自分の館に戻ってきた六花は、その足で妹の霞の部屋に向かった。
暁天の子供や孫には、それぞれ敷地内に館を与えられている。
その居住がいかに暁天の住まう当主の館に近いかは、館を与えられた者たちにとってかなり重要視されていた。
六花はどこだろうと関係ないと思うのだが、六花がもっとも暁天の館に近い場所に居を与えられているからそう軽く考えられるのかもしれない。
無能のくせに優遇されていると、他の次期当主候補たちが妬むのは仕方がない。
しかし、天鬼月の宝刀でもある宵闇を持つ六花を当主から遠く離せないのもまた事実であり、それが余計に苦々しく思われている。
その筆頭が紫電だ。紫電としては自分こそが次期当主に一番近いと信じているからこそ、妬みも深い。
とはいえ、宵闇を持っていることを脇に置いておいても、恐らく暁天は六花を自分の近くに住まわせただろう。
周囲から畏怖され敬われていると言えば聞こえはいいが、距離を置かれているとも表現できる。
普段は飄々(ひょうひょう)としているくせに存外寂しがりなあの祖父が、一族の中で唯一、当主としてだけではなく家族として見てくれる貴重な孫娘を離すはずがない。
「おじい様のせいで無駄な時間を食ったわ」
げんなりとしつつ、目の前の扉を前に表情を引きしめコンコンとノックをすると、中から鈴が鳴るようなかわいらしい声が聞こえた。
「どうぞ」
「ただいま、霞」
部屋には大きなベッドが窓際に置かれており、そこには青白い顔をした霞が上半身だけ起こして座っていた。
「お姉ちゃん!」
霞は六花の顔を見るとぱっと花が咲いたように表情を明るくさせた。
姉の欲目と言われるかもしれないが、霞は『可憐』という言葉がよく似合う。
ベッドは自動で起き上がるようになっているので、自分で動かして外の景色を見ていたようだ。
どうやら今はいつもより調子がいいらしい。とはいえ、顔色が悪いことに変わりはないのだが。
霞は両親が遺した忘れ形見であり、六花の命より大事な存在。
「おかえりなさい。お見合いはどうだったの? あ、もう結婚が決まってるならお見合いってのもおかしいかな?」
その顔は興味津々で、六花は初対面の時の壮絶な顔合わせを思い出して苦い顔をする。
「霞、その話は誰から聞いたの?」
六花は霞に心配かけまいと、結婚の話は知らせずにいた。
「えっと……。ご当主様の側近の人……」
ばつが悪そうに視線を向けた先には、お盆に載った食事がある。
恐らく昼食を持ってきただろう当主の側近がいらぬことを霞に話して聞かせたようだ。
「他になにか言ってた?」
「な、なにも!」
慌てて否定するのが逆に怪しい。
じとーとした目を向けると、六花の視線から逃れるように霞は「今日は天気がいいね。しばらくしたら七夕だね~。天の川は見れるかな?」と外に目を向けた。
その横顔は七夕の日を心待ちにしているというよりは悲しげで、霞がなにを――誰を思い浮かべているか、六花には手に取るようによく分かる。
それは六花も同じだからだろう。
七夕の日、六花と霞は両親を奪われ、霞は呪いを受けた。
六花はなんと声をかけたらいいか分からずにいると……。
どこからともなく「きょほ、きょほほ」と不気味な笑い声が聞こえてきた。
「きょほほほ。あの野郎、かわいいあたしの霞に、『お荷物でも少しは役に立てることがあってよかったな。妹思いの姉に感謝しろよ』とか言い捨てていきやがったわ。くそ野郎め」
ぬっと霞の布団から顔を出したのは、霞と同じボブカットの髪型をした日本人形だ。その頭部からは小さな角がふたつ、ちょこんと伸びている。
日本人形はにゅるんと布団から抜け出し、立ち上がって背伸びをしている。
