超絶クールな先輩は俺の前でふにゃふにゃのSubになる

 まる十日ほど休んでから、模試のために土曜の学校へ行った。最終学年にもなると毎月のように模試がある。志望校に対して自分がどういった位置にいるのか把握しつつ、苦手分野のトライアンドエラーを繰り返すのだ。
 一、二年はおらず、音や声を出す部活動は模試のあいだ止められているから校内はとても静かだった。文化祭直後の興奮は鳴りをひそめ、三年のクラスが立ち並ぶ廊下を歩いていても注目は浴びない。
 
 自分のクラスへと足を踏み入れるとさすがに何人かはこちらを見てきたが、「はよー」と普通に挨拶を交わしてからは参考書に視線を落とす。
 みんなクラスメイトのちょっとしたゴシップより、目の前の模試の方が重要らしい。そのことに思いのほかホッとして、知らず詰めていた息をゆっくりと吐き出した。

 しばらくすると武蔵と辻がほぼ同時にやってきて、教室の入口から「朔、」「飛鳥井くん!」と声を上げる。バタバタと駆け寄ってきた辻が片手を上げるから、パチン! とハイタッチを交わす。

「もうブタバコをでてきたのか? 不良勇者くん」
「ひどい! 今日はお姫様を迎えに来たのに!」
「悪いけど、僕は模試があるから城にはひとりで行ってくれ」

 ひどいよぉ飛鳥井くん……と泣き真似をする辻を小突き、視線を合わせてあははっと笑う。夏休み明けはこいつが謹慎中で会えなかったし、僕がしばらく休んだせいで会うのはかなり久しぶりだ。

「……もう大丈夫なんだな?」
「うん、ありがと。辻のおかげでかなりスッキリしてる」
「わりとへなちょこパンチだったけどな」
「言うなよ石田くん〜。親父を殴ったこともないおれなのに……」

 武蔵のツッコミにまた辻がしょげる。懐かしくさえ感じるやり取りのおかげで、あれ以来ようやく日常が戻ってきた気がした。
 武蔵がなにか言いたげな視線を寄こしたけれど、気づかなかったふりをして「サボりすぎて模試やばいかも……」と再び教科書に集中するふりをする。メッセージを長らく無視していたことは、あとでちゃんと謝りたい。

 しばらく手つかずだったSNSに溜まっていた友人たちからの大盛りメッセージは、昨日のうちにあるていど消化した。「明日の模試は行く」といえば、下手に説明しなくても大丈夫なことは伝わると思ってのことだ。

 ――そう。僕は大丈夫なんだ。

 いろいろあったから、しばらく学校にも行きたくないと思っていたのは事実だ。望まない注目や他人から浴びせられる罵倒は想像以上にストレスだった。でもまぁ人のうわさも七十五日というし、最初はなんとか耐えられると思っていた。

 新学期初日の放課後、ぐうぜん喧嘩の仲裁に入る羽目になった。あの事件でSubとバレてしまった生徒は校内に何人もいる。
 バスケ部のキャプテンだという二年も、高い身長と立場からはSubだなんて誰も想像できなかったに違いない。だからって、二次性を馬鹿にして暴言を吐くのは見過ごせなかった。

 ――『学校一のイケメンとどんな鬼畜プレイしてんの?』『風谷ってさぁ、頭だけじゃなくて趣味も悪かったんだな』
 
 風谷と同学年であろうバスケ部員の言葉に、頭を殴られたような衝撃があった。僕に流れ弾がくるのは別にいい。低俗なやつの発言だと思えば正面から受け止めようとも思わない。けど……

 僕よりも遥かにやさしい心を持つ風谷が、僕を守ったせいでこんな風に言われている。鬼畜とは真逆の甘いプレイが好きで、陰では勉強ばかりしている真面目な努力家。そんな風谷のことをなにも知らないやつが、なにを言ってる?

 気づけば身体が勝手に動いて、大きく腕を振り上げていた。さいわい武蔵が止めてくれたけど、あのときは目の前が真っ赤に染まって目の前の奴を殴ることしか考えられなかった。むかつく。悔しい。風谷を……僕の好きな男を悪く言うな!
 感情が身体のなかで荒れ狂い、鼻の奥がツンと痛む。ちくしょう……ちくしょう!

 走ってきた顧問が部員を引きずっていくのを見届け、武蔵と別れ家に帰ってからも、僕は気づいてしまった事実に愕然としていた。

(僕といると……風谷は幸せになれない……)

 風谷のことを好きだと認めざるをえなかったのは、文化祭の事件と病院でのプレイがきっかけだ。あんなふうに身を挺して守られて、いつも本気で心配してくれて、好きにならずにいられる奴がいたら教えてほしい。な、無理だろ?
 
 サブドロップからのサブスペースを抜けて病院で目覚めたとき、僕はまだ十八年しか生きていないけど真剣に、もうこれ以上の人には出会えないと思った。

 次に会ったらどうしよう、あいつももしかして僕のこと……なんて心配と期待が入り混じり、待ちわびて迎えた新学期だったのに。
 もし僕という恋人兼パートナーができたら、風谷の価値を大きく貶めてしまうことに気付いたのだ。こんなにも冴えない貧乏人のSubじゃなくて、もっとあいつに釣り合う相手はたくさんいる。

 恋を自覚した直後の気づきに、絶望的な気分だった。居心地の悪い学校になんてちっとも行きたくない、と思うほどには。
 さいわい三年分の教育課程はもう終わり、授業は受験対策が主になっている。しばらく家で勉強することにして、事件のこともあったし無理しなくていいと担任からも伝言があった。

 クラスメイトや風谷からの連絡を無視して、家に閉じこもっていたとき……本人がやって来た。僕をふたたび、絶望へ突き落とすために。
 
 はじめこそその誠意に絆されそうになったけど、その後はパートナーとかクレイムとか、あいつは契約の話しかしなかった。僕とは違う考え――パートナーと恋人は別だと思っていることがひしひしと伝わってくる。
 悪気がまったくないからこそ、決定的な差が壁のように立ちはだかる。僕はその壁に押しつぶされてしまう。
 
 どれだけ僕に好意を抱いてくれて、プレイの延長線上でキスしたり身体に触れてくれたとしても、それはあいつにとって、単なるDomとSubの関係でしかないのだ。
 風谷は女子と付き合っていたことがあったから、同性なんて考えたこともないはずだ。僕が風谷と付き合ったり、恋人同士のふれあいを求めているなんて……想像もつかないんだろう。

『もうお前の身勝手なことばを聞きたくない。もう、お前とは……プレイ、したくない……』

 身勝手なのは自分の方なのに、とにかく風谷に出ていってほしくてひどいことを言った。恋をしたとたんに失恋した情けない男の涙なんて、見せられない。

 それから数日かけて気持ちを整理して、風谷の連絡先もブロックしてしまった。もう終わりだ。きれいさっぱり忘れよう。
 苦しくて切なくて、なかなかスッキリとはいかなかったけど。膿んだ傷のようにじくじくと痛みを訴える心に蓋をする。

 思えば半年に満たない関係だったのだ。向こうもすぐに忘れてくれるだろう。
 あと数ヶ月で本格的な受験シーズンに入り、僕たちは学校にもほとんど来なくてよくなる。その後は卒業するだけだ。
 
 入試が目の前に迫っている。風谷のことを考えている暇なんて、僕にはない。
 
 答案用紙が配られ、教室がつかのまの緊張感に包まれる。頭から余計なことを追い出し試験のことだけを考えれば、心が凪いでいった。