――小学校六年のとき。
俺は学校からの帰宅途中、目の前でサブドロップした人に縋りつかれた。
彼は俺にコマンドをくれと叫びながら、知らない誰かの名前を呼ぶ。泣いて、縋って、誰かに向けて謝って……なんとかしてやりたいと俺が呼び掛けた声も全く届いていない。
そのまま、子供の俺に何かできるはずもなく。どこかで救急車はまだかと叫ぶ声も聞こえたけど、彼は……車の行き交う道路に走っていってしまったのだ。
けたたましいクラクションの音と、甲高いブレーキ音。ドンっと鈍い音がして、人型のものが宙に舞うのを茫然と見ていた。
『きみっ、大丈夫か! 親御さんは!?』
突っ立っていた俺も誰かに声を掛けられた瞬間、目の前が真っ暗になり倒れて病院に運ばれた。きっとそこが……この病院なんだろう。今なら分かる。あのSubと同じ病院に運ばれたのだ。
駆けつけてきた両親の憔悴した顔や、何より俺に縋ったSubの顔は今でも忘れられない。でもあの人は一命を取り留めたと聞いたし、俺もカウンセリングを何度か受けて落ち着いた。
「暁斗くんはあのとき、目の前のSubを救いたいと強く思ったはずだ。そういうきっかけが二次性の成熟を早く進めた例は多くある」
「そうなんすか……」
「ま、単に遺伝ってこともあるけどね! お母さんに聞いたらそうじゃなさそうだったから」
俺のトラウマとなった事件を、母は思い出してほしくなかったようだ。医者があえて明るく話すのを聞きながら、俺は「大丈夫だって」と母の背中をポンポン叩く。
いや、実際は飛鳥井先輩の前でパニックに陥りかけたわけだが。なんとか乗り越えたし、それをあえていま教える必要はない。
頓服にと不安症用の弱い薬を処方されて、酷ければいますぐに飲んでいいよと医者が言う。
「あ。いまは全然大丈夫なんで。めちゃくちゃスッキリしてます」
「……まさかもうプレイしてるのかい? まぁ君くらい格好よければ年上のパートナーくらいすぐに見つかりそうだけど……」
「暁、そうなの……!?」
「いやいやいや……あ、あれか」
興味津々の医者と、興奮しだした母親に詰め寄られてやっと気づいた。悪くなる一方かと思いきや、たまに調子が良くなっていた理由に。
少し迷って、うろうろと視線を彷徨わせる。恥ずかしいし言いたくないけど、変な誤解をされるのも嫌だ。
「学校の、先輩……たぶんSub不安症で、ひどそうだったから……応急処置だぞ? それで簡単なプレイした……」
「へぇ〜! ウィンウィンならいいね。でもまたやるならSafe wordを決めること。まぁ、ドロップしかけてたらそれどころじゃないけど……」
「やだぁ〜楽しい! 暁にパートナーができたなんて! 帰りに詳しく聞かせてね!?」
「だからまだパートナーじゃねぇって……」
「まだ、ねぇ……」
揚げ足を取ってくる母親を睨んでから、医者から薬の飲みすぎも副作用があると注意を受けた。やはり薬で欲求を抑え込むより、プレイで発散するのが身体にはいい。
高校生でも利用できるプレイバーもあるよと聞いて、知っていると頷く。父親が何軒か国認定のDom/Sub専用プレイバーを経営しているのだ。
帰りの車中で、どうせプレイするなら先輩のかわいい顔を見たいな、と気づけば想像してしまっていた。冗談でもキツイ。なに考えてるんだろう俺は。
偶然に偶然が重なって小さなコマンドを与えただけだ。プレイバーでちゃんとしたプレイをするなら、もっと……俺の足元に跪かせて、それで…………
「それで? その先輩は男の子? 女の子?」
運転する母親に訊かれてハッと思考を現実に戻した。さっきの様子とは一転、わくわくと尋ねてくる彼女に安心すればいいのか、鬱陶しがればいいのか。
ただ俺も、誰かに話したい気持ちは確かにあるのだ。こんな話、学校の誰にもできない。
