二日後、再度顔合わせのやり直しをすると報告があった。
今度は騙し討ちのようなことはせずにちゃんと知らせが来たのは、顔合わせにふさわしい服を着ておくようにと伝えるためだった。
あんな男のためにどうして時間をかけてめかし込まなくてはならないのか。
その時間があるなら霞に費やした方がずっと有益である。
しかし、今度も暁天は当主命令を発動。天鬼月で暮らす六花が断れるはずもなく、仕方なく身支度をした。
そして綺麗な青の着物を来た六花は側近に案内──監視されながら、暁天のいる館へ通じる回廊へとやってきた。
どんなに着飾ろうと刀は決して離さないため、淑やかさを感じさせる着物と刀という装いは、少々アンバランスな印象を周囲に与える。
六花が刀を常に所持しているのはいつものことなので、誰も気にせず向かっていると、反対側からこちらに歩いてくる男女の姿が見えた。
男性は、六花のいとこである天鬼月紫電だった。
六花よりいくぶん年上の紫電は、人間の見た目でたとえると二十代半ばくらいだろうか。
同じく現当主の孫で、次期当主最有力候補である。それゆえか、普段から尊大な性格をしており、こと六花の前になるとさらに増長する。
いつも見下してくるその目が、六花は嫌いだった。
そして、彼の隣にいる女性は側近の香鬼白霧だ。
天鬼月の分家出身ではあるが、六花よりも実力は持っているかもしれない。確定的でないのは、実際に戦ったことがないからだ。
白霧は六花にも負けぬ美しい容姿を持っている。総じて美しい鬼の中でも群を抜いていると評価していいだろう。
伽羅色の長い髪に、こげ茶色の目は、鬼の中では珍しい。
それでいうと、紫電の髪の色も金色とまではいかない茶色い髪だが、こちらは染めているだけだ。元は六花と同じ黒色だった。
そんな紫電と白霧は同い年と聞く。だからこそ側近に選ばれたとも言われているが、それだけではないのは明らかだ。
白霧は淑やかな立ち居振る舞いで常に柔らかな笑みを浮かべており、性格も人当たりもいいと周囲の評判は高い。
鬼の中にも白霧に憧れている者はたくさんいる。
いずれ紫電が当主となったなら白霧が伴侶になるだろうともっぱらの噂ではあるが、六花はそのあたりについてまったく興味がない。
実のところ、一時期六花と紫電の間で婚約話が持ち上がったのだが、六花は考える間もなく即座に断った。
普段から意地悪をしてくる紫電と結婚など冗談ではないと、今後は話にものぼらないようにすっぱりきっぱりと暁天に宣言しておいた。
それを暁天を通じて聞いた紫電はなにやら怒って六花に問いただしてきたが、これまでの自分の行いを振り返ってみろという気持ちだ。
ただ、そんなふうに断られてプライドが傷ついたのか、それ以降、紫電の態度がさらに悪くなったのである。
いったい誰がそんな得にもならない婚約話を出してきたのか暁天に問いただしてみたが、暁天は『日頃の行いというのは大事だよなぁ。まあ、あやつの自業自得だ』と意味不明なことをつぶやき不憫そうに苦笑するだけで、結局言い出しっぺが誰か教えてくれなかった。
そんな因縁のある相手に遭遇して途端に顔をしかめる六花は逃げ道を探したが、ここは一本道の廊下なので、嫌でも顔を合わせることになる。
紫電も六花の存在に気がつき、一瞬驚いたように表情を変化させたものの、すぐに形の整った唇の端をゆるりと上げた。
端正な顔立ちなのは彼が鬼だからだが、六花に向ける笑みはいつも意地が悪そうに見える。
実際に言動はいじめといって差し支えないものなので、六花も自然と警戒する。素知らぬふりで横を通り過ぎようとしたが、紫電に腕を掴まれたことにより阻止された。
「なにか?」
淡々と、感情を一切含まない眼差しを向ければ、紫電はどこかイライラとした表情でにらみつけてくる。
そんなに六花が気に食わないなら空気のように無視すればいいだろうに、紫電は六花の姿を見つけると絶対に絡んでくる。
六花にとっては鬱陶しいことこの上ない。