「ナギ、その出方は普通に怖いからね。霞が悪夢でも見たらどうしてくれるのよ」
知らぬ者が見たら確実に悲鳴をあげているところだ。
「きょほほ、霞があたしを怖がるわけないじゃない。六花より長い時間一緒にいるんだから。どう、羨ましいでしょ?」
そう言って見せつけるように霞に抱きつく。霞も嬉しそうにはにかんでいるのが、姉としては妹を取られたみたいで複雑だ。
それはともかく、相変わらずの性格と口の悪さはどうにかならないものか。
ただ、そんなことを注意しようものなら、『作り主の性格が悪いのだから仕方ない』と流れるように返してくる口の達者さを持っていた。
ナギは六花が霊力を練って作り出した使役獣で、身長は十五センチほど。普段は霞の話し相手としてそばにいさせている。
両親がなくなって以降、この館は六花と霞のふたりきりとなった。
六花が出かけるとどうしても霞がひとりになってしまうので、寂しくないようナギを作った。だが、どうも口がよく回り毒を吐き散らかすため、霞が悪影響を受けないか心配である。
世話をする使用人がいないわけではない。実際、六花がいない間に食事を持ってくる者がいる。
しかし、六花や暁天の目がないのをいいことに陰口をわざわざ聞かせて出ていくので、六花は信用していなかった。
だからこそ、霞は常にそばにいてくれるナギを家族同然に大切にしている。
ナギはとてもかわいらしい真っ赤な和服とつまみ細工のアクセサリーをつけているが、それらは霞のお手製だ。
他にもたくさんレパートリーがあり、ナギ専用のクローゼットも用意している。
外に出歩けない霞の暇つぶしにもなる上、ナギも喜ぶので問題はない。
「それより、誰がそんなふざけた内容をほざいたわけ?」
お礼参りをする気満々の六花の霊力が、怒りとともにゆらゆらと漏れ出る。
六花は力こそ制御できていないせいで無能扱いだが、その霊力の強さは宵闇に選ばれるほどの才を持っているのだ。
しかし、その制御できないという問題のせいで、感情が激しく揺れると霊力にも影響が出ることがままある。
そんな時、六花を落ち着かせるのはいつだって心根が優しい霞であった。
「お姉ちゃん、私は気にしていないから」
「つっ……」
霞を不快にさせた者は処してしかるべきだが、六花が騒ぎを起こして霞に気を遣わせてしまっては元も子もない。
六花は荒ぶる気持ちを静めるように深く息を吐いた。そして、もうそんな不快な者のことなど考えるだけ無駄だと、頭の隅に追いやる。
それでも怒り冷めやらぬのだが、霞の前でそれを出すのはやめ、笑みを浮かべた。
「霞が気になるのは顔合わせの話だっけ?」
「う、うん!」
霞も六花がいつも通りの優しい姉に戻ったのを察して笑顔になる。
「どんな人? かっこいい?」
「性格が不細工だったわ」
容姿などどうでもいい。どんなに綺麗だろうと、心の中が醜悪なものをたくさん見てきたせいで、六花はあまり見た目に頓着しない。
けれど霞は体調のいい時間を見計らって恋愛小説など本を読んでいるため興味津々なのだろう。
六花は霞の肩に手を置き、かつてなく真剣に言い聞かせた。
「いい、霞。結婚相手に選ぶなら見た目より中身よ! 霞を本当に大事にしてくれる人じゃないと私は許可しないからね!」
「わ、分かった……」
どうやら真に迫った六花の迫力になにか察するものがあったのだろう。その話題は突風が吹いた後のように跡形もなく消え去った。
「で、でも、結婚相手ってあの一龍斎氷雨さんでしょう? 性格が不細工なの?」
「霞、知ってるの?」
「知ってるよっ! 世間の情報には疎いかもしれないけど、さすがにあの人の話はよく聞くもん」
