「その手……ネイルさせてっ!」
「……へっ?」
横切った瞬間に手を取られて、そう言われたのが、或兎との初めての会話だった――。

***

十五夜或兎(じゅうごやあると)こと、人気絶頂中のアイドルであるアルトとはただのクラスメイトにすぎなかった。
 そんなクラスメイトに手を握られて、陣は指先に美しい薄紫のジェルを塗られていた。
 宇佐美陣(うさみじん)は、いたって平凡な男子高校生だ。
家庭も平凡であれば、本人もこれと言って何かに秀でているような、そんな人間ではなかった。
それが、何故に今、こうして放課後の教室でアイドルにネイルを施されているのか。それは陣自体も謎で仕方がなかった。

「あのさぁ……」
「なに?」
 真剣に陣の手元を見つめながら、或兎は返事をすると、塗りかけのジェルをツゥーと器用に爪に付着させていく。
「こういうのって、やっぱり女子のがイイんじゃね?」
「この多様性の時代に、そんなの関係ないよ」
「いやいや、そういうことじゃなくて! まあ、うち男子校だし、難しいのは分かるけどさ……お前なら女子にいくらでも頼めるだろ?」
 人気絶頂中アイドルである或兎ならば、ネイルをしてくれと頼み込んでくる女は多いだろう。それこそ、歌番組などで共演したことのある女優など、探せばいくらでも居るのではないだろうか。
 それが、どうして陣の手を好んで頼んできたのか。全く見当がつかない。
「確かに、仕事で仲良くしてくれてる女優さんとかはいるけど……でも、僕の理想の手じゃないんだよね」
 或兎の言葉に、陣は目をしぱしぱと開いてネイルをされている自分の指先を見つめた。
「……じゃあ、なに? 俺の手がその、お前の理想の手だったってわけ?」
「そうだよ。長くて白くて……ネイルしたらもっと綺麗なんだろうなって」
 言われてみれば、確かに男にしては白い方の手に長い指ではある。
 けれど、そこまで惹かれるような魅力があるようには思えない。
「それに、君モテたいってよく言ってるじゃない。最近はネイルしてる男性がモテやすいらしいよ?」
「マジでか!?」
 モテる、といった単語一つで舞い上がる自分の、なんて単純なことだろうかと陣は思った。
 その間も、指先には美しい色と模様が付いていく。
 どうやら、薄紫のカラーをベースに花の模様を描いているらしい。まだ片手を塗っている最中だが、その美しさは普段鈍感な陣でもよく分かるほどだった。
「まあ、モテるかどうかは置いといて。なんで俺なわけ?」
「さっきも言ったけど、僕の理想通りの綺麗な手だから」
「そっか~? 俺には普通の男の手にしか見えないけどな」
「あまり注目してないからじゃない? 君が思ってる以上に、素敵な手してるよ」
「ふ~ん」
 施術をジッと見つめて、そんなものかと思う。
 陣からすれば、いつもテレビの中で輝いていて、老若男女問わず黄色い声援を受けている或兎の方が美しいと感じたが、案外芸能人というのはオフ状態だとこんなものなのかもしれないと思った。
 或兎はとにかく学校ではあまり目立たないように生活をしている。
 いつも一人で本を読んでいて、昼食も一人でしているところしか見たことがない。
 極めつけは、出席日数の少なさ。
 学校に居るほうがレアなケースが多く、今日だって昼過ぎに出席してきて短時間の授業を受けただけだった。
 本人いわく、補習は受けているので留年や退学の心配はないそうだが、それでもこうして顔を合わせるのはほとんど初めてに近かった。
(そういやぁ、テレビ以外で声聞いたのも初めてかも……)
 一週間の大半をテレビの中で見るような、雲の上のような存在が今目の前に居て、自分の手を真剣に見つめているこの状況は不思議でならない。
(まつ毛なげぇ~、てか……こうして見ると、やっぱイケメンだな)
 アイドルという職業を生業にしているだけあって、或兎の容姿は整っていて男の目から見ても美しいと思った。
 平凡な自分とは正反対の存在。本来なら話すことすらなかっただろうに、ひょんなことからこんな状態で会話をすることになるとは思ってもみなかった。
「そう言えばさ、お前の苗字ってなんだったっけ?」
「……へ?」
「あっ……」
 ボケっと手元ばかり気にしていたせいが、失礼な質問をしてしまう。
 クラスメイトのくせに、芸名と同じ下の名前しか把握していなかったことに、今さら申し訳なさを感じたが、放ってしまった言葉を取り消すことは出来ず、仕方なく陣は或兎の呆れたような返事を待った。
「十五夜……十五夜或兎だよ」
「ああ、それで兎! って……わり、その、なんて言うか……」
 苗字を聞いて、或兎の感じを思い出してしまい、つい口が滑る。
 二度も失礼な発言をしてしまったことを恥じながら、陣は俯くと、恥ずかしさと罪悪感に目を伏せた。
(やっちまったぁ~!)
 そう思っていると、或兎が筆を滑らせながら返すように問いかけてくる。
「兎って言えば、宇佐美くんだって響き的にはそうじゃない?」
「あ~、確かに。たまにからかわれるな」
「でしょ? だったら、お互い様だから気にしないよ」
「……お前って結構いい奴なのな」
「今さら知ったの?」
 ふふっと笑って言う或兎の顔は意地悪い言葉を吐きながらも、やはり隠し切れないアイドルオーラを纏っていて、美しいとしか思えない。。
 そういった面をズルいと思いながら、陣は完成間近の指先を見つめる。