「おい、はみ出し者がなにしてる? しかもそんなに着飾って」
「あなたには関係ないでしょう?」
紫電は苛立たしげに舌打ちをした。
「ここは『当主の回廊』だぞ。お前には無縁の場所だろうが」
本館から、当主が住まう別館へと続く廊下がそう呼ばれるようになったのは、いつからか分からない。ただ、大昔ということだけだ。
そこを通れるのは当主と、当主に関わるほんのひと握りの者だけなので、一族にとっては特別な場所でもある。
ただ、六花はそんな当主の館へ頻繁に行き来しているので、それを不満に思う者は少なくない。紫電もそのひとりだ。
だが、六花とて呼ばれて来ているので、不満をぶつけられるのは理不尽に感じてしまう。
来ない選択ができるものならしている。
特に次期当主の最有力と目されている紫電は、六花以上に当主の館に呼ばれるので、ここを通ると遭遇率がすごく高いのだ。
できる限り紫電と会いたくない六花にとっては鬼門の場所である。
しかし、当主命令で呼ばれている以上は、行かざるを得ない。
結果、不安は的中し、こうして紫電に目をつけられ行く手を遮られてしまった。
「ご当主様に呼ばれているので離してくれますか? あなたが無為な行いで私を足止めすればするほど、ご当主様を待たせることになりますよ?」
ちらりと六花が当主の側近に目をやれば、毛嫌いしている六花ではなく紫電をねめつけていた。
当主に反する行いをするなら、いくら六花の方を嫌っていようと、敵意は次期当主候補筆頭の紫電に向けられる。
天鬼月にとって当主という存在は、それだけ大きいのだ。
紫電がそんな側近の眼差しに気がついた様子がないのは、その目がただ六花に向けられているからだろう。
「はみ出し者が偉そうに。ご当主様に気に入られているからといって、お前が偉いわけではないとどうして分からないんだ?」
「ちゃんと理解しています」
「そうは思えないがな」
はんっと紫電は嘲笑った。
「お荷物まで抱えるお前を置いてくださるご当主様に感謝するんだな」
その言葉は六花の怒りに触れるものだ。
煽られていると分かっていながら、六花は嫌でも口が動いてしまう。
「お荷物ですって? それは誰を指しているのでしょうか?」
低く冷淡な声を発する六花の気迫に紫電は一瞬気圧されたものの、すぐに我を取り戻して薄気味の悪い笑みを浮かべた。
まるで六花が感情を見せたのが嬉しいというように。
「なんだ? わざわざ問いかけてくるなんて、そんなに口に出してほしいみたいだな。一族のお荷物な妹のことを」
その瞬間、六花はかっと頭に血がのぼった。
「あの子をそんなふうに蔑まないでください!」
「お前だってお荷物だと思っているんじゃないのか? 外れ者のお前でも、あの妹さえいなければ今より一族の中で生きやすかっただろうに」
「私は一度として思ったことはありません!」
「どうだかな」
声を荒らげる六花の反応を楽しむように口角を上げる紫電に、六花の苛立ちは募っていく。
「本当はとっとと死んでくれたらよかったんじゃないのか?」
そんなはずがない。そして、これから先もそんな願いを抱いたりはしないと確信が持てる。
むしろそうなることをなにより恐れている六花にとって、冗談だろうと決して許せない暴言であった。
実のところ、紫電は六花の妹がどんな状態にあろうが気にしてはいない。館からほとんど出ない霞と顔を合わせることもないので状態も知らないだろう。
ただ六花を傷つけるためだけに、霞を引き合いに出している。
自分がなんと言われようがどうでもいいが、なにより大切な者の存在を嫌な形で出され、六花は激昂した。
「ふざけないで!」
怒りだけでない、悔しさと憎らしさと、霞を守りきれない己へのふがいなさが六花の心を支配する。
六花は紫電の胸倉を掴もうとしたが、その手首を逆に掴まれ振り回すように投げられた。壁に勢いよく背を打ちつけて一瞬息が詰まる。
「かはっ……」