「聞くって誰から?」
霞は体調を崩すので、ほとんどをこの屋敷の中で過ごしている。人から聞く機会など皆無と言っていい。なので少々世情や流行に疎く、そんな霞が一龍斎氷雨という存在を知っていることが驚きだった。
「えっと、ナギが教えてくれたりとか」
「ナギ、どういうこと?」
「きょほほ~。私はただ、仕事中にもかかわらず世間話に花を咲かせている給料泥棒たちが話していた内容を面白おかしく霞に教えてあげただけよ」
文句でもあるのかと言わんばかりのナギに悪気はない。
「なるほどね」
深くため息をつく六花に、霞は心配そうに問いかける。
「一龍斎氷雨さんは人間なのにあやかしとも仲良くしてくれる素敵な人だって、家の人たちが騒ぐほど人気があるのに、不細工なの?」
霞に余計な興味を持たせたナギを苦々しく思う六花は、どう答えたものかと頭を悩ませる。
「人は誰しも表と裏があるのよ。絶対、表の顔に騙されちゃ駄目だからね!」
「うん」
戸惑いながらも頷いた霞の横で、ナギが「きょほほ~!」と今日一番大きな笑い声をあげた。
正直どうしてそんな不気味な笑い方になったのか、作った六花本人ですら不思議である。
「性格が不細工だなんて、六花にだけは言われたくないと思うわよ。ねえ、霞?」
「えっ、えっと……」
軽快に笑いながら霞に同意を求めるナギのせいで、霞はオロオロと戸惑っている。
「こら、霞を巻き込まないの。霞も無視していいからね」
「うん」
ほっとした顔をする霞と少しおしゃべりをしてからお風呂に入った六花は、急いで乾かして霞の元に戻る。
霞と離れると、どうしても襲ってくる焦燥感に勝てず駆け足になってしまう。
自分の目の届かないところで霞になにかありはしないか、不安が常につきまとっているのだ。
暁天の館からもっとも近いので、どの館より安全なはずだ。ナギだって常にそばへ置いている。一応は使用人だっている。
なにかあってもすぐに気づけるように細心の注意は払っているが、それだけでは足りないと焦る心を無理やり抑えつける。
そして、霞の無事な姿を見て、ようやく六花も安堵するのだ。
「お姉ちゃん、いつもお風呂が本当に早いね。ちゃんと洗ってる?」
「失礼な。しっかり洗ってるわよ」
むっとする六花に霞はくすくす笑って、サイドテーブルの引き出しから櫛を取り出した。
「お姉ちゃん、髪の毛梳いてあげる」
「体調は?」
「大丈夫」
「それならお願いしようかな」
六花はベッドに腰かけると、霞がゆっくり櫛を通していく。
その手つきは繊細でとても優しい。まるで霞の性格がそのまま手から伝わってくるようだ。
「お姉ちゃんすごく伸びたね。つやつやでとっても綺麗」
「霞がいつもお手入れをしてくれるからよ」
髪の長い六花と違い、霞はさほど長くない。
ボブカットの髪形は霞によく似合っているが、長い髪の方がもっと似合う。
しかし、一日のほとんどをベッドの上で過ごす霞は、お風呂の時間すらくつろぐものではなく体力を奪うものとなった。
それゆえ、入浴時間を最小限にするためには、肩にかかるくらいにばっさりと切るしかなかったのだ。
数年前までの霞は長い髪を好んでおり、見事なロングヘアーだったというのに。
大事にしていた髪を切らねばならないとなった時、霞ではなく不覚にも六花の方が号泣してしまった。
誰よりも悲しいはずの霞はそんな六花を必死で慰めてくれた。妹に気を遣わせるなんて、本当にどうしようもない姉である。
その件以降、今度は六花が髪を伸ばすようになった。
そして、体調のいい日は、母親の形見である櫛で霞が六花の髪を梳いてくれる。