 いつの間にかラインストーンまであしらわれたそこは、本当に花畑を連想させるほどに美しく、自分の手元とは思えない仕上がりとなっていた。
「ジェルネイル? だっけ? 凄いのな~、なんか神秘! って感じ」
「僕なんてまだまだだけどね。でも、指先が綺麗だとテンションが上がってこない?」
「分かる! 今の俺、めっちゃテンション爆上がりしてるわ」
「最近じゃ、メイクしてる男性も増えたし、それなら指先だって綺麗にしたくなるじゃない?」
「俺にはよく分かんない世界だけど……そうかもな」
「メイクも十分素敵だけど、僕は……すぐに見られて、ああ良いなって思えるネイルが大好きなんだ」
 そう言って笑う或兎の顔は華やかで、まるで手元の花畑のようだと陣は思った。
 アイドルとは、皆こうなのだろうか。なんとなくだけれど、違う気もする。
 アイドルをしている時の或兎はあくまでもアルトであって、或兎ではないのだろう。
 それくらい、ネイルに真剣な或兎は別人のような気がした。
「お前さぁ……やっぱ、ネイリストになりたいの?」
「う~ん……どうだろう」
 素朴な疑問を投げかけると、或兎は一瞬だけ手を止めて悩みだす。
 そして、再び筆を動かすと、ゆったりとしたペースで話始めた。
「今はまだ、アイドルしたいかなぁ」
「今はって、引退とか考えてる感じ?」
「さすがに、まだそこまでは考えてないよ。でも、俳優へ転身するのも素敵だなって思ってる」
「俳優かぁ……そういやお前、ドラマとかにも出てるもんな」
「一応ね。今できることは何でもしたいから」
「それじゃあ、ネイルも?」
「うん。今はまだ練習中だけど、いつかは極めたいと思ってるよ」
「なんか凄いな」
 将来をしっかりと見据えて生活している或兎に比べて、なんとなくで生きている自分が少しだけ惨めに感じられ、陣は再び目を伏せる。
 同じ学生でありながら、アイドル業で稼いでいて、将来や趣味のことまで考えている或兎はきっと、自分なんかでは歩けないような道をひた走っているのだろう。
 そう思った瞬間、指先に施された花畑が急に恥ずかしくなり、陣は或兎の手から逃れるように手を引っ込めた。
「あっ……! どうしたの?」
「いや、なんか……やっぱ俺には似合わねーなって思ってさ……」
 俯いて、そう言った陣を見つめて、或兎は不思議そうに首を傾げる。
「どうして、そう思うの?」
「どうして、って……そりゃあ、俺は……お前と違うしっ」
 まだ仕上げのコートを塗ったばかりの指先を見つめて言う。これを硬化させたら終わりなのは陣も知っていた。だからこど、中途半端に終わらせてしまいたいと思ってしまう。
 完成したら、自分がより惨めに思えのではないか。それが怖くて仕方がなかった。
「僕と違うから、なに? 人が人と違うのは当然のことでしょう?」
「それは……そうなんだけど」
「じゃあ、最後までやらせてよ。僕とは違う……その手の面倒、最後までみさせて」
「……っ!」
 真剣な眼差しを向けられて、陣は恐る恐る手を差し出す。
 それを少々強引に引っ張ると、或兎は塗りかけのコートをしっかりと塗ってUVライトの中へ陣の手を突っ込んだ。
 そして、暫くの沈黙の中、先に口を開いたのは或兎の方だった。
「こんな理想の手、僕見たの初めてだよ」
「手が綺麗な奴なんて、探せばいくらでもいるだろ……」
「綺麗と理想は違うよ……だからこそ、見つけた時にテンション上がりきちゃって、普段は絶対にしないのに、声掛けてまでやらせてもらったんだよ」
 陣が声を掛けられたことへの驚き以上に、或兎は勇気を振り絞っていたのだと気づかされる。しかし、考えてみればそうだ。いつも目立たないようにやり過ごしていた或兎が放っておけないほどに、陣の手は魅力的で、今を逃したくなくて必死だったのだろう。
 そう思うと、陣はしゅんと目を伏せたまま或兎に謝罪をした。
「悪かった……俺、勝手にお前のこと特別視して……勝手に嫉妬してた。ごめん……」
「いいよ。その代わり……」
 UVライトから陣の手を出し、或兎はパッと花が咲いたように笑った。
「また、ネイルさせてね?」
 甘えた声で言われると、断ることができず、陣は頷いて出来上がったばかりの指先を見る。
 薄紫の中に描かれた花々とラインストーンが夕焼けに照らされてキラキラと輝いていた。
 それはまるで、歌を歌っている時の或兎のようで、一気にテンションが上がっていくのを感じる。
「やっぱ、お前凄いよ。なんかめっちゃテンション上がってきた」
「そう? でも、まだまだ序の口だよ? 次はもっともっとテンションが上げちゃうからね!」
「おう! 期待してる!」
 笑顔で答え、まじまじと見つめた指先から湧き上がる興奮に、陣は早くも次のデザインはどんなものかを考えて、ワクワクと高鳴る胸を鳴らした。
「そうだ、お前今日はいいの? 仕事」
「うん。今日は午後からオフだから」
「そっか。じゃあ……俺ん家でも来る? お前の出てる歌番組、たぶん母さんが録画してるだろうから」
 一緒にみようぜ、と言うと或兎は一気に頬を赤らめて首を横に振った。
 そんな反応がなんだか新鮮で、陣は腹を抱えて笑ってしまう。
(なんだ……俺達、大して変わんねーじゃん)
 遠いと思っていた存在の以外な距離を楽しみながら、陣は指先の花畑を揺らして再びその輝きを見つめる。
 或兎とは違う、自分にしかないそこから伝わる高揚感をしみじみと味わい、漸く雲の上から降りてきた友人と肩を並べられることに胸を踊らせるのだった。