗りつぶしたかった。
その代わり頭の中が白かった。
それはあまりにも弱々しい告白だった。
「ふっぅ……」
思わず胸が膨らむくらい苦しくなるまで空気を吸って気づいた。吐くと水から上がった時みたい息が浅くなる。首の後ろまでドッドッと音を立てていた。
毛布にくるまった下半身はやけに汗をかいてる。
ぼんやり天井の模様を追いかけてた。
眠気は吹っ飛んでしまった。
「起きなきゃ……」
耳が無視してたアラームを止める。
それからぐったりと身体を起こすと、空いたドアから光が毛布と顔が照らした。眩しくて瞼がぎゅっとくっつく。
日は昇りたての色をして部屋の外の床の影まで色をつけてる。
膝をついて立ち上がり、洗面所に向かった。
一度無造作に髪をかき分けて顔を洗う。
歯を磨いて少し整えたあとキッチンの電気をつけた。
確か昨日買ったパンが冷蔵庫にあるはず。
「いただきます」
冷えていたのをレンジであたためて口にくわえた。
そのまま今日着るシャツをハンガーからとる。一瞬だけ隣りのタンクトップが目に入った。けど今日は出番はない。
着替えをして席に着くと一通り終わった。
ここでスマホを手にとる。でも今は頭のエンジンがかかってない。
そのままその日の朝は麦茶を飲んで家を出た。
家は実家のように住宅街らしい雰囲気ではないし、駅まで少し遠い、けど他のマンションやコンビニ、ドラッグストア、スーパーと充実したものは近くにある。
それに引っ越してきて、こっちの方が建物も電子音も複雑に絡み合っていて、大きいのを知ってる。
でも今日は外を歩いても信号の色が変わっても音はどこか遠のいてて頭の声が大きい。目も景色を追わず視点が固定されてた。
なんで、あんな夢見たんだろう。
昨日何かあったわけでもない。
でも胸の奥が重くなる。
電車の中、スマホの通知は後回しになってぼぉっと揺れてた。
あの時、もっと違かったら今どうなってたんだろう。でもいつか終わってたかもしれない。
ことの発端は卓也からだった。
『俺と恋バナしよ……』
最初はなんの話かと思った。中学の頃は『お前、好きなやついるだろ。ねぇ誰?』なんてど直球に飛んでくる球が合図をしてくるんだから。
でも
『笑真ちゃん、好きでしょ?』
彼なら笑いそうなのに笑わなかった。
だから、ぱっと口が動かない。
『好きって、どんな』
分からないというより確認。
『鈍感が少女漫画なみ』
『それ例えが笑真と一緒』
指が突き出す。
『そう言う、ふと瞬間思い出したり、ドキドキしたり、もっと一緒にいたいとか笑顔みたいとか』
卓也が缶に口をつけて一気に傾けた。
頭に浮かべてみる。目を閉じるように細めた笑い。
頬が丸くなるところ。
温度を持った手に触れれる時の一瞬固まるような感じ。
眉間にわざと眉を寄せた時の顔。
まっすぐ見つめてくる瞳。
スキップしてても走ってても妙に笑いたくなったりする。
『好き……?』
吐いた言葉が重くのしかかって来た。
頭の中でも『好き』と復唱される。
でもそれで違和感はなかった。
『お前さ、もっと正直になったら?』
正直のつもりだった。
しかし言われてる時点で自分のことなんて分かってない。
『だからさー、告れよ』
ため息をつかれてしまった。
『それも、分かるし好きだけど、一緒にいてほしいって、今日も思ったし……』
脈が走り出す。指先まで。
『でも、笑真が僕と恋人になりたいなんて、分からないし……』
隣からベコと金属が曲がる鈍い音がした。
『別に付き合う付き合わない以前に棚橋のそのどんな好きか分からなくても好きだとか、恋人じゃなくても一緒にいたいならそう言うんだよ』
『うん……』
そうやって自分のことすらみてもいない僕のことを卓也が真剣になって考えてくれた。『高校』だけで二人が終わらないように。
『なんでそんなに手伝うの?』
その日の夜もメールで話が続いた。
だから寝る前に一つだけ聞いてみた。
『そりゃ、俺とお前が高校で終わらないように俺がキューピットになるんだよ』
さっきから誰かさんと重なって思わず吹く。
『それに、俺は笑真ちゃんと棚橋カップル見てたいし。くっついたらさ、ていうかそうじゃなくてもちょこちょこ連絡してよ』
その言葉が腕を必死に掴んできてるみたいでくすぐったかった。けど笑みが溢れる。
普通に卓也が隣で寝てそうだった。
『もちろん』
最寄駅に到着したアナウンスで気づく。人の間を小さく謝りながら抜けた。
駅を出てスマホに届いてるメッセージを開く。
昨日の仕事の続きのものが何個か届いてた。
それを見て少し急いで会社に向かう。
「おはよー」
「おはようございます」
今年で入社四年目の大日方さんだった。
片手にはいつものコーヒーが持たれてる。
「今日はめっちゃラフじゃん」
「いや、今日は面倒だったんで」
そう言ってノートパソコンを立ち上げた。