敵の多いこの一族で暮らす中で、姉妹が心穏やかにいられる至福の時だ。六花も一番この時間が好きだった。
しかし、不意に霞の手が止まる。
不思議に思って振り返ると、霞が苦しそうにお腹を押さえていた。
「霞!」
「へ、平気だから……」
「そんなわけないでしょう!」
相当つらいのか、額に脂汗までかいている。
「ナギ、タオル持ってきて!」
「きょきょきょ!」
ナギが小さな体でパタパタと走っていくのを耳で確認し、霞をベッドに横にならせてパジャマを少しずらす。
すると、見えたお腹の上部には黒い薔薇の刻印がされ、そこから瘴気が漏れ出ていた。
憎々しいこの黒薔薇はどうしてもあの男を連想させる。
自分が好んだ花を呪いの証として刻み込むなど、本当に悪趣味が過ぎる。そんなものが霞に巣くっているかと思うと、見るたびに吐き気をもよおす。
常に持ち歩いている宵闇を急いで霞の体の上に置き、六花が霊力を込めると、宵闇が瘴気を呑み込むようにして浄化していく。
しばらくしてようやく表情が穏やかになった霞は、気を失っていた。
ナギが必死にタオルで霞の顔の汗を拭っているが、起きる気配もないほど疲弊しているようだ。
霞から六花に視線を移動させたナギの顔には心配の色が濃く見えていた。
「ねえ、六花。前より霞が発作を起こす回数が増えたわ。霞は気丈に振る舞っているけど、このままじゃ……。早くしないと」
「分かってる」
聞かなかったふりができたらどんなにいいだろうか。
だが、このままなにもしなければ、霞に待っているのは壮絶な苦しみの果てにある死だ。
それはどんなことを犠牲にしても止めなくてはならない。
今は落ち着いた霞の顔をうかがい、六花は泣きそうな顔をする。
「お父さん、お母さん、私どうしたらいい? このままじゃ、霞も失っちゃう……」
静寂の中に落ちる弱々しい声は、決して他人には見せない姿だった。
暁天の子供や孫には、それぞれ敷地内に館を与えられている。
その居住がいかに暁天の住まう当主の館に近いかは、館を与えられた者たちにとってかなり重要視されていた。
六花はどこだろうと関係ないと思うのだが、六花がもっとも暁天の館に近い場所に居を与えられているからそう軽く考えられるのかもしれない。
無能のくせに優遇されていると、他の次期当主候補たちが妬むのは仕方がない。
しかし、天鬼月の宝刀でもある宵闇を持つ六花を当主から遠く離せないのもまた事実であり、それが余計に苦々しく思われている。
その筆頭が紫電だ。紫電としては自分こそが次期当主に一番近いと信じているからこそ、妬みも深い。
とはいえ、宵闇を持っていることを脇に置いておいても、恐らく暁天は六花を自分の近くに住まわせただろう。
周囲から畏怖され敬われていると言えば聞こえはいいが、距離を置かれているとも表現できる。
普段は飄々(ひょうひょう)としているくせに存外寂しがりなあの祖父が、一族の中で唯一、当主としてだけではなく家族として見てくれる貴重な孫娘を離すはずがない。
「おじい様のせいで無駄な時間を食ったわ」
げんなりとしつつ、目の前の扉を前に表情を引きしめコンコンとノックをすると、中から鈴が鳴るようなかわいらしい声が聞こえた。
「どうぞ」
「ただいま、霞」
部屋には大きなベッドが窓際に置かれており、そこには青白い顔をした霞が上半身だけ起こして座っていた。
「お姉ちゃん!」
霞は六花の顔を見るとぱっと花が咲いたように表情を明るくさせた。
姉の欲目と言われるかもしれないが、霞は『可憐』という言葉がよく似合う。
ベッドは自動で起き上がるようになっているので、自分で動かして外の景色を見ていたようだ。