そのままずるずるとうずくまる六花は、補いきれない力の差に歯噛みする。
純粋なる力量の差。同じ当主の孫だというのに、あまりにもあっけなく一蹴されてしまう。
悔しさをにじませながら顔を上げると、紫電が不敵に笑っている。
「身の程知らずが。お前ごときが俺と渡り合えるとでも思ったのか?」
「つっ……」
実力差は六花も承知の上だ。それでも許せないものがある。
「ああ、ご当主様に泣きついてみるか? お気に入りのお前が懇願したら、憐れんだご当主様が助けてくださるだろうな。あの方はお前にはお優しい方だから」
言葉の端々に感じる棘。
傷つく六花を見られるのが嬉しいと言わんばかりに爛々(らんらん)と輝く瞳は、本当に性格が悪い。
「告げ口なんてするつもりはありません」
「プライドだけは無駄に一人前ということか? お前がプライドなんて持ってどうするっていうんだ。地面に這いつくばりながら俺に頭を下げるなら、俺が当主となった後もここに置いてやるよう考えてもいいんだぞ?」
完全に六花を見下し、その心すら折ろうとしてくる紫電に、六花の怒りは再燃する。
「必要ない。あなたに媚びるぐらいなら死んだ方がましです」
力ではかなわずとも、せめて心だけは強くありたい。
天鬼月の鬼としての矜持は、紫電にだろうと崩されたりはしない。六花の目は、こいつにだけは屈してなるものかと叫ぶように強く輝いている。
けれどそんな六花を前にしても、紫電の小馬鹿にした視線が変わることはない。
「なら死んでみせるか?」
紫電がその手に霊力を集める。
赤黒く禍々しい、まるで紫電の残忍な性格をそのまま形にしたかのような色は、六花にもその力の危険さが伝わってくる。
「紫電様!」
当主の側近が慌てて声をかける。
さすがに当主の回廊において、たとえ相手が六花であろうとこれ以上の騒ぎを起こすのはよくないという常識は持ち合わせているらしい。
いや、暁天がかわいがっている六花だからこそだろうか。
ならばもっと早くに止めに入れという話だが、基本的に六花は暁天の側近に好かれていないので、助けが入るのを期待してはいけない。
今も助けに入る隙はたくさんあったのに、ぎりぎりまで傍観者でいた。
そこはそもそも当てにしていないので気にしていないが、側近の止める声は紫電に聞こえているのかいないのか、紫電は止まらない。
じりじりと六花に近づいてくる。
多少の痛みは我慢するしかないかと覚悟を決めた時、横から風鈴のように涼やかな声が聞こえてきた。
「紫電様、お遊びになるのはそれぐらいになさいませ」
それまでずっとひと言も発言しなかった白霧だ。霊力を集めている紫電の手にそっと触れて、微笑みかける。
「あまり弱い者をいじめるのはよくはありませんわ」
「いじめではなく、立場を分からせてやっているんだ」
ふんと鼻を鳴らす紫電は、不機嫌そうにしながらも白霧が話しかけたことで落ち着いていく。
「誰よりも当主に近いあなたが力を振るえば、鬼が相手であろうと弱い者いじめになってしまいますよ」
どこからか春の風が吹き抜けるような透き通った微笑みを浮かべる白霧によって興が削がれたのか、紫電は手に集めていた霊力を霧散させる。
「お前も白霧ほどの器量があればかわいがってやったものを」
「冗談じゃありませんね」
冷たく見下ろす紫電に悪態をつく六花は、一瞬でもそんな光景を思い浮かべてしまったことに吐き気を覚える。
「本当にどうして宵闇がお前を選んだのか疑問でしかない。普通は辞退するべきところをしっかり受け取っているのだから、お前の面の皮の厚さには恐れ入る」
「僻まないでくれますか? 選んだのは私ではなく宵闇です」
そう言って、六花は腰に差してあった剣の柄をひと撫でする。
これは六花にとって最後の生命線。誰になんと言われようとも手放すわけにはいかないのだ。
「いつまでその気持ちでいられるか見ものだ」
気が済んだのか、はたまた興味を失ったのか定かではないが、紫電は六花に蔑んだ目を向けてそれだけ言い捨てると、通り過ぎていった。