午前中は昨日の続き。データの抽出や照らし合わせ。その日は午後はチームの人とミーティングをしてプレゼンの準備をしてその日は終わった。
家に帰ってからは、なんとなく料理して、洗濯をして、いつも通り風呂に浸かる。そこで少しゆっくりしてから出てパジャマに着替えた。
この髪にしてからはケアが欠かせなくなった。保湿したり、痛めないようにしっかり乾かしたり。でも今日はすこし湿ってたのをそのままにした。適当にソファに身体を任せて一話だけドラマを見る。
でもやっぱり今日は気が乗らず、すぐにベッドに向かった。枕を抱いて気付けば天井を見上げる。
カーテンから漏れた微かな光が天井を照らしてた。
小学校三年生くらいの時だった。
今でも紬君の顔をなんとなく頭の中に描くことができる。
僕は先生に『なんでこんなことするの?』と叱られた時、友達と喧嘩して『謝れ』って言われた日。ただそれだけで周りから誰もいない置いてかれたように感じた。そういう時つむ君は『かなと君は何も悪くない』とは言わない。
けど一人で蹲ってた隣にいてくれたことだけで慰めだった。『一緒にいるよ』と自分の味方でいてくれるみたいだった。
親と同じくらい不思議と隣にいてくれるだけで元気になる気がした。
『学校の後、校庭で遊ぼ』
『いいよ』
彼と遊ぶことが一番多かった。やりたいことを一緒にしてくれる。一緒に笑ってくれて。兄弟か大切な人形みたいな存在。
でも
『ねぇ、今日も外で行こ。サッカーとか』
『今日はゲームじゃダメ?……』
給食の前の休憩時間だった。
いつもは違う。
『なんで? サッカーやろ』
『今日は別のことしたいの。かなと君はいつもやりたいのしてるじゃん』
『別にいいじゃんっ』
そう言って俯いた彼の腕を引っ張った。
『やだっ』
立たせようと肩まで手を伸ばそうとして押された。
身体が傾いて一、二歩下がる。
『かなと君って、いつもさ、そうじゃん……』
顔が歪んでった。けど声は揺れてるのに芯のある。
僕は固まったままだった。
『なんで、僕のしたいことはダメなの? なのにかなと君だけはいいの?』
そう叫んだ瞬間、教室中の視線が集まった。
彼の目がどんどん赤らんでいく。そして、一粒二粒三粒と目から涙が落ちてった。
みんなが集まってくる。
僕は動けないまま。
何がダメだったの?
いつも通りに、話してただけなのに。
でも、その姿をみてなぜか気が遠くなるようだった。
結局、その後は先生に叱られ、家に帰ってからは母親に電話がかかって来た。
一階の階段のところで母親が何か話してるのが聞こえた。それからそのあとお母さんが部屋に入って来る。
『奏斗がね、クラスの人に迷惑かけてたって聞いたんだけど、心当たりある?』
僕はどうやら紬君に知らないうちに嫌なことをさせてたらしい。本当は僕は僕を守ってくれた彼にやりたくもない遊びを無理矢理押し付けてた。
それに、僕は紬君以外の友達にも同じのとをしてたし、授業中も先生を困らせてた。
『ねぇ、今は算数の時間でしょ? 奏斗さん、一回それやめよう』
『やだっ』
そう言って先生が机に置いたクレヨンを持ち上げようとするのに抵抗したことを思い出した。
その日、そのことについてずっとお母さんと話した。お母さんは怒りも焦らせもしないただ柔らかく笑ってた。
『悪いことしちゃったよね。でも、悪気がないならこれから変えていこ。ね?』
『うん……』
『でも奏斗はさ、悪気はないと思うし、みんな悔しいことも失敗もあるから。大丈夫だよ。一人じゃないから』
『……うん』
そう言われると、胸がじんと熱くて重くなった。
なぜか、目が熱くなってお母さんの腰に腕を伸ばした。
すると必ず頭を撫でてくれる。
その優しく丁寧な手つきが心地よかった。
その夜。
早くつむ君に謝りたくなってた。
あんなに隣にいてくれた彼を自分から突き放した。紬君の泣いたとこを浮かべては、頭の中でぐるぐるしたものがどんどん出てきて、詰まって、重くなるようだった。
傷つけた側のはずなのに締め付けられてるみたい。苦しい。
走って戻ってやり直したい。彼に泣いて欲しくない。また笑って欲しい。
他の人にもちゃんとやり直させて欲しい。
眠れていないでいると下の階からかすかに聞こえた。
思わず足音を消して部屋出た。覗きに行くと部屋の灯りが最小限にしてある。そしてその奥のソファでお母さんはスマホを耳に当ててた。
『おか――』
一瞬呟きかけた。
『ねぇ弘一、これって私のせいなの。ちゃんと教えなかったから駄目だったの……』
いつもお母さんは笑ってた。
さっきまで頭を撫でてくれた。
寝る前も『大丈夫だよ』と言ってくれた。
今は小さく膝を抱いて背中を丸めてる。鼻をすする音が妙に響いた。
『どうしてあげたらいい? 奏斗がこのまま誰かを傷つけたらどうすればいいの? だって奏斗に悪気がなかったんだし、だからこそ奏斗が悪いなんてこれ以上なって欲しくないの。それに――』