どうやら今はいつもより調子がいいらしい。とはいえ、顔色が悪いことに変わりはないのだが。
霞は両親が遺した忘れ形見であり、六花の命より大事な存在。
「おかえりなさい。お見合いはどうだったの? あ、もう結婚が決まってるならお見合いってのもおかしいかな?」
その顔は興味津々で、六花は初対面の時の壮絶な顔合わせを思い出して苦い顔をする。
「霞、その話は誰から聞いたの?」
六花は霞に心配かけまいと、結婚の話は知らせずにいた。
「えっと……。ご当主様の側近の人……」
ばつが悪そうに視線を向けた先には、お盆に載った食事がある。
恐らく昼食を持ってきただろう当主の側近がいらぬことを霞に話して聞かせたようだ。
「他になにか言ってた?」
「な、なにも!」
慌てて否定するのが逆に怪しい。
じとーとした目を向けると、六花の視線から逃れるように霞は「今日は天気がいいね。しばらくしたら七夕だね~。天の川は見れるかな?」と外に目を向けた。
その横顔は七夕の日を心待ちにしているというよりは悲しげで、霞がなにを――誰を思い浮かべているか、六花には手に取るようによく分かる。
それは六花も同じだからだろう。
七夕の日、六花と霞は両親を奪われ、霞は呪いを受けた。
六花はなんと声をかけたらいいか分からずにいると……。
どこからともなく「きょほ、きょほほ」と不気味な笑い声が聞こえてきた。
「きょほほほ。あの野郎、かわいいあたしの霞に、『お荷物でも少しは役に立てることがあってよかったな。妹思いの姉に感謝しろよ』とか言い捨てていきやがったわ。くそ野郎め」
ぬっと霞の布団から顔を出したのは、霞と同じボブカットの髪型をした日本人形だ。その頭部からは小さな角がふたつ、ちょこんと伸びている。
日本人形はにゅるんと布団から抜け出し、立ち上がって背伸びをしている。
「ナギ、その出方は普通に怖いからね。霞が悪夢でも見たらどうしてくれるのよ」
知らぬ者が見たら確実に悲鳴をあげているところだ。
「きょほほ、霞があたしを怖がるわけないじゃない。六花より長い時間一緒にいるんだから。どう、羨ましいでしょ?」
そう言って見せつけるように霞に抱きつく。霞も嬉しそうにはにかんでいるのが、姉としては妹を取られたみたいで複雑だ。
それはともかく、相変わらずの性格と口の悪さはどうにかならないものか。
ただ、そんなことを注意しようものなら、『作り主の性格が悪いのだから仕方ない』と流れるように返してくる口の達者さを持っていた。
ナギは六花が霊力を練って作り出した使役獣で、身長は十五センチほど。普段は霞の話し相手としてそばにいさせている。
両親がなくなって以降、この館は六花と霞のふたりきりとなった。
六花が出かけるとどうしても霞がひとりになってしまうので、寂しくないようナギを作った。だが、どうも口がよく回り毒を吐き散らかすため、霞が悪影響を受けないか心配である。
世話をする使用人がいないわけではない。実際、六花がいない間に食事を持ってくる者がいる。
しかし、六花や暁天の目がないのをいいことに陰口をわざわざ聞かせて出ていくので、六花は信用していなかった。
だからこそ、霞は常にそばにいてくれるナギを家族同然に大切にしている。
ナギはとてもかわいらしい真っ赤な和服とつまみ細工のアクセサリーをつけているが、それらは霞のお手製だ。
他にもたくさんレパートリーがあり、ナギ専用のクローゼットも用意している。
外に出歩けない霞の暇つぶしにもなる上、ナギも喜ぶので問題はない。
「それより、誰がそんなふざけた内容をほざいたわけ?」
お礼参りをする気満々の六花の霊力が、怒りとともにゆらゆらと漏れ出る。