そして、いまだその場に残っていた白霧は六花に手を差し出す。
「大丈夫ですか、六花様?」
「結構よ」
六花の身を案じる言葉をかける白霧の手を取ることなく立ち上がった。少々着物が崩れたが、これぐらいならば自分で直せる。
「あまりご無理はなさらないでくださいね。あなた様も一応主家たる天鬼月の直系なのですから」
『一応』
その言葉に含みを感じるのは六花の被害妄想ではきっとない。
「あなたにいちいち言われる筋合いはありません」
優しくいたわるように声をかけられるが、六花の方は自然と冷たい口調方になってしまう。
困った子供を見るように苦笑する白霧は、一礼してから紫電の後を追いかけていった。
「……偽善ね」
紫電も紫電だが、白霧は白霧で、さすが紫電の側近をしているだけのことはあるなと六花は常々思っていた。
一見すると聖女のように、慈愛にあふれた女性のように見える。
実際に、白霧に助けられた、面倒を見てもらったと、分家ながら白霧を崇拝する者が一定数いる。
だが、彼女は六花が紫電にぶん投げられた時も、どんなに悪意に満ちた言葉を投げつけられても、最後の最後まで口を挟んでこなかった。
紫電が怖いからではないのは、先ほどの軽快なやりとりを見ていれば分かる。
当主以外で次期当主候補筆頭である紫電を唯一止められるのは白霧だ。
その気になればもっと早く止めに入ることはできたのに、白霧はずっと六花がなじられても傍観していた。
天鬼月は実力主義を掲げる者が多い。だからこそ、弱い六花に発言権がないのは仕方がないのかもしれない。それでも──。
慈愛に満ちた笑みを浮かべ、他者が傷つけられているのを黙って見ている。そんな女性のどこが聖女なのだろう。
慈愛などという言葉とは無縁にしか感じられず、六花には到底理解できそうにない。
六花はふたりが去っていった方向をじっとにらんだ後、当主の待つ別館へゆっくりと足を踏み出した。
今度は騙し討ちのようなことはせずにちゃんと知らせが来たのは、顔合わせにふさわしい服を着ておくようにと伝えるためだった。
あんな男のためにどうして時間をかけてめかし込まなくてはならないのか。
その時間があるなら霞に費やした方がずっと有益である。
しかし、今度も暁天は当主命令を発動。天鬼月で暮らす六花が断れるはずもなく、仕方なく身支度をした。
そして綺麗な青の着物を来た六花は側近に案内──監視されながら、暁天のいる館へ通じる回廊へとやってきた。
どんなに着飾ろうと刀は決して離さないため、淑やかさを感じさせる着物と刀という装いは、少々アンバランスな印象を周囲に与える。
六花が刀を常に所持しているのはいつものことなので、誰も気にせず向かっていると、反対側からこちらに歩いてくる男女の姿が見えた。
男性は、六花のいとこである天鬼月紫電だった。
六花よりいくぶん年上の紫電は、人間の見た目でたとえると二十代半ばくらいだろうか。
同じく現当主の孫で、次期当主最有力候補である。それゆえか、普段から尊大な性格をしており、こと六花の前になるとさらに増長する。
いつも見下してくるその目が、六花は嫌いだった。
そして、彼の隣にいる女性は側近の香鬼白霧だ。
天鬼月の分家出身ではあるが、六花よりも実力は持っているかもしれない。確定的でないのは、実際に戦ったことがないからだ。
白霧は六花にも負けぬ美しい容姿を持っている。総じて美しい鬼の中でも群を抜いていると評価していいだろう。
伽羅色の長い髪に、こげ茶色の目は、鬼の中では珍しい。
それでいうと、紫電の髪の色も金色とまではいかない茶色い髪だが、こちらは染めているだけだ。元は六花と同じ黒色だった。
そんな紫電と白霧は同い年と聞く。だからこそ側近に選ばれたとも言われているが、それだけではないのは明らかだ。
白霧は淑やかな立ち居振る舞いで常に柔らかな笑みを浮かべており、性格も人当たりもいいと周囲の評判は高い。