なんでお母さんにそんな風に言わせてんだろう。
なんでお母さんまで悲しい思いさせてるんだろう。
なんでお母さんは笑ってたんだろう。
なんでお父さんにまで相談させてるんだろう。
なんで僕だけ平気な顔してるんだろう。
凶器なんか持ってない。なのに何かがズキっと胸に刺さった。それが抜けないで鋭くじんじんと痛む。
『ねぇ、弘一、お願い言っていい? わがままだけど帰ってきて欲しい。何が駄目だったのかちゃんとみて欲しいの……』
心臓が力一杯に握られみたいだった。
目の前にあるはずの部屋の扉がたんだん遠くなった。
ただ立ち尽くした。母親の声が掠れて聞こえて、頭にキーンという音だけ残る。
『ごめんなさい……』
ほぼ息の声が誰かが言ったみたいだった。
身体は重くて膝をつきたいのにどこかふわっとしてる。拳に力を入れてるのに何かの人形を動かしてるみたい。
気づけば柔らかく照らされてた足を見てた。
次の日、お母さんはなんてない顔で『おはよう』と笑ってくれた。昨日お父さんに話したこと、言われたことは何もなかったみたいに。当たり前の顔だった。
本当に何にもなかったらいいのに。
そう思うとどこかまた痛む。
昨日までつむ君のところに早く行きたいはずだった。
『ごめん……』
そのはずが口が出た言葉は重かった。
つむ君のつま先しか見えてないのに頭には昨日の彼の顔、昨日の母親の声が何回も繰り返し現れた。
沢山言うことがあったはずなのに出てこなかった。
『いいよ……』
もはや耳に届いたかも分からない小さな言葉だった。それでも少しだけ温度が残ってた。
その日以来、学校での会話はなかった。
つむ君とは遠くて、他に話しかける相手もいなくて。
そして一人になった。
友達も先生も親のみんな見えない一ヶ月が始まった。
ぐるぐるした教室の中にポツンと取り残されてた。みんな誰かといる。それがひどく遠い。前は自分もそこにいたのにと思うほど。
けど僕もそれに追いつこうとすれば冷たく、空気か煙みたいな扱いだった。
『……なに?』
『奏斗君はダメ』
『あっち行ってよ』
すぐに目はそらされて去ってった。
でも、どれだけ息が詰まりそうでも、苦しくても誰かに言ったり見せたりする方法はない。
『最近学校で何かあった? つむ君とはどう?』
『ちゃんと謝れた。』
特に母には言えなかった。
だってそんな資格ないから。
目の奥が震えて熱くなること、誰かに心配してもらうこと、やりたいように嗚咽をあげること、上手く笑えないこと、暗くて寒くなることも自分は許されないって思ってた。
全部自業自得だから。
誰もいない自分の部屋で思いっきり髪の毛を引っ張った。毛の根元がヒリヒリと叫ぶまで。
自分が大嫌いになった。
『自分で全部なんとかしないとでしょ、我慢してよ』
アニメの世界でも悪者は必ず罰を受けなきゃいけない。
それから逃げようとしてるのはもっとカッコ悪い。
分かってるのに口をつぐんでると膝に熱い雫が落ちた。
身体が何をしても重くて自分のものではなくて。
その感覚も大嫌いだ。
『嫌われるってこんなにいけない事』
『嫌なことをすると、大切な人に嫌われて迷惑をかける。無視をされて居場所がなくなる』
だからそれを知ってから『誰からも好かれる人』を目指した。
お父さんやお母さん、紬君みたいに人に譲れて、寄り添えて、責任を持って、穏やかな人を演じるようになった。
『奏斗君はどれにしたい?』
『余ったやつでいいよ』
本当は欲しいものはある。
小学校四年生から五年生にかけて心掛けたように、何にでも気配りして、相手の顔を見て、笑顔を絶やさないようになってた。
高学年になるにつれて増えたいじめを見てはきっと『人に嫌われたことをした被害者も悪い』『嫌われたらおしまいだよ』と内側で思ってた。
中学生になってからは勉強を怠らないようにしてた。次第に
『棚橋って、めっちゃ成績いいじゃん』
『さすが奏斗』
『そういうお前はさ、もっとやれるだろ』
『やってるって』
お父さん。
『それはよく頑張ったな。奏斗』
塾の先生。
『気を抜かずこのまま頑張れよ。お前の成績なら――』
周りから『優等生』とレッテルを貼られた。
もちろん、それが正解だと思った。勉強はともかく誰からも嫌われないことがこの世の当たり前だと思ってた。
でも
『今度のテスト範囲教えて。奏斗はいけるだろ』
『こういう時って奏斗しかいないっしょ』
『マジナイス』
そう言われることは本当に嬉しかった。
なのに高校に入った頃ら辺から『いつまでも死ぬまでこれって続くことなのかと』とぼんやり浮かんだ。
少しずつだけどその息をするくらいことが、重くなってった。
『なにそれ、しょうもな』
『えぇ。俺は興味あるけど』
『だろ』
『なあ、奏斗見て』
隣の席に集まってるうちの一人がスマホを向けて来た。