六花は力こそ制御できていないせいで無能扱いだが、その霊力の強さは宵闇に選ばれるほどの才を持っているのだ。
しかし、その制御できないという問題のせいで、感情が激しく揺れると霊力にも影響が出ることがままある。
そんな時、六花を落ち着かせるのはいつだって心根が優しい霞であった。
「お姉ちゃん、私は気にしていないから」
「つっ……」
霞を不快にさせた者は処してしかるべきだが、六花が騒ぎを起こして霞に気を遣わせてしまっては元も子もない。
六花は荒ぶる気持ちを静めるように深く息を吐いた。そして、もうそんな不快な者のことなど考えるだけ無駄だと、頭の隅に追いやる。
それでも怒り冷めやらぬのだが、霞の前でそれを出すのはやめ、笑みを浮かべた。
「霞が気になるのは顔合わせの話だっけ?」
「う、うん!」
霞も六花がいつも通りの優しい姉に戻ったのを察して笑顔になる。
「どんな人? かっこいい?」
「性格が不細工だったわ」
容姿などどうでもいい。どんなに綺麗だろうと、心の中が醜悪なものをたくさん見てきたせいで、六花はあまり見た目に頓着しない。
けれど霞は体調のいい時間を見計らって恋愛小説など本を読んでいるため興味津々なのだろう。
六花は霞の肩に手を置き、かつてなく真剣に言い聞かせた。
「いい、霞。結婚相手に選ぶなら見た目より中身よ! 霞を本当に大事にしてくれる人じゃないと私は許可しないからね!」
「わ、分かった……」
どうやら真に迫った六花の迫力になにか察するものがあったのだろう。その話題は突風が吹いた後のように跡形もなく消え去った。
「で、でも、結婚相手ってあの一龍斎氷雨さんでしょう? 性格が不細工なの?」
「霞、知ってるの?」
「知ってるよっ! 世間の情報には疎いかもしれないけど、さすがにあの人の話はよく聞くもん」
「聞くって誰から?」
霞は体調を崩すので、ほとんどをこの屋敷の中で過ごしている。人から聞く機会など皆無と言っていい。なので少々世情や流行に疎く、そんな霞が一龍斎氷雨という存在を知っていることが驚きだった。
「えっと、ナギが教えてくれたりとか」
「ナギ、どういうこと?」
「きょほほ~。私はただ、仕事中にもかかわらず世間話に花を咲かせている給料泥棒たちが話していた内容を面白おかしく霞に教えてあげただけよ」
文句でもあるのかと言わんばかりのナギに悪気はない。
「なるほどね」
深くため息をつく六花に、霞は心配そうに問いかける。
「一龍斎氷雨さんは人間なのにあやかしとも仲良くしてくれる素敵な人だって、家の人たちが騒ぐほど人気があるのに、不細工なの?」
霞に余計な興味を持たせたナギを苦々しく思う六花は、どう答えたものかと頭を悩ませる。
「人は誰しも表と裏があるのよ。絶対、表の顔に騙されちゃ駄目だからね!」
「うん」
戸惑いながらも頷いた霞の横で、ナギが「きょほほ~!」と今日一番大きな笑い声をあげた。
正直どうしてそんな不気味な笑い方になったのか、作った六花本人ですら不思議である。
「性格が不細工だなんて、六花にだけは言われたくないと思うわよ。ねえ、霞?」
「えっ、えっと……」
軽快に笑いながら霞に同意を求めるナギのせいで、霞はオロオロと戸惑っている。
「こら、霞を巻き込まないの。霞も無視していいからね」
「うん」
ほっとした顔をする霞と少しおしゃべりをしてからお風呂に入った六花は、急いで乾かして霞の元に戻る。
霞と離れると、どうしても襲ってくる焦燥感に勝てず駆け足になってしまう。
自分の目の届かないところで霞になにかありはしないか、不安が常につきまとっているのだ。
