天鬼月当主の孫娘の(りっ)()は、ベッドで横になる三つ年下の妹の(かすみ)の頬に、冷えた()れタオルを拭うように当てる。

 肩ほどの長さの黒髪は汗で顏に張りついていた。

 普段から血色の悪い霞の顔はさらに青白くなっており、かなりつらい状態だというのが見て取れる。

 息苦しいのかつらそうに呼吸をする様子は、何度見ても慣れる気がしない。こっちまでが苦しく逃げ出したくなってしまうが、自分がそんなことをすれば霞がひとりになることをよく分かっていた。

 この一族の中で霞を守れるのは自分しかいない。その強い責任感が六花を奮い立たせ、今なおここに居続ける理由となっている。

 そうでなかったら、六花はとっくにこの家を出ているだろう。

 「ごめんね、お姉ちゃん……」

 「謝る必要なんてないのよ、霞。だから今は静かに眠っていなさい。しゃべるだけでもつらいでしょう?」

 「そんなことないよ」

 否定する表情に力はなく、無理やりに上げられた口角を見ると余計に痛ましく感じる。

 「確かに体調を崩すとしんどいけどね、お姉ちゃんが一緒にいてくれるから逆に役得かな?」

 えへへと笑う霞は今にも消えてしまいそうなほど(はかな)く、いつか手の届かないところに行ってしまうのではないかと、六花はいつも恐怖と戦っていた。
 その時、部屋の外から男女の話し声が聞こえてきた。

 「まったく、ご当主様も困ったものよ。一族の恥でしかない姉妹に、こんな館をお与えになるんだから」

 「まったくだ。姉はまだしも、妹の方なんか邪魔でしかないんだし、とっととくたばってくれればいいものを。ご当主様の孫娘だからって、無能どころか足を引っ張るしか能のない奴の面倒をどうして俺たちが見なくちゃならないんだよ」

 どうやら使用人たちが数人で会話しているようだ。

 「時間の無駄よねぇ。どうせ仕えるなら()(でん)様の館の方がいいわ」

 「それはさすがに望みが大きすぎねえか? 紫電様は次期当主候補筆頭だぞ」

 「そんなの分かってるわよ。ちょっと言ってみただけでしょう。なんにせよ、こんな呪われた子のいる陰気臭いところ以外だったらどこでもいいわよ。毎日の洗濯物すら汚らわしくてさわりたくもないのに。もし呪われたらどうしてくれるのかしら。ほんといなくなってほしいわ」