「男……すっげぇ地味なやつ」
「……血筋かしらね〜……ねぇ。Subの子ってスイッチ入るとすっっっごく可愛くなるじゃない? 地味とか見た目なんて全く関係ないのよ!」
「あーーー、まじ。ほんとそれ」
熱が入った口調でまくし立てられて、つい深く頷く。母親というより、同じ二次性を持つ仲間意識か? 夜の車内は暗く、本音がこぼれやすい。
飛鳥井先輩が特別じゃないのかもしれない。他のSubが相手でも、俺は同じように感じるのだろうか。
「私のスゥちゃんも吊り目だからさぁ、一見キツそうに見えるでしょ? それがこう、トロンとなるわけよ。プレイやるよ〜ってグレア出しただけでね……」
母親のパートナー自慢を耳半分に聞きながら、さらに深く思いふける。
Domとしての本能。Subを支配したい、甘やかしたいという思い。プレイ中、先輩に対して芽生えた感情を俺は持て余していた。
そう、これでもかなり我慢しているのだ。先輩が我に返ったとき不快に思わない態度で接しなければと、いつも考えている。
許してもらえるコマンドしか投げてはいけないのだと自制するたび……もっと、もっと俺のコマンドで支配したいという気持ちが強まってゆく。
本当に他のSubでも同じならば、一度プレイバーに行ってみるのもいいかなと思った。適当な相手を見つくろって……欲求を解消できればそっちのほうがいいだろう。
どうしてか気が進まないけれど、降り積もる欲求をどこかで解消しなければ、また頭痛に悩まされることになるのは目に見えている。
窓の外に視線を巡らすと、夜の景色が素早く視界を流れてゆく。
ダイナミクスの成熟は止められないし、人より数年早いだけでしんどいことが増えるから損だとも思う。
……でもこれからの数年間が、自分の人生にとって大きな意味を持つことになるような、そんな気がした。
俺は学校からの帰宅途中、目の前でサブドロップした人に縋りつかれた。
彼は俺にコマンドをくれと叫びながら、知らない誰かの名前を呼ぶ。泣いて、縋って、誰かに向けて謝って……なんとかしてやりたいと俺が呼び掛けた声も全く届いていない。
そのまま、子供の俺に何かできるはずもなく。どこかで救急車はまだかと叫ぶ声も聞こえたけど、彼は……車の行き交う道路に走っていってしまったのだ。
けたたましいクラクションの音と、甲高いブレーキ音。ドンっと鈍い音がして、人型のものが宙に舞うのを茫然と見ていた。
『きみっ、大丈夫か! 親御さんは!?』
突っ立っていた俺も誰かに声を掛けられた瞬間、目の前が真っ暗になり倒れて病院に運ばれた。きっとそこが……この病院なんだろう。今なら分かる。あのSubと同じ病院に運ばれたのだ。
駆けつけてきた両親の憔悴した顔や、何より俺に縋ったSubの顔は今でも忘れられない。でもあの人は一命を取り留めたと聞いたし、俺もカウンセリングを何度か受けて落ち着いた。
「暁斗くんはあのとき、目の前のSubを救いたいと強く思ったはずだ。そういうきっかけが二次性の成熟を早く進めた例は多くある」
「そうなんすか……」
「ま、単に遺伝ってこともあるけどね! お母さんに聞いたらそうじゃなさそうだったから」
俺のトラウマとなった事件を、母は思い出してほしくなかったようだ。医者があえて明るく話すのを聞きながら、俺は「大丈夫だって」と母の背中をポンポン叩く。
いや、実際は飛鳥井先輩の前でパニックに陥りかけたわけだが。なんとか乗り越えたし、それをあえていま教える必要はない。
頓服にと不安症用の弱い薬を処方されて、酷ければいますぐに飲んでいいよと医者が言う。
「あ。いまは全然大丈夫なんで。めちゃくちゃスッキリしてます」