漫画の広告だった。
『うん。面白そう』
その内容が受け付けなかったのもそう。
けれど笑った時に上がった頬が重かった。
『それってどういう反応?』
『だから奏斗はエロいのなんか興味ないって』
『いや、そんなことないよ……』
また顔が重い。
相手の反応を細かく見ること、どうしたらいいか分からなかった。やらなきゃいけないことなのに。
どっと疲れの鉛が身体に絡みついていた。
夏休みに入ってからはそのことばかり考えてた。課題をこなしたりすること、塾に行くこと、どうしてかやろうとした瞬間、身体が強張る。
夜はなかなか寝付けないでいた。
自分を『優等生』で隠すことが正解なんじゃないのか。今はその当たり前を面倒くさがってるんじゃないか。けれど周りの人はなぜいつも平気な顔をしてるのか。
僕は当たり前ができないのか。
でもこんなの死ぬまで我慢するものだから仕方ないんじゃないの。
いや、そもそも今の『優等生』という評価が落ちてしまったらどうなるのか。今とは違う目で冷たく見られるんじゃないか。
そんな考えをしてるうちにまた、息がしづらくなる。喉が潰れてるみたいで、もがいてももがいでも肺に空気が入っていかないような。自分のベッドに横たわる身体が気持ち悪くなるような。
冷や汗を気づくとかいてた。
このままではまずいという匂いを感じた。
だから、休みが明ける頃にはそんなことも無視し始めてた。思い出そうとした瞬間に何かしら手を動かす、何かを見る。
そうやってくうちに本当の自分の考えも気持ちも全て無視して逃げてた。
だから、逃げ続けた結果。
『思ったんだ。笑真と付き合ってみたいって』
返ってきたのは
『ごめん……』
なんと言えばいいか、歪んだ顔をしてた。大好きな顔を台無しにした。また。
また置いてかれたみたいだった。
彼女の頬に触れたくて、でもダメだった。
時間も色も景色も温度も僕の気持ちだけ残してさーっと遠くに去っていった。
でも今は
泣いても、笑っても、恥ずかしくても、嬉しくても置いてったりしなかった。ただどんな時も自由で素直でいてくれた。だから最初は多分、そういう彼女に引っ張られた。
奏斗君。
お互いに素の顔を見つめ合ってる気がしてた。
仮面舞踏会に私服で行っても彼女だけ名前を呼んでくれそうだった。その目を細めて頬を丸くして、まるで小さな花が咲くみたいな笑顔で。
『かわいい』なんてもんじゃない。誰よりも愛おしい、その頬に触れたい。どれも大好きな顔。目を見開いてポカンとするかも、なんでもない顔も、伏せた顔も。
だからもしも、あの時自分に素直になって『笑真のこういうところが好き』って言えてたら、答えが変わらなくても気持ちをちゃんと伝えられたんじゃないか。
僕は捨てようとした自分のことを今日まで守ってくれた彼女に。
それなのに三年の終わりから四年の始まりのときまで、なぜか逃げてしまったと思う。
気づくと力一杯に抱いた枕に顔を埋めてた。
そんな風に六年経った今になっても残ってた日記みたいに読み返されるものだった。
勝手と髪を整える手つきも毛を一本一本確認するみたいにゆったりになった。使い慣れてないワックスもなんとなく手に取ってみる。
それから一旦手を止めた。
「……」
目の前にいた自分に一瞬だけ瞬きを忘れてた。
大事な時、どう見られるか想像したからか。
「行ってくる」
玄関前に立っていると急いで母親、遅れて父親もやって来る。
「気をつけてね」
「僕も後から夏織と行くから」
「うん」
お父さんは昨日帰ってきたばかりのはず。
けれど自然と変わらないその柔らかい目を細める笑いを見せた。
「髪整えた? ワックスとか」
「一応。変だった?」
後頭部に手が回る。
「全然、似合ってる」
すると髪の方へ母の腕を伸びた。
気付けば今は僕よりも小さく華奢な手。
「ちょっと曲がってる」
「ありがと」
「スマホとか定期券とか忘れ物ない?」
「ないよ。それ入試の日も言ってた」
父が低く落ち着いた声でふふと笑う。
母もそれを見て顔が綻んだ。
「ちょっと心配なだけ」
今日に限って何か変わったわけじゃない。ただ少し丁寧だった。
教室に着くとまだ早いのにだいぶ集まっていた。
式が始まるとただ目の前の静けさに背筋が曲がらない。けど練習していた時より校長の話や証書の授与の進みがなぜか速かった。
「卒業生、退場」
気づけば式が終わった。着々と出来事は進でる。
体育館内に響いてるオルゴールの曲が少しだけ気を細くさせた。
担任の話の後、ホームルームが終わった後。
少しだけこの教室、先生、生徒がもう遠くなるように感じる。いつも座っていた椅子、そこから見える景色、まだそこにあるのに触れられない。
これで終わってしまうのか。
「棚橋、またさ、会おうな」
卓也の声と目が濡れてた。
それを見て僕まで目頭が熱くなる。
「うん」
するとスマホが向けられた。