 仕事もせず陰口を(たた)く館の使用人に、六花はカッと頭に血がのぼった。

 自分がなんと嘲られようと構わないが、霞のことを引き合いに出すのは許せない。

 しかも、あれはわざと聞こえるようにしゃべっている。ずいぶんと()められたものだ。

 文句を言いに行こうと反射的に立ち上がった六花の手を霞が握った。

 その力は弱々しく、握るというよりは触れているだけだ。瞳も悲しそうに揺れている。

 それでも、霞の強い思いは伝わってきたため、六花は眉尻を下げる。

 「あなたは優しすぎるわ」

 「それはお姉ちゃんの方だよ。私は本当のことを言われただけだもん。気にしてないよ」

 ニコリと微笑む霞は、まるで天使のように慈愛に満ちていた。

 苦しいだろうに、いつも笑みを絶やさない霞が、誰かに対して文句を口にしているのを聞いた覚えは一度としてなかった。

 天鬼月の中において、六花と霞の立場の不安定さをよく理解しているからかもしれない。六花に対して、変に一族の者と(いさか)いを起こしてほしくないと考えている。

 一族の誰を敵に回そうと、霞の前ではどうでもいいというのに、霞はどんなに体調が悪かろうと六花の心配をしてくれる。

 そんな霞だからこそ、六花も現状をどうにかしたいと心を痛めていた。

 この肩身の狭い一族内で、霞を守る力が欲しい。

 けれど、今の六花にはそれは難しく、己の無力さがどうしようもなく悔しいのだ。

 霞の看病をしていると、先ほどまで陰口を叩いていた者とは別の家人がやってくる。

 見知ったその人物は、祖父であり当主の側近だ。あまり好ましい人ではなく、六花の表情は険しくなる。

 「六花様、ご当主様がお呼びです」

 表情ひとつ動かさず、淡々とした声色で報告にやってきた祖父の側近を、六花は不快げに見つめた。

 「霞の体調が悪いんですが……」

 「後になさってください」

 「霞の体調が悪いと言っているのが分かりませんか?」

 「ご当主様のお言葉以上の重要な用件がありますか?」

 冷たく突き放すような側近の言葉に、六花の内心では激しい怒りが渦巻いていたが、口には出さず眉間に深いしわを寄せるだけにとどめた。

 この家の者はいつもこうだ。こちらの事情などお構いなしで、その目には蔑みが含まれている。

 「お姉ちゃん、私は大丈夫だから行ってきて。ご当主様が優先だよ」

 本当は誰かそばにいてほしいだろうに聞き分けがよすぎて、六花は霞にすら(いら)()ちを感じる。

 とはいえ、もっと我儘(わがまま)を言ってもいいんだと諭したところで、霞は変わらず笑って六花を送り出すだろう。

 であれば、ここで押し問答をするだけ霞の負担になると判断した六花は、重い腰を上げた。

 「……分かりました。霞、なにかあったらすぐに連絡するのよ」

 「うん」

 近くのカーテンの影に隠れ、こちらをにらんでいる〝それ〟にそっと視線を向ければ、「きょほほ……」と小さく不気味な笑い声がかすかに聞こえた。

 とりあえずあれをそばに置いているから問題ないかと、六花は念話で『頼んだわよ』と伝えておく。

 すると、()かすように側近が声をかけてくる。

 「お早くお願いします」

 「分かってます」

 霞の顔色の悪さが見て分からないのか!と不満を覚える六花のそばには、常に手の届くところに黒薔薇(ばら)の刻印がされたひと振りの刀を置いている。

 黒薔薇は、天鬼月の家紋にも刻まれているほどに、天鬼月の象徴となる花だ。

 刀を手にして振り返ると、高い位置でポニーテールにした長く黒い艶やかな髪がさらりと流れた。

 六花の容姿ははっと息を呑むほどに美しく、その瞳は紅玉のように赤く輝いている。

 彼女のまとう雰囲気だけで、彼女が只人(ただびと)ではないことが察せられた。

 ここは天鬼月。あやかしの中でもっとも強く、美しいとされている鬼のあやかしの一族の本家だ。

 鬼のあやかしにはふたつの大家があり、鬼のあやかしはどちらかに属している。

 そのふたつの大家というのが、天鬼月と()(りゅう)(いん)だ。

 鬼龍院は表の世界で経済を回し、人間とあやかしの調和を図っている。

 逆に、天鬼月は裏の世界でひっそりと暗躍し、あやかしと人間との間に諍いが起こらないように秩序を守るのが役割だ。

 このふたつの家が表と裏から支えることで、人間とあやかしという異なる種族のバランスが保たれていた。

 人間とあやかしの共生において、天鬼月家の役割はある意味、鬼龍院よりも重い。

 そして六花は、天鬼月の当主、天鬼月暁(ぎょう)(てん)の孫娘だ。

 六花はいわば直系の姫だというのに、祖父の側近の態度は見るからに横柄だった。

 とてもではないが、仕える主家の一族に対する態度ではない。

 しかし、六花がこの側近に軽く扱われるのは今回に限ったことではない上、この者だけというわけでもなかった。

 それが悔しくもあり、同時に仕方ないとあきらめの気持ちもある。

 それもこれも、六花の力が一族に認められていないのが原因のひとつだ。

 霞の体調が悪いことを伝えれば、当主はきっと無理強いはしないだろうが、恐らくこの側近が許さない。妹のそばにいるという、六花にとってはなにより大事な用事も、当主の言葉が優先されるのだ。