暁天の館からもっとも近いので、どの館より安全なはずだ。ナギだって常にそばへ置いている。一応は使用人だっている。
なにかあってもすぐに気づけるように細心の注意は払っているが、それだけでは足りないと焦る心を無理やり抑えつける。
そして、霞の無事な姿を見て、ようやく六花も安堵するのだ。
「お姉ちゃん、いつもお風呂が本当に早いね。ちゃんと洗ってる?」
「失礼な。しっかり洗ってるわよ」
むっとする六花に霞はくすくす笑って、サイドテーブルの引き出しから櫛を取り出した。
「お姉ちゃん、髪の毛梳いてあげる」
「体調は?」
「大丈夫」
「それならお願いしようかな」
六花はベッドに腰かけると、霞がゆっくり櫛を通していく。
その手つきは繊細でとても優しい。まるで霞の性格がそのまま手から伝わってくるようだ。
「お姉ちゃんすごく伸びたね。つやつやでとっても綺麗」
「霞がいつもお手入れをしてくれるからよ」
髪の長い六花と違い、霞はさほど長くない。
ボブカットの髪形は霞によく似合っているが、長い髪の方がもっと似合う。
しかし、一日のほとんどをベッドの上で過ごす霞は、お風呂の時間すらくつろぐものではなく体力を奪うものとなった。
それゆえ、入浴時間を最小限にするためには、肩にかかるくらいにばっさりと切るしかなかったのだ。
数年前までの霞は長い髪を好んでおり、見事なロングヘアーだったというのに。
大事にしていた髪を切らねばならないとなった時、霞ではなく不覚にも六花の方が号泣してしまった。
誰よりも悲しいはずの霞はそんな六花を必死で慰めてくれた。妹に気を遣わせるなんて、本当にどうしようもない姉である。
その件以降、今度は六花が髪を伸ばすようになった。
そして、体調のいい日は、母親の形見である櫛で霞が六花の髪を梳いてくれる。
敵の多いこの一族で暮らす中で、姉妹が心穏やかにいられる至福の時だ。六花も一番この時間が好きだった。
しかし、不意に霞の手が止まる。
不思議に思って振り返ると、霞が苦しそうにお腹を押さえていた。
「霞!」
「へ、平気だから……」
「そんなわけないでしょう!」
相当つらいのか、額に脂汗までかいている。
「ナギ、タオル持ってきて!」
「きょきょきょ!」
ナギが小さな体でパタパタと走っていくのを耳で確認し、霞をベッドに横にならせてパジャマを少しずらす。
すると、見えたお腹の上部には黒い薔薇の刻印がされ、そこから瘴気が漏れ出ていた。
憎々しいこの黒薔薇はどうしてもあの男を連想させる。
自分が好んだ花を呪いの証として刻み込むなど、本当に悪趣味が過ぎる。そんなものが霞に巣くっているかと思うと、見るたびに吐き気をもよおす。
常に持ち歩いている宵闇を急いで霞の体の上に置き、六花が霊力を込めると、宵闇が瘴気を呑み込むようにして浄化していく。
しばらくしてようやく表情が穏やかになった霞は、気を失っていた。
ナギが必死にタオルで霞の顔の汗を拭っているが、起きる気配もないほど疲弊しているようだ。
霞から六花に視線を移動させたナギの顔には心配の色が濃く見えていた。
「ねえ、六花。前より霞が発作を起こす回数が増えたわ。霞は気丈に振る舞っているけど、このままじゃ……。早くしないと」
「分かってる」
聞かなかったふりができたらどんなにいいだろうか。
だが、このままなにもしなければ、霞に待っているのは壮絶な苦しみの果てにある死だ。
それはどんなことを犠牲にしても止めなくてはならない。
今は落ち着いた霞の顔をうかがい、六花は泣きそうな顔をする。
「お父さん、お母さん、私どうしたらいい? このままじゃ、霞も失っちゃう……」
静寂の中に落ちる弱々しい声は、決して他人には見せない姿だった。