笑顔を作ると卓也が肩に腕を絡ませる。目が赤いまま歯を見せて笑った。その後も何枚か彼が変顔をした。
それが妙に心細い。
「頑張ってこいよ」
「えっ」
一瞬にして心臓が跳ねる。
抜けていた肩にまた力が入る。
そして背中を押された。その押してくれた手が少しだけ熱を帯びてるように感じた。
「言ってくる……」
もちろん、それ以外もう道なんてない。けれど廊下を歩くと一歩一歩が頭の中で強く響く。
教室の前で少しだけ止まる。
まだ、やめれる。
「笑真」
けど腹を括った。
一瞬だけ口に出すのも躊躇っていた。
「奏斗君。また会うよね」
教室からひょっこ彼女が現れる。
目が頬も鼻も真っ赤だった。眉を下げてこちらを見る瞳は震えた光を帯びてる。
それを見て少しだけ軽く頬が上がった。
「もちろん。僕も、また会いたい。あのさ、外出ない?」
「うん」
歩きなが横目で見ると彼女の髪がいつもよりふわふわしてる。巻かれてて、ハーフアップに白い花の髪飾りが添えられてた。
かわいい。今日もかわいい。
でもその姿を見てると段々と息が詰まっていきそう。
外に出ると何組か生徒たちが集まってる。
「笑真。写真撮ろ」
「撮ったの後で送って」
桜が散る門とその後ろの校舎を背景にスマホを向けると彼女が近づいてきた。
そのせいで肩が触れる。それだけでまた跳ねそうだった。シャッターボタンを押すまでそこに目がいきそうになった。
「目赤いな。思いっきり泣いちゃって」
撮った写真を画面に表示すると彼女が寄る。
「それでもいいよ。綺麗に撮れてるから」
「そうだね。ありがとう」
いつもの目を細める笑いをした。
本当ならここで笑い合いたかった。
「笑真、少し話そ」
また少し口が重くなる。
「いいよ」
近くのベンチに腰掛けた。
彼女は自然と背を丸めて花びらが舞うのを眺めてる。
そんな隣であちこちに視線を泳がせてた。膝の上の手、校舎、一瞬だけ彼女を。
頭の中では誰かが何度も『今だ、今だ』と叫ぶ。けれど指一本固まったまま。
「またさ、会えるよね。大学の夏休みとか」
「……うん」
その瞬間、また誰かが強く『言え』と叫んだ。
「ねぇ。話がある……」
変に肩に力が入り直した。
「なに?」
「笑真……」
けれどすぐに耳まで暑くなる。
ちゃんと目を見たかった。
ちゃんと見てもらいたかった。本当だったら朝、鏡に立ってたような整った自分を見せたかった。今はどんな顔をしてるだろう。
でも力のこもった拳から視線が動かない。
口の中が震えた。でも引き返せない。
『好き……』
顔を真っ白に塗りつぶしたかった。
その代わり頭の中が白かった。
それはあまりにも弱々しい告白だった。
「ふっぅ……」
思わず胸が膨らむくらい苦しくなるまで空気を吸って気づいた。吐くと水から上がった時みたい息が浅くなる。首の後ろまでドッドッと音を立てていた。
毛布にくるまった下半身はやけに汗をかいてる。
ぼんやり天井の模様を追いかけてた。
眠気は吹っ飛んでしまった。
「起きなきゃ……」
耳が無視してたアラームを止める。
それからぐったりと身体を起こすと、空いたドアから光が毛布と顔が照らした。眩しくて瞼がぎゅっとくっつく。
日は昇りたての色をして部屋の外の床の影まで色をつけてる。
膝をついて立ち上がり、洗面所に向かった。
一度無造作に髪をかき分けて顔を洗う。
歯を磨いて少し整えたあとキッチンの電気をつけた。
確か昨日買ったパンが冷蔵庫にあるはず。
「いただきます」
冷えていたのをレンジであたためて口にくわえた。
そのまま今日着るシャツをハンガーからとる。一瞬だけ隣りのタンクトップが目に入った。けど今日は出番はない。
着替えをして席に着くと一通り終わった。
ここでスマホを手にとる。でも今は頭のエンジンがかかってない。
そのままその日の朝は麦茶を飲んで家を出た。
家は実家のように住宅街らしい雰囲気ではないし、駅まで少し遠い、けど他のマンションやコンビニ、ドラッグストア、スーパーと充実したものは近くにある。
それに引っ越してきて、こっちの方が建物も電子音も複雑に絡み合っていて、大きいのを知ってる。
でも今日は外を歩いても信号の色が変わっても音はどこか遠のいてて頭の声が大きい。目も景色を追わず視点が固定されてた。
なんで、あんな夢見たんだろう。
昨日何かあったわけでもない。
でも胸の奥が重くなる。
電車の中、スマホの通知は後回しになってぼぉっと揺れてた。
あの時、もっと違かったら今どうなってたんだろう。でもいつか終わってたかもしれない。
ことの発端は卓也からだった。
『俺と恋バナしよ……』
最初はなんの話かと思った。中学の頃は『お前、好きなやついるだろ。ねぇ誰?』なんてど直球に飛んでくる球が合図をしてくるんだから。
でも
『笑真ちゃん、好きでしょ?』
彼なら笑いそうなのに笑わなかった。