 この家において当主である祖父の言葉は誰のどんなものよりも重い。

 さっさと用事を済ませようと、六花は当主の住まう館に早足で向かう。

 天鬼月は敷地の中心に本館があり、一族が集まっての会議や来客の対応に使われている。

 その本館から伸びる回廊が当主の館へとつながっている。

 当主の館に行くためには、必ずこの回廊を通らなければならない。

 敷地内には六花の住む館をはじめ、他の親族の館もあるが、外から直接当主の館に足を踏み入れるのは不敬だとされている。

 当主の館自体は塀などで囲われているわけではないので、本館からの廊下を通らず外から行くこともできる。

 しかし、それは玄関を通らずに庭からお宅訪問するようなもの。そんな無作法が許されるはずがない。よほどの理由がなければお咎めを受けてしまう。

 自分ひとりなら気にしなくとも、霞に害が及ぶ可能性を六花が取るわけがない。

 それゆえに遠回りしなければならないので、面倒なことこの上なかった。

 回廊へ差しかかると、護衛が番をしていた。

 当主の館へつながる廊下はここだけなので、誰が通ったか厳格に管理されている。

 護衛は六花の顔を見てから腰に差した刀に目を向ける。

 本来なら武器となるようなものを当主のもとへ持ち込むのは許されないのだが、六花の持つ刀だけは特別だった。

 この刀を否定する者は天鬼月にはいない。周りがどんなに六花に対し含むところがあろうとだ。

 護衛は一瞬だけ蔑んだ目を向けてきたが、いつものことと気にはしない。そんな視線をいちいち気にしていたら、この本家で生きてはいけないのだから。

 ただ思うのは、この場に霞がいなくてよかったということ。

 基本的に当主の館に呼ばれるのは六花だけだ。それは霞がまだ元気だった頃から変わらない。

 当主が持つただならぬ霊力を前にして、霞が恐れるのも仕方がないのだろう。六花も、泣くほど怖がる霞に対し、無理に会えと言うつもりはまったくなかった。

 霞が会いたくないなら一生会わなくても問題ないと思っているが、それについては面倒臭い人がいるのでいかんともしがたい。

 ようやく回廊を渡り終え、当主の部屋に入れば、上座である椅子に当主の天鬼月暁天が鎮座していた。

 白髪交じりの灰色の髪により五十代ほどに見えるが、あやかしが見た目通りの年齢とは限らない。

 紅玉のような赤い目は六花との深い血縁関係を感じさせる。

 孫なのだから当然ではあるが、それだけでなく六花と暁天はどことなく似た空気感を持っていた。

 孤高と言えば聞こえはいいだろう。しかし、六花は暁天のように周囲から崇拝されているわけではない。むしろ向けられている感情は真逆のものだ。

 ただその場にいるだけで周囲を黙らせる圧倒的な存在感は、きっと今の天鬼月の誰にも真似(まね)できやしないだろう。

 だからこそ、暁天は天鬼月において絶対的な権力を有している。

 六花を連れてきた側近が、部屋の脇に座っている他の側近たちにまぎれるようにして壁側に立ち控えた。

 「六花」

 「はい」

 重低音でややしわがれた声ながら、まとう霊力は暁天がまだ当主として健在であることを示している。

 暁天は、六花と同じ色の瞳で六花を見据えた。

 なにをしたわけでもない。それでも、心の奥底までも丸裸にするような暁天の眼差しは、他者を委縮させてしまう。

 ゆえに、霞は暁天を苦手としていた。

 ただ、六花は暁天の視線を受けながらも、ひるむ様子も目をそらすこともなく真っすぐに見返している。

 「結婚が決まった」

 なんら前触れなく、そんな言葉を聞いた六花は、思わず「は?」と素っ頓狂な声を漏らしてしまった。しかし、すぐに表情を引きしめたのは、当主のそばに控えている側近の不快げな顔を横目に見たからだ。

 少しぐらい見逃せばいいものを。直接文句を言ってこないだけマシと思おう。

 暁天は六花や霞の祖父ではあるが、世間一般で言う祖父と孫という気安い関係とはほど遠く、当主と部下のような上下関係がそこにはあった。

 ()れ馴れしく接するのを周囲が許さないというのが大きいかもしれない。

 加えて、暁天がまとう圧倒的な存在感がそうさせないのも理由のひとつではあるだろうが。

 「どういうことでしょうか、ご当主様」

 暁天を呼ぶ呼称も、はた目で聞いていても到底親しいものではない。

 どうしても一定の距離を置いてしまうのは、六花だけでなく他の孫たちも同様だ。

 孫どころか、子供たちですら暁天を『お父さん』ではなく『ご当主様』と呼ぶのだから、いかに天鬼月において暁天が当主として尊ばれ、立場が強いかを如実に表している。

 そんな、祖父よりも当主としての印象を与える暁天からの言葉に、六花は真意を探るような目を向けた。

 「言った通りだ。そなたと一龍斎の息子とを結ばせる」

 「一龍斎?」

 六花は目を見張る。

 確かめるように聞き返したものの、暁天が否定しないのを見る限り、六花の聞き違いというわけではないようだ。

 しかし、それはそれでなおさら意味が分からなかった。

 なにせ、六花の知る一龍斎とは、あやかしではなく人間の家系である。鬼である天鬼月とは、(はる)か昔より縁はありつつも決して交わらなかった一族だ。

 それを知らぬ暁天ではない。

 「どういうことでしょうか? あやかしと人間──それも天鬼月と一龍斎が結婚など、前代未聞です。それに、一龍斎の息子といいますと、もしや一龍斎氷()(さめ)のことでしょうか?」