鬼の中にも白霧に憧れている者はたくさんいる。
いずれ紫電が当主となったなら白霧が伴侶になるだろうともっぱらの噂ではあるが、六花はそのあたりについてまったく興味がない。
実のところ、一時期六花と紫電の間で婚約話が持ち上がったのだが、六花は考える間もなく即座に断った。
普段から意地悪をしてくる紫電と結婚など冗談ではないと、今後は話にものぼらないようにすっぱりきっぱりと暁天に宣言しておいた。
それを暁天を通じて聞いた紫電はなにやら怒って六花に問いただしてきたが、これまでの自分の行いを振り返ってみろという気持ちだ。
ただ、そんなふうに断られてプライドが傷ついたのか、それ以降、紫電の態度がさらに悪くなったのである。
いったい誰がそんな得にもならない婚約話を出してきたのか暁天に問いただしてみたが、暁天は『日頃の行いというのは大事だよなぁ。まあ、あやつの自業自得だ』と意味不明なことをつぶやき不憫そうに苦笑するだけで、結局言い出しっぺが誰か教えてくれなかった。
そんな因縁のある相手に遭遇して途端に顔をしかめる六花は逃げ道を探したが、ここは一本道の廊下なので、嫌でも顔を合わせることになる。
紫電も六花の存在に気がつき、一瞬驚いたように表情を変化させたものの、すぐに形の整った唇の端をゆるりと上げた。
端正な顔立ちなのは彼が鬼だからだが、六花に向ける笑みはいつも意地が悪そうに見える。
実際に言動はいじめといって差し支えないものなので、六花も自然と警戒する。素知らぬふりで横を通り過ぎようとしたが、紫電に腕を掴まれたことにより阻止された。
「なにか?」
淡々と、感情を一切含まない眼差しを向ければ、紫電はどこかイライラとした表情でにらみつけてくる。
そんなに六花が気に食わないなら空気のように無視すればいいだろうに、紫電は六花の姿を見つけると絶対に絡んでくる。
六花にとっては鬱陶しいことこの上ない。
「おい、はみ出し者がなにしてる? しかもそんなに着飾って」
「あなたには関係ないでしょう?」
紫電は苛立たしげに舌打ちをした。
「ここは『当主の回廊』だぞ。お前には無縁の場所だろうが」
本館から、当主が住まう別館へと続く廊下がそう呼ばれるようになったのは、いつからか分からない。ただ、大昔ということだけだ。
そこを通れるのは当主と、当主に関わるほんのひと握りの者だけなので、一族にとっては特別な場所でもある。
ただ、六花はそんな当主の館へ頻繁に行き来しているので、それを不満に思う者は少なくない。紫電もそのひとりだ。
だが、六花とて呼ばれて来ているので、不満をぶつけられるのは理不尽に感じてしまう。
来ない選択ができるものならしている。
特に次期当主の最有力と目されている紫電は、六花以上に当主の館に呼ばれるので、ここを通ると遭遇率がすごく高いのだ。
できる限り紫電と会いたくない六花にとっては鬼門の場所である。
しかし、当主命令で呼ばれている以上は、行かざるを得ない。
結果、不安は的中し、こうして紫電に目をつけられ行く手を遮られてしまった。
「ご当主様に呼ばれているので離してくれますか? あなたが無為な行いで私を足止めすればするほど、ご当主様を待たせることになりますよ?」
ちらりと六花が当主の側近に目をやれば、毛嫌いしている六花ではなく紫電をねめつけていた。
当主に反する行いをするなら、いくら六花の方を嫌っていようと、敵意は次期当主候補筆頭の紫電に向けられる。
天鬼月にとって当主という存在は、それだけ大きいのだ。
紫電がそんな側近の眼差しに気がついた様子がないのは、その目がただ六花に向けられているからだろう。
「はみ出し者が偉そうに。ご当主様に気に入られているからといって、お前が偉いわけではないとどうして分からないんだ?」
「ちゃんと理解しています」
「そうは思えないがな」
はんっと紫電は嘲笑った。
「お荷物まで抱えるお前を置いてくださるご当主様に感謝するんだな」