だから、ぱっと口が動かない。
『好きって、どんな』
分からないというより確認。
『鈍感が少女漫画なみ』
『それ例えが笑真と一緒』
指が突き出す。
『そう言う、ふと瞬間思い出したり、ドキドキしたり、もっと一緒にいたいとか笑顔みたいとか』
卓也が缶に口をつけて一気に傾けた。
頭に浮かべてみる。目を閉じるように細めた笑い。
頬が丸くなるところ。
温度を持った手に触れれる時の一瞬固まるような感じ。
眉間にわざと眉を寄せた時の顔。
まっすぐ見つめてくる瞳。
スキップしてても走ってても妙に笑いたくなったりする。
『好き……?』
吐いた言葉が重くのしかかって来た。
頭の中でも『好き』と復唱される。
でもそれで違和感はなかった。
『お前さ、もっと正直になったら?』
正直のつもりだった。
しかし言われてる時点で自分のことなんて分かってない。
『だからさー、告れよ』
ため息をつかれてしまった。
『それも、分かるし好きだけど、一緒にいてほしいって、今日も思ったし……』
脈が走り出す。指先まで。
『でも、笑真が僕と恋人になりたいなんて、分からないし……』
隣からベコと金属が曲がる鈍い音がした。
『別に付き合う付き合わない以前に棚橋のそのどんな好きか分からなくても好きだとか、恋人じゃなくても一緒にいたいならそう言うんだよ』
『うん……』
そうやって自分のことすらみてもいない僕のことを卓也が真剣になって考えてくれた。『高校』だけで二人が終わらないように。
『なんでそんなに手伝うの?』
その日の夜もメールで話が続いた。
だから寝る前に一つだけ聞いてみた。
『そりゃ、俺とお前が高校で終わらないように俺がキューピットになるんだよ』
さっきから誰かさんと重なって思わず吹く。
『それに、俺は笑真ちゃんと棚橋カップル見てたいし。くっついたらさ、ていうかそうじゃなくてもちょこちょこ連絡してよ』
その言葉が腕を必死に掴んできてるみたいでくすぐったかった。けど笑みが溢れる。
普通に卓也が隣で寝てそうだった。
『もちろん』
最寄駅に到着したアナウンスで気づく。人の間を小さく謝りながら抜けた。
駅を出てスマホに届いてるメッセージを開く。
昨日の仕事の続きのものが何個か届いてた。
それを見て少し急いで会社に向かう。
「おはよー」
「おはようございます」
今年で入社四年目の大日方さんだった。
片手にはいつものコーヒーが持たれてる。
「今日はめっちゃラフじゃん」
「いや、今日は面倒だったんで」
そう言ってノートパソコンを立ち上げた。
午前中は昨日の続き。データの抽出や照らし合わせ。その日は午後はチームの人とミーティングをしてプレゼンの準備をしてその日は終わった。
家に帰ってからは、なんとなく料理して、洗濯をして、いつも通り風呂に浸かる。そこで少しゆっくりしてから出てパジャマに着替えた。
この髪にしてからはケアが欠かせなくなった。保湿したり、痛めないようにしっかり乾かしたり。でも今日はすこし湿ってたのをそのままにした。適当にソファに身体を任せて一話だけドラマを見る。
でもやっぱり今日は気が乗らず、すぐにベッドに向かった。枕を抱いて気付けば天井を見上げる。
カーテンから漏れた微かな光が天井を照らしてた。
小学校三年生くらいの時だった。
今でも紬君の顔をなんとなく頭の中に描くことができる。
僕は先生に『なんでこんなことするの?』と叱られた時、友達と喧嘩して『謝れ』って言われた日。ただそれだけで周りから誰もいない置いてかれたように感じた。そういう時つむ君は『かなと君は何も悪くない』とは言わない。
けど一人で蹲ってた隣にいてくれたことだけで慰めだった。『一緒にいるよ』と自分の味方でいてくれるみたいだった。
親と同じくらい不思議と隣にいてくれるだけで元気になる気がした。
『学校の後、校庭で遊ぼ』
『いいよ』
彼と遊ぶことが一番多かった。やりたいことを一緒にしてくれる。一緒に笑ってくれて。兄弟か大切な人形みたいな存在。
でも
『ねぇ、今日も外で行こ。サッカーとか』
『今日はゲームじゃダメ?……』
給食の前の休憩時間だった。
いつもは違う。
『なんで? サッカーやろ』
『今日は別のことしたいの。かなと君はいつもやりたいのしてるじゃん』
『別にいいじゃんっ』
そう言って俯いた彼の腕を引っ張った。
『やだっ』
立たせようと肩まで手を伸ばそうとして押された。
身体が傾いて一、二歩下がる。
『かなと君って、いつもさ、そうじゃん……』
顔が歪んでった。けど声は揺れてるのに芯のある。
僕は固まったままだった。
『なんで、僕のしたいことはダメなの? なのにかなと君だけはいいの?』
そう叫んだ瞬間、教室中の視線が集まった。
彼の目がどんどん赤らんでいく。そして、一粒二粒三粒と目から涙が落ちてった。
みんなが集まってくる。
僕は動けないまま。
何がダメだったの?