 六花の記憶の中で、結婚適齢期の一龍斎の息子というとその者しか浮かんでこなかった。

 「その通りだ」

 暁天は多くを語らず威厳を持った声でひとつ(うなず)く。

 「どうしてそのような男と結婚という話になるのでしょうか? 一龍斎氷雨といえば、一龍斎でもっとも神の力を強く引いている男ではないですか」

 直接会ったことはないが、六花も名前と簡単な(うわさ)だけは知っている。

 一龍斎氷雨。あやかしでその名を知らぬ者はいない。

 鬼ですら恐れる力を持った人間だと。

 現在二十四歳の彼は、あやかしを取りしまる星影の中でも精鋭ぞろいである特務部隊で歴代最年少の隊長になった人だ。

 その実力はあやかしたちからも一目置かれていた。

 というのも、あやかしが表の世界に出て活躍するようになってから、一気にあやかしの犯罪も表面化するようになった。

 そこで、人間と共存するために、秩序を乱す愚か者をこれまで以上にきつく取りしまる必要が出てきたのだ。

 古来より、あやかしの世界において警察の役割を果たしていたのは、天鬼月だ。

 しかし、人間側でもあやかしを取りしまる公的機関が創設された。

 それが、一龍斎が中心となって創設し、代々指揮を執っている星影である。

 あやかしの中でもあまり知られていない話だが、一龍斎が神の血を引いているというのは、天鬼月の者の中では常識だった。

 遥か昔より神に仕えていた神子(みこ)の家系である一龍斎は、系譜をたどると神へと行きつく。

 にもかかわらず、近年は神子としての役割は果たさず実業家に専念している。

 けれどそれは、あくまで表に出ている一龍斎でしかない。

 表で動く鬼龍院、裏で動く天鬼月というように、役割分担がされている鬼の一族と同じく、いつからか一龍斎はふたつの流れを()む家へと分かれた。

 長い時の中でその力を自らの欲のために使い、表の世界で富と権力を手にしていった血筋と、神の血を絶やさぬようにしっかりと後世につなげ、神子の役目をひっそりと果たしてきた血筋。

 元をたどれば同じ血を持つが、決して交わらないまるでコインの表と裏のような関係となった。

 表に出て活動する一龍斎は神子としての力を失って久しいが、裏の一龍斎はいまだ神子の力を存続させ、人間の生活があやかしに脅かされないようにずっと目を光らせてきた。

 一龍斎氷雨は後者だ。

 しかも、神子の力は歴代の先祖と比べてもかなり強く、あやかしたちからも一目置かれている。

 ただ、星影に関して問題がないわけではなかった。

 罪を犯した者を取りしまるためとはいえ、対象をあやかし限定にしているので、あやかしたちがいい顔をするはずがない。

 それでも、人間と共生していく選択をした以上は、あやかし側にも歩み寄りは必要だった。

 あやかしの世界の裁定者とも呼ばれる天鬼月が星影との協力体制を発表したことでいったんは不満を抑えつけられたものの、案の定、大小さまざまな諍いがたびたび起こっている。