「……まさかもうプレイしてるのかい? まぁ君くらい格好よければ年上のパートナーくらいすぐに見つかりそうだけど……」
「暁、そうなの……!?」
「いやいやいや……あ、あれか」
興味津々の医者と、興奮しだした母親に詰め寄られてやっと気づいた。悪くなる一方かと思いきや、たまに調子が良くなっていた理由に。
少し迷って、うろうろと視線を彷徨わせる。恥ずかしいし言いたくないけど、変な誤解をされるのも嫌だ。
「学校の、先輩……たぶんSub不安症で、ひどそうだったから……応急処置だぞ? それで簡単なプレイした……」
「へぇ〜! ウィンウィンならいいね。でもまたやるならSafe wordを決めること。まぁ、ドロップしかけてたらそれどころじゃないけど……」
「やだぁ〜楽しい! 暁にパートナーができたなんて! 帰りに詳しく聞かせてね!?」
「だからまだパートナーじゃねぇって……」
「まだ、ねぇ……」
揚げ足を取ってくる母親を睨んでから、医者から薬の飲みすぎも副作用があると注意を受けた。やはり薬で欲求を抑え込むより、プレイで発散するのが身体にはいい。
高校生でも利用できるプレイバーもあるよと聞いて、知っていると頷く。父親が何軒か国認定のDom/Sub専用プレイバーを経営しているのだ。
帰りの車中で、どうせプレイするなら先輩のかわいい顔を見たいな、と気づけば想像してしまっていた。冗談でもキツイ。なに考えてるんだろう俺は。
偶然に偶然が重なって小さなコマンドを与えただけだ。プレイバーでちゃんとしたプレイをするなら、もっと……俺の足元に跪かせて、それで…………
「それで? その先輩は男の子? 女の子?」
運転する母親に訊かれてハッと思考を現実に戻した。さっきの様子とは一転、わくわくと尋ねてくる彼女に安心すればいいのか、鬱陶しがればいいのか。
ただ俺も、誰かに話したい気持ちは確かにあるのだ。こんな話、学校の誰にもできない。
「男……すっげぇ地味なやつ」
「……血筋かしらね〜……ねぇ。Subの子ってスイッチ入るとすっっっごく可愛くなるじゃない? 地味とか見た目なんて全く関係ないのよ!」
「あーーー、まじ。ほんとそれ」
熱が入った口調でまくし立てられて、つい深く頷く。母親というより、同じ二次性を持つ仲間意識か? 夜の車内は暗く、本音がこぼれやすい。
飛鳥井先輩が特別じゃないのかもしれない。他のSubが相手でも、俺は同じように感じるのだろうか。
「私のスゥちゃんも吊り目だからさぁ、一見キツそうに見えるでしょ? それがこう、トロンとなるわけよ。プレイやるよ〜ってグレア出しただけでね……」
母親のパートナー自慢を耳半分に聞きながら、さらに深く思いふける。
Domとしての本能。Subを支配したい、甘やかしたいという思い。プレイ中、先輩に対して芽生えた感情を俺は持て余していた。
そう、これでもかなり我慢しているのだ。先輩が我に返ったとき不快に思わない態度で接しなければと、いつも考えている。
許してもらえるコマンドしか投げてはいけないのだと自制するたび……もっと、もっと俺のコマンドで支配したいという気持ちが強まってゆく。
本当に他のSubでも同じならば、一度プレイバーに行ってみるのもいいかなと思った。適当な相手を見つくろって……欲求を解消できればそっちのほうがいいだろう。
どうしてか気が進まないけれど、降り積もる欲求をどこかで解消しなければ、また頭痛に悩まされることになるのは目に見えている。
窓の外に視線を巡らすと、夜の景色が素早く視界を流れてゆく。
ダイナミクスの成熟は止められないし、人より数年早いだけでしんどいことが増えるから損だとも思う。
……でもこれからの数年間が、自分の人生にとって大きな意味を持つことになるような、そんな気がした。