いつも通りに、話してただけなのに。
でも、その姿をみてなぜか気が遠くなるようだった。
結局、その後は先生に叱られ、家に帰ってからは母親に電話がかかって来た。
一階の階段のところで母親が何か話してるのが聞こえた。それからそのあとお母さんが部屋に入って来る。
『奏斗がね、クラスの人に迷惑かけてたって聞いたんだけど、心当たりある?』
僕はどうやら紬君に知らないうちに嫌なことをさせてたらしい。本当は僕は僕を守ってくれた彼にやりたくもない遊びを無理矢理押し付けてた。
それに、僕は紬君以外の友達にも同じのとをしてたし、授業中も先生を困らせてた。
『ねぇ、今は算数の時間でしょ? 奏斗さん、一回それやめよう』
『やだっ』
そう言って先生が机に置いたクレヨンを持ち上げようとするのに抵抗したことを思い出した。
その日、そのことについてずっとお母さんと話した。お母さんは怒りも焦らせもしないただ柔らかく笑ってた。
『悪いことしちゃったよね。でも、悪気がないならこれから変えていこ。ね?』
『うん……』
『でも奏斗はさ、悪気はないと思うし、みんな悔しいことも失敗もあるから。大丈夫だよ。一人じゃないから』
『……うん』
そう言われると、胸がじんと熱くて重くなった。
なぜか、目が熱くなってお母さんの腰に腕を伸ばした。
すると必ず頭を撫でてくれる。
その優しく丁寧な手つきが心地よかった。
その夜。
早くつむ君に謝りたくなってた。
あんなに隣にいてくれた彼を自分から突き放した。紬君の泣いたとこを浮かべては、頭の中でぐるぐるしたものがどんどん出てきて、詰まって、重くなるようだった。
傷つけた側のはずなのに締め付けられてるみたい。苦しい。
走って戻ってやり直したい。彼に泣いて欲しくない。また笑って欲しい。
他の人にもちゃんとやり直させて欲しい。
眠れていないでいると下の階からかすかに聞こえた。
思わず足音を消して部屋出た。覗きに行くと部屋の灯りが最小限にしてある。そしてその奥のソファでお母さんはスマホを耳に当ててた。
『おか――』
一瞬呟きかけた。
『ねぇ弘一、これって私のせいなの。ちゃんと教えなかったから駄目だったの……』
いつもお母さんは笑ってた。
さっきまで頭を撫でてくれた。
寝る前も『大丈夫だよ』と言ってくれた。
今は小さく膝を抱いて背中を丸めてる。鼻をすする音が妙に響いた。
『どうしてあげたらいい? 奏斗がこのまま誰かを傷つけたらどうすればいいの? だって奏斗に悪気がなかったんだし、だからこそ奏斗が悪いなんてこれ以上なって欲しくないの。それに――』
なんでお母さんにそんな風に言わせてんだろう。
なんでお母さんまで悲しい思いさせてるんだろう。
なんでお母さんは笑ってたんだろう。
なんでお父さんにまで相談させてるんだろう。
なんで僕だけ平気な顔してるんだろう。
凶器なんか持ってない。なのに何かがズキっと胸に刺さった。それが抜けないで鋭くじんじんと痛む。
『ねぇ、弘一、お願い言っていい? わがままだけど帰ってきて欲しい。何が駄目だったのかちゃんとみて欲しいの……』
心臓が力一杯に握られみたいだった。
目の前にあるはずの部屋の扉がたんだん遠くなった。
ただ立ち尽くした。母親の声が掠れて聞こえて、頭にキーンという音だけ残る。
『ごめんなさい……』
ほぼ息の声が誰かが言ったみたいだった。
身体は重くて膝をつきたいのにどこかふわっとしてる。拳に力を入れてるのに何かの人形を動かしてるみたい。
気づけば柔らかく照らされてた足を見てた。
次の日、お母さんはなんてない顔で『おはよう』と笑ってくれた。昨日お父さんに話したこと、言われたことは何もなかったみたいに。当たり前の顔だった。
本当に何にもなかったらいいのに。
そう思うとどこかまた痛む。
昨日までつむ君のところに早く行きたいはずだった。
『ごめん……』
そのはずが口が出た言葉は重かった。
つむ君のつま先しか見えてないのに頭には昨日の彼の顔、昨日の母親の声が何回も繰り返し現れた。
沢山言うことがあったはずなのに出てこなかった。
『いいよ……』
もはや耳に届いたかも分からない小さな言葉だった。それでも少しだけ温度が残ってた。
その日以来、学校での会話はなかった。
つむ君とは遠くて、他に話しかける相手もいなくて。
そして一人になった。
友達も先生も親のみんな見えない一ヶ月が始まった。
ぐるぐるした教室の中にポツンと取り残されてた。みんな誰かといる。それがひどく遠い。前は自分もそこにいたのにと思うほど。
けど僕もそれに追いつこうとすれば冷たく、空気か煙みたいな扱いだった。
『……なに?』
『奏斗君はダメ』
『あっち行ってよ』
すぐに目はそらされて去ってった。
でも、どれだけ息が詰まりそうでも、苦しくても誰かに言ったり見せたりする方法はない。
『最近学校で何かあった? つむ君とはどう?』
『ちゃんと謝れた。』
特に母には言えなかった。
だってそんな資格ないから。
目の奥が震えて熱くなること、誰かに心配してもらうこと、やりたいように嗚咽をあげること、上手く笑えないこと、暗くて寒くなることも自分は許されないって思ってた。
全部自業自得だから。