 その間に入って調整するのもまた一龍斎の役目である。

 もちろん、天鬼月も仲裁に入っているが、星影の隊員のほとんどがあやかしに対していい感情を抱いていなかった。

 中にはあやかしに害を与えられた者もいるので仕方ないのは分かる。

 それでも、すべてのあやかしが犯罪者であるかのような目を向けてくる様子を見れば、天鬼月の方とていい気分はしない。

 天鬼月はあやかしを取りしまる立場だが、あやかし側に立つあやかしなのだ。

 いつからか、星影に対して対抗意識を抱くようになり、歴代の当主はかなり苦労させられていたらしい。

 しかしそんな中で、一龍斎氷雨はあやかしにも友好的だという。

 そのためか、あやかしには氷雨のファンがいるほどだ。

 星影の隊員をよく思っていないはずのあやかしたちですら、氷雨については好意的な話しかしないのだから、いかに氷雨があやかしたちから受け入れられているかがうかがえる。

 一方で、実はあやかしを嫌っているという噂もたまに耳にする。

 とはいえ、その噂を口にしているのは紫電とその一部の取り巻きだけなので、六花も他の者も懐疑的だ。

 次期当主候補筆頭の紫電が騒いでいようと、鬼の一族の中ですら氷雨の人気は高く、はしゃぐ女性は多かった。

 それほどあやかしから信頼される人間というのも珍しい。

 六花は実際に会ったことがないので、事実は分からないが。

 「どうして急にそのような話が上がったのでしょうか?」

 「理由をわざわざ話す必要はあるか?」

 問いかけに問いかけで返す態度には、絶対的な立場にある者の傲慢さが感じられるも、天鬼月においての当主の発言力を思えばおかしなことではなかった。

 当主が結婚を命じた時点で六花に拒否権はないのだ。

 暁天が白と言えば黒でも白くなる。けれど、はいそうですかというわけにはいかない。今の六花に結婚をするような余裕などないのだ。

 「申し訳ございませんが、お断りさせていただきます」

 はっきりと口にした六花に、脇に控えていた側近たちがざわめく。

 「なんと無礼な」

 「ご当主様の決定に否を唱えるとは」

 「身の程をわきまえられよ」

 中には六花に対し直接苦言を呈してくる者もいるが、六花はすべて黙殺し、暁天にのみ目を向ける。

 「なんと言われようと意思は変わりません。先方もあやかしと結婚を結ぶなど嫌でしょうし」

 これ以上の問答は不要だと立ち上がった六花に、暁天は静かに告げる。

 「先方はすでにこちらへ来ていただいている。これからすぐに顔合わせだ」

 「はっ!?」

 感情を抑えたように淡々と話していた六花の表情が驚きに揺れ動いた。

 「しばし待ちなさい」

 「ご遠慮いたします!」

 今すぐここを離れなければと六花は急いで出ていこうとしたが、ひと足遅かった。

 木製の扉をすっと横に引いた瞬間、目の前に星影の制服を着た青年が立っていた。

 まるであやかしかと見まごうほどの整った容姿と、意思の強さを感じさせる金色の瞳は氷のような冷たさの中に澄んだ輝きを持っている。

 そして絹糸のような銀色の髪は長くもなく短くもなく、癖のないさらりとした質感はとても彼に似合っていた。

 思わず見入ってしまう中、六花の腰に差した刀がまるで脈打つように反応した。

 熱を帯びるような感覚に六花は戸惑う。

 「え……?」

 これまで感じたことのない刀の反応に驚き、再度男性に目を向けた。

 「あなたは……」

 お互い見つめ合う中、青年の背後から中年の男性の声が聞こえた。

 「氷雨、突っ立ってどうした?」

 中年の男性が発した『氷雨』という単語に、六花は目を見張る。

 氷雨に対し気安く話しかける男性は、どうやら親族のようだ。

 「氷雨って……」

 今まさに話題に上っていた人物なのだから、どうしてここにいるのかという疑問は愚問である。むしろ、やはり本人かという気持ちが大きい。

 こんな人間離れした見目をした人間など、神の血を引く一龍斎を置いて他にいるはずがない。

 一龍斎氷雨の姿を今まで目にしたことがなかった六花は、彼がこれほどに美青年だと知り驚いた。

 あやかしだと紹介されたら信じてしまうだろう。むしろ人間だと言われる方が違和感を覚えるほどに整っている。

 そんな常人離れした容姿を持つ氷雨は、六花に向けうっそりと(ほほ)()んだ。

 どうしてだろうか。まるで挑発されているような、(けん)()を売られているような気になってくる。そんな笑い方はしていないというのに……。

 なぜか、あやかしに対して好意的とはどうしても思えなかった。

 一見すると穏やかそうに見える笑みは、どことなく威嚇されているような感覚に陥った。六花より頭ひとつ分以上高い身長ゆえ、見下ろされる形になるので余計に迫力が増している気がする。