その言葉は六花の怒りに触れるものだ。
煽られていると分かっていながら、六花は嫌でも口が動いてしまう。
「お荷物ですって? それは誰を指しているのでしょうか?」
低く冷淡な声を発する六花の気迫に紫電は一瞬気圧されたものの、すぐに我を取り戻して薄気味の悪い笑みを浮かべた。
まるで六花が感情を見せたのが嬉しいというように。
「なんだ? わざわざ問いかけてくるなんて、そんなに口に出してほしいみたいだな。一族のお荷物な妹のことを」
その瞬間、六花はかっと頭に血がのぼった。
「あの子をそんなふうに蔑まないでください!」
「お前だってお荷物だと思っているんじゃないのか? 外れ者のお前でも、あの妹さえいなければ今より一族の中で生きやすかっただろうに」
「私は一度として思ったことはありません!」
「どうだかな」
声を荒らげる六花の反応を楽しむように口角を上げる紫電に、六花の苛立ちは募っていく。
「本当はとっとと死んでくれたらよかったんじゃないのか?」
そんなはずがない。そして、これから先もそんな願いを抱いたりはしないと確信が持てる。
むしろそうなることをなにより恐れている六花にとって、冗談だろうと決して許せない暴言であった。
実のところ、紫電は六花の妹がどんな状態にあろうが気にしてはいない。館からほとんど出ない霞と顔を合わせることもないので状態も知らないだろう。
ただ六花を傷つけるためだけに、霞を引き合いに出している。
自分がなんと言われようがどうでもいいが、なにより大切な者の存在を嫌な形で出され、六花は激昂した。
「ふざけないで!」
怒りだけでない、悔しさと憎らしさと、霞を守りきれない己へのふがいなさが六花の心を支配する。
六花は紫電の胸倉を掴もうとしたが、その手首を逆に掴まれ振り回すように投げられた。壁に勢いよく背を打ちつけて一瞬息が詰まる。
「かはっ……」
そのままずるずるとうずくまる六花は、補いきれない力の差に歯噛みする。
純粋なる力量の差。同じ当主の孫だというのに、あまりにもあっけなく一蹴されてしまう。
悔しさをにじませながら顔を上げると、紫電が不敵に笑っている。
「身の程知らずが。お前ごときが俺と渡り合えるとでも思ったのか?」
「つっ……」
実力差は六花も承知の上だ。それでも許せないものがある。
「ああ、ご当主様に泣きついてみるか? お気に入りのお前が懇願したら、憐れんだご当主様が助けてくださるだろうな。あの方はお前にはお優しい方だから」
言葉の端々に感じる棘。
傷つく六花を見られるのが嬉しいと言わんばかりに爛々(らんらん)と輝く瞳は、本当に性格が悪い。
「告げ口なんてするつもりはありません」
「プライドだけは無駄に一人前ということか? お前がプライドなんて持ってどうするっていうんだ。地面に這いつくばりながら俺に頭を下げるなら、俺が当主となった後もここに置いてやるよう考えてもいいんだぞ?」
完全に六花を見下し、その心すら折ろうとしてくる紫電に、六花の怒りは再燃する。
「必要ない。あなたに媚びるぐらいなら死んだ方がましです」
力ではかなわずとも、せめて心だけは強くありたい。
天鬼月の鬼としての矜持は、紫電にだろうと崩されたりはしない。六花の目は、こいつにだけは屈してなるものかと叫ぶように強く輝いている。
けれどそんな六花を前にしても、紫電の小馬鹿にした視線が変わることはない。
「なら死んでみせるか?」
紫電がその手に霊力を集める。
赤黒く禍々しい、まるで紫電の残忍な性格をそのまま形にしたかのような色は、六花にもその力の危険さが伝わってくる。
「紫電様!」
当主の側近が慌てて声をかける。
さすがに当主の回廊において、たとえ相手が六花であろうとこれ以上の騒ぎを起こすのはよくないという常識は持ち合わせているらしい。
いや、暁天がかわいがっている六花だからこそだろうか。