誰もいない自分の部屋で思いっきり髪の毛を引っ張った。毛の根元がヒリヒリと叫ぶまで。
自分が大嫌いになった。
『自分で全部なんとかしないとでしょ、我慢してよ』
アニメの世界でも悪者は必ず罰を受けなきゃいけない。
それから逃げようとしてるのはもっとカッコ悪い。
分かってるのに口をつぐんでると膝に熱い雫が落ちた。
身体が何をしても重くて自分のものではなくて。
その感覚も大嫌いだ。
『嫌われるってこんなにいけない事』
『嫌なことをすると、大切な人に嫌われて迷惑をかける。無視をされて居場所がなくなる』
だからそれを知ってから『誰からも好かれる人』を目指した。
お父さんやお母さん、紬君みたいに人に譲れて、寄り添えて、責任を持って、穏やかな人を演じるようになった。
『奏斗君はどれにしたい?』
『余ったやつでいいよ』
本当は欲しいものはある。
小学校四年生から五年生にかけて心掛けたように、何にでも気配りして、相手の顔を見て、笑顔を絶やさないようになってた。
高学年になるにつれて増えたいじめを見てはきっと『人に嫌われたことをした被害者も悪い』『嫌われたらおしまいだよ』と内側で思ってた。
中学生になってからは勉強を怠らないようにしてた。次第に
『棚橋って、めっちゃ成績いいじゃん』
『さすが奏斗』
『そういうお前はさ、もっとやれるだろ』
『やってるって』
お父さん。
『それはよく頑張ったな。奏斗』
塾の先生。
『気を抜かずこのまま頑張れよ。お前の成績なら――』
周りから『優等生』とレッテルを貼られた。
もちろん、それが正解だと思った。勉強はともかく誰からも嫌われないことがこの世の当たり前だと思ってた。
でも
『今度のテスト範囲教えて。奏斗はいけるだろ』
『こういう時って奏斗しかいないっしょ』
『マジナイス』
そう言われることは本当に嬉しかった。
なのに高校に入った頃ら辺から『いつまでも死ぬまでこれって続くことなのかと』とぼんやり浮かんだ。
少しずつだけどその息をするくらいことが、重くなってった。
『なにそれ、しょうもな』
『えぇ。俺は興味あるけど』
『だろ』
『なあ、奏斗見て』
隣の席に集まってるうちの一人がスマホを向けて来た。
漫画の広告だった。
『うん。面白そう』
その内容が受け付けなかったのもそう。
けれど笑った時に上がった頬が重かった。
『それってどういう反応?』
『だから奏斗はエロいのなんか興味ないって』
『いや、そんなことないよ……』
また顔が重い。
相手の反応を細かく見ること、どうしたらいいか分からなかった。やらなきゃいけないことなのに。
どっと疲れの鉛が身体に絡みついていた。
夏休みに入ってからはそのことばかり考えてた。課題をこなしたりすること、塾に行くこと、どうしてかやろうとした瞬間、身体が強張る。
夜はなかなか寝付けないでいた。
自分を『優等生』で隠すことが正解なんじゃないのか。今はその当たり前を面倒くさがってるんじゃないか。けれど周りの人はなぜいつも平気な顔をしてるのか。
僕は当たり前ができないのか。
でもこんなの死ぬまで我慢するものだから仕方ないんじゃないの。
いや、そもそも今の『優等生』という評価が落ちてしまったらどうなるのか。今とは違う目で冷たく見られるんじゃないか。
そんな考えをしてるうちにまた、息がしづらくなる。喉が潰れてるみたいで、もがいてももがいでも肺に空気が入っていかないような。自分のベッドに横たわる身体が気持ち悪くなるような。
冷や汗を気づくとかいてた。
このままではまずいという匂いを感じた。
だから、休みが明ける頃にはそんなことも無視し始めてた。思い出そうとした瞬間に何かしら手を動かす、何かを見る。
そうやってくうちに本当の自分の考えも気持ちも全て無視して逃げてた。
だから、逃げ続けた結果。
『思ったんだ。笑真と付き合ってみたいって』
返ってきたのは
『ごめん……』
なんと言えばいいか、歪んだ顔をしてた。大好きな顔を台無しにした。また。
また置いてかれたみたいだった。
彼女の頬に触れたくて、でもダメだった。
時間も色も景色も温度も僕の気持ちだけ残してさーっと遠くに去っていった。
でも今は
泣いても、笑っても、恥ずかしくても、嬉しくても置いてったりしなかった。ただどんな時も自由で素直でいてくれた。だから最初は多分、そういう彼女に引っ張られた。
奏斗君。
お互いに素の顔を見つめ合ってる気がしてた。
仮面舞踏会に私服で行っても彼女だけ名前を呼んでくれそうだった。その目を細めて頬を丸くして、まるで小さな花が咲くみたいな笑顔で。
『かわいい』なんてもんじゃない。誰よりも愛おしい、その頬に触れたい。どれも大好きな顔。目を見開いてポカンとするかも、なんでもない顔も、伏せた顔も。
だからもしも、あの時自分に素直になって『笑真のこういうところが好き』って言えてたら、答えが変わらなくても気持ちをちゃんと伝えられたんじゃないか。
僕は捨てようとした自分のことを今日まで守ってくれた彼女に。
それなのに三年の終わりから四年の始まりのときまで、なぜか逃げてしまったと思う。
気づくと力一杯に抱いた枕に顔を埋めてた。
そんな風に六年経った今になっても残ってた日記みたいに読み返されるものだった。