 それとは別にしても、彼の霊力の強さを六花は敏感に感じ取っていた。

 さすが神の血を代々つないできた一族といったところだろうか。しょせん人間だからと侮れる相手ではないのは一目瞭然だった。

 あやかしは人間以上に実力主義の塊で、自分より弱いと判断した者の言うことなど聞きやしない。

 だからこそ、六花は暁天の孫としてある程度の敬意は払われつつも、暁天のいない場所では軽んじられる。

 この無力感は、あやかしからも一目置かれている氷雨は感じたことがないだろう。

 氷雨が悪いわけではないのだが、なぜか対抗心が湧いてくる。

 そんな六花の心情を知らない氷雨は、穏やかな表情を崩さない。

 「あなたが天鬼月六花さんですか?」

 とても物腰が柔らかく紳士然としている。

 「はい、そうです……」

 すでに六花が結婚相手だと知っているのだろうか。でなければ六花の名前を呼んだりはしないはずなので、聞くまでもない。

 氷雨はにっこりと、それはもう天使のような微笑みを浮かべ、六花に顔を近づけてきた。浮世離れした美しい顔が目の前で止まると、それまでの笑みが怖いほどにすっと消え去る。

 「おい、俺は鬼の協力なんて必要としてないんだから、俺に()れるなよ。あれは叔父が勝手に決めたことだ」

 「……は?」

 嫌悪感に満ちた、どすの利いた言葉に、六花は一瞬理解が追いつかず(ほう)けた顔をした。

 あまりにも小さなつぶやきだったので、暁天や他の者には聞こえていなかったようだ。

 いや、氷雨はちゃんと聞こえないと分かった上で声量を落としていたように思う。

 「これはこれは、天鬼月殿。本日はよろしくお願いいたします。遅れてしまいましたかな?」

 氷雨とともにやってきた男性が、側近に案内されて暁天の前に座った。

 全体的に丸みを帯びた体格で、人のよさそうな雰囲気がよく伝わってくる。

 話し方も穏やかであり、六花よりずっと年上ながら人懐っこさを感じる。

 「いやなに、ちょうどその話をしていたところなので問題はありません、()(かた)殿」

 暁天が男性のことを日方と呼んでいるのを聞いて、記憶から呼び覚ます。

 確か、一龍斎の現当主が日方という名前だった。そして、氷雨の叔父にあたる人だったはずだ。

 「ご当主様……」

 六花は先ほど氷雨から投げつけられた暴言のこともあり困惑気味に視線を向ける。

 それは助けを求めているようであったが、暁天は気づかずに側近に命じた。

 「ふたりを隣の部屋へ」

 「かしこまりました」

 「ちょっ、ご当主様!」

 本気で先ほどの氷雨の言葉は聞こえていなかったようだ。側近に淡々と準備をさせると、まるで六花を追い出すように、持っていた扇を振った。

 「六花よ、隣室にてふたりで話をしてくるのだ」

 「まだ私は了承しておりません」

 「わしがそう決めた」

 「っ……」

 当主の顔でそう命じられてしまったら、天鬼月に属する者なら誰も否とは言えない。

 暁天は最初から六花が拒否すると分かっていて先手を打っていたようだ。

 側近から向けられる『早くしろ』という無言の圧に内心で苛立ちながら、六花は言われた通り先ほどいた部屋の隣の部屋に入った。

 てっきり側近も同席するのかと思いきや、さっさと出ていくではないか。

 普段は六花が当主の館に足を踏み入れる時は、余計なことをしないかと終始監視しているというのに、本当にいてほしい時にいなくなるとは何事か。

 しかも相手は一龍斎だ。いつも通り監視しろと叫びたい。

 六花は、憤りと困惑を覚えつつ氷雨に目を向けた。

 すると、氷雨は最初の時のように、おとぎ話に出てくる王子のごとくキラキラとした笑みを浮かべている。

 普通の女性ならその一発でノックアウトされそうな天使の輝きは、次の瞬間には地獄に堕ちた。

 「はっ、よりによってこの大事な家同士の契約に、天鬼月は有名な落ちこぼれを選択するとはな」

 「はあ?」

 キラキラしい王子が一気に地獄から来た悪魔に変貌した瞬間を目の当たりにし、六花も天鬼月のお嬢様という皮を脱ぎ捨て、あくまで淡々と冷たく言葉を叩きつけた。

 「なにか文句でも?」