ならばもっと早くに止めに入れという話だが、基本的に六花は暁天の側近に好かれていないので、助けが入るのを期待してはいけない。
今も助けに入る隙はたくさんあったのに、ぎりぎりまで傍観者でいた。
そこはそもそも当てにしていないので気にしていないが、側近の止める声は紫電に聞こえているのかいないのか、紫電は止まらない。
じりじりと六花に近づいてくる。
多少の痛みは我慢するしかないかと覚悟を決めた時、横から風鈴のように涼やかな声が聞こえてきた。
「紫電様、お遊びになるのはそれぐらいになさいませ」
それまでずっとひと言も発言しなかった白霧だ。霊力を集めている紫電の手にそっと触れて、微笑みかける。
「あまり弱い者をいじめるのはよくはありませんわ」
「いじめではなく、立場を分からせてやっているんだ」
ふんと鼻を鳴らす紫電は、不機嫌そうにしながらも白霧が話しかけたことで落ち着いていく。
「誰よりも当主に近いあなたが力を振るえば、鬼が相手であろうと弱い者いじめになってしまいますよ」
どこからか春の風が吹き抜けるような透き通った微笑みを浮かべる白霧によって興が削がれたのか、紫電は手に集めていた霊力を霧散させる。
「お前も白霧ほどの器量があればかわいがってやったものを」
「冗談じゃありませんね」
冷たく見下ろす紫電に悪態をつく六花は、一瞬でもそんな光景を思い浮かべてしまったことに吐き気を覚える。
「本当にどうして宵闇がお前を選んだのか疑問でしかない。普通は辞退するべきところをしっかり受け取っているのだから、お前の面の皮の厚さには恐れ入る」
「僻まないでくれますか? 選んだのは私ではなく宵闇です」
そう言って、六花は腰に差してあった剣の柄をひと撫でする。
これは六花にとって最後の生命線。誰になんと言われようとも手放すわけにはいかないのだ。
「いつまでその気持ちでいられるか見ものだ」
気が済んだのか、はたまた興味を失ったのか定かではないが、紫電は六花に蔑んだ目を向けてそれだけ言い捨てると、通り過ぎていった。
そして、いまだその場に残っていた白霧は六花に手を差し出す。
「大丈夫ですか、六花様?」
「結構よ」
六花の身を案じる言葉をかける白霧の手を取ることなく立ち上がった。少々着物が崩れたが、これぐらいならば自分で直せる。
「あまりご無理はなさらないでくださいね。あなた様も一応主家たる天鬼月の直系なのですから」
『一応』
その言葉に含みを感じるのは六花の被害妄想ではきっとない。
「あなたにいちいち言われる筋合いはありません」
優しくいたわるように声をかけられるが、六花の方は自然と冷たい口調方になってしまう。
困った子供を見るように苦笑する白霧は、一礼してから紫電の後を追いかけていった。
「……偽善ね」
紫電も紫電だが、白霧は白霧で、さすが紫電の側近をしているだけのことはあるなと六花は常々思っていた。
一見すると聖女のように、慈愛にあふれた女性のように見える。
実際に、白霧に助けられた、面倒を見てもらったと、分家ながら白霧を崇拝する者が一定数いる。
だが、彼女は六花が紫電にぶん投げられた時も、どんなに悪意に満ちた言葉を投げつけられても、最後の最後まで口を挟んでこなかった。
紫電が怖いからではないのは、先ほどの軽快なやりとりを見ていれば分かる。
当主以外で次期当主候補筆頭である紫電を唯一止められるのは白霧だ。
その気になればもっと早く止めに入ることはできたのに、白霧はずっと六花がなじられても傍観していた。
天鬼月は実力主義を掲げる者が多い。だからこそ、弱い六花に発言権がないのは仕方がないのかもしれない。それでも──。
慈愛に満ちた笑みを浮かべ、他者が傷つけられているのを黙って見ている。そんな女性のどこが聖女なのだろう。
慈愛などという言葉とは無縁にしか感じられず、六花には到底理解できそうにない。
六花はふたりが去っていった方向をじっとにらんだ後、当主の待つ別館へゆっくりと足を踏み出した。



