「ッ……はい!」
空気に水を差すようなノック音に、慌てて返事する。そうだ、ここは病院だ。
狭く開いた扉から吉本先生が顔を覗かせると、空気が通って窓から涼しい風が入り込んだ。沸騰していた頭が落ち着いてくる。
「きみたち、想像以上だね〜。飛鳥井くん、大丈夫?」
「…………」
「すみません先生、まだプレイの影響が残ってるみたいで……」
朔先輩は先生に気づかず反応もしない。まだ? みたいな顔をして俺を見ている。くそ、かわいいな……
「Sub Spaceに入ったんじゃないかな? 風谷くんの言うことなら聞くと思うよ」
「え……」
サブスペースはサブドロップの対になる言葉だ。プレイの影響で、Subの意識が完全にDomにコントロールされてしまうことである。Subはこの状態になると、ふわふわと幸せな気持ちでいるという。
Subがサブスペースに入ることを喜ばないDomはいない。二人のあいだに深い信頼関係がないと、そもそもこの状態になり得ないからだ。
俺は信じられない気持ちで、もう一度先輩を見下ろす。本当にそうだとしたら、こんなにも嬉しいことはない。
「先輩。ちょっと腕、離してください」
一瞬ちょっと不満げに眉を寄せたように見えたが、先輩は掴んでいた俺の病衣からス、と手を引いた。……まじか。本当に言うことを聞いてくれる。
俺もようやく身体を起こし、先輩に上掛けをかける。思い出したように肩や背中が痛みだす。
しかし先輩の視線が別の方へ向かったことに気づき、俺は「ん?」と首を傾げた。視線の先にあるのは、俺の手だ。
「……あー。じゃあ、手は繋ぎましょうか」
「うん」
これってどこかに触れていたいってやつですか!? 素直な先輩かわいすぎるんですけど!!
手を繋ぐことがこんなにも嬉しくてドキドキすることだなんて、知らなかった。
「痛いところとかつらいところはないですか?」
「うん……」
「飛鳥井くんはもう大丈夫そうだね! 問題は君だよ風谷くん! 血が滲んじゃってるよ〜」
先生にポンと肩を叩かれて、苦笑いする。痛み止めが切れたのか、正直すげー痛い。急に激しく動いたせいもあるだろう。ちょっと頭がもうろうとしてきた気もする。
それでも先生は先輩の対応に俺が必要だったと理解してくれたし、俺も追いかけてきてよかったと心から思っている。
いまは先輩の手を離せないため、俺の処置はその場でおこなわれた。簡易ベッドを出してもらったけど、先輩が眠ってしまう方が先だった。眠くなるのは抑制薬の影響らしい。
なんとなく名残惜しくてそのまま俺も隣で眠ってしまおうかと思ったが、部屋の扉が開きぴょこっと顔を覗かせた二人を見てそれどころじゃなくなった。
「母さん! と……」
「朔の母です」
先輩はお母さんに似たらしい。切れ長で大きな目を見てまっさきにそんなことを思った。いつの間に仲良くなったのか、母たちは友人同士のように連れ立って病室に入ってくる。
一人用の病室は四人もいるとかなり狭くなる。簡易ベッドに腰掛けていた俺は慌てて立ち上がり、場所を譲ろうとした。
「あ! いいのよ、このまま朔の傍にいてやってくれる? ……ご迷惑じゃないなら」
「あ……」
繋いだ手に視線を感じて、途端に恥ずかしくなった。迷惑では全くないとはいえ、お互いの母親の前でこれって……とんだ羞恥プレイじゃないか!?
すみません先輩、いますぐ起きてください!
俺が内心先輩に向かって叫んでいるあいだに、先輩のお母さんは俺に頭を下げた。
「ありがとう。息子を守ってくれて。ダイナミクスのことで不便な思いをたくさんさせてしまっているから……あなたのような子が味方してくれて本当に嬉しいし、安心したわ。怪我をさせてしまってごめんなさいね」
「いいのよ〜! そもそも怪我は犯人のせいだし、飛鳥井さんも息子くんも全く悪くないじゃない。暁斗は好きでやってんのよ。どっちかというと息子くんに助けられてるのはこっちなんだから! ねぇ? 暁斗」
「う、うん」
母親の勢いに呑まれ、俺はコクコク頷くマシーンにならざるを得ない。先輩のお母さんは俺と朔先輩の関係を知らなかったようだけど、これで完全にバレてしまった。
まぁ俺が一方的に先輩へ迫ってやらかした上で許しを乞い、先輩の方はすげない態度だったという苦しい現状までは知らないはずだ。
こうなったら俺が真剣であることを伝えておいたほうがいいだろう。座ったまま姿勢を正し、真摯に見えるよう願って先輩のお母さんに話しかける。
「あの……俺。卒業したら、朔先輩にパートナーになってほしいって……言おうと思ってます。受け入れてくれるか、分かりませんけど……」
「まぁ。うふふ、嬉しい。うちの両親がDomとSubの夫婦なのよ。朔とも、末長く仲良くしてくれると嬉しいわ」
「おっ、外堀から埋めていく感じね! さすが私の息子。飛鳥井さん、うちの息子は次期社長だし……優良物件ですよ?」
母さんは黙っていてほしい。