 あからさまに見下した目を向けてくる氷雨に、六花も負けじとにらみ返す。

 しかし、身長差のせいであまり効果を与えているとは言いがたい。

 すると、氷雨は必死でにらみつける六花を見て……。

 「ふっ」

 そう、鼻で笑ったのである。

 あからさまに蔑んだその笑い方と眼差しに嫌でも気がついた六花は、ふるふると肩を震わせる。

 「今、笑いやがりましたね……。これは喧嘩を売られたってことですよね? もう買うしかないですよね? 買いましょう。買ってやります!」

 「はっ、やってみろよ。鬼ごときに遅れを取ると思うなよ」

 またもや口角を上げて嘲る氷雨に、六花の心は決まった。

 「その言葉、忘れないでください!」

 顔合わせの場でも絶対に手放さない刀に手をかけると、氷雨も懐から指の細さほどの小さな刀を取り出した。

 ちゃんと持ち物検査はしておけと憤る六花。一龍斎という特別な客人への配慮から検査がされなかったのだろうが、六花には関係ない。
 臨戦態勢に入った六花と氷雨を止める者はここにはおらず、このままでは血の雨が降りかねない一触即発の状態の中、側近が戻ってきた。

 どうやら、ただふたりきりにしたのではなく、来客のためにお茶を用意しに行っていただけのようだ。

 側近は六花が刀を抜いているのを見て目を見開き慌てる。

 「なにをされているのですか、六花様!」

 「なにってこの人が……」

 六花が指を差し氷雨に目を向けると、氷雨は困ったように穏やかに笑っていた。その手には先ほどまで持っていた武器はない。

 はたから見たら、六花が氷雨を襲おうとしているようにしか見えないだろう。

 「こ、こいつ……」

 思わず言葉使いを乱しながら肩を震わせる六花に、氷雨は健気な態度で謝罪し始めた。

 「申し訳ありません。どうやら私が彼女になにか気に障ることを言ってしまったようです。おわび申し上げます」

 「そんな、気に障ったからといって武器を手にするなど恥ずべき行いです。我らはケダモノではなく知性あるあやかしなのですから。こちらこそ申し訳ございませんでした」

 深々と頭を下げる側近の見えていないところで、氷雨は六花に向けて不敵に笑う。

 (は? なにこいつ、なにこいつ~!)

 六花は心の中で憤った。

 にらみつければ氷雨も側近にバレないようにらんでくるので、視線だけでバチバチとやり合う。

 あやかし嫌いという噂は紫電から流れてくる情報でしか聞かなかったので、勘違いしているだけだろうとまったく信じていなかった。

 それが、まさかこんなあからさまに敵意を向けてくるなんて誰が予想できただろうか。しかも言葉使いも悪いときている。
 とても名家・一龍斎の子息とは思えぬ口調だ。

 こんな者と結婚など冗談ではないと六花は部屋を静かに飛び出し、早歩きで暁天のいる部屋に一目散に向かうと開口一番に訴えた。

 「ご当主様、あんな奴と結婚しても仲良くなんて無理です」

 淡々としながらも早口な言葉から、六花の憤りが感じられる。

 「どうしたというんだ」

 さすがの暁天も、六花の剣幕に驚いている様子。

 「それはこちらの台詞(せりふ)だ。誰があやかしなどと仲良くするか。(むし)()が走る」

 後ろからやってきた氷雨が六花の背後から耳元で(ささや)いた。その低い声は嫌悪感に満ちており、六花を明らかに侮蔑していた。

 「こっちだって同じですっ」

 まるで毛を逆立てた猫のように威嚇する六花だが、毒づく氷雨は微笑んでいるため、はた目には一方的に六花が我儘を言っているようにしか見えないのだから、氷雨のなんと周到なことか。

 ふたりの様子に困惑する暁天と日方。

 「なにかあったのか?」

 「なにかあったどころではありません」

 荒らげてはいないながらも声の端々に苛立ちを隠しきれない六花の様子に、暁天は不思議そうにしている。

 六花が氷雨から受けた暴言をチクろうと考えていると、それまで微笑んでいた氷雨がわずかに顔をしかめて胸を押さえた。

 その反応に、近くにいた六花はいぶかしむ。

 「どうかしましたか?」

 「…………」

 氷雨はひと言も答えることなく、すぐになにもなかったように笑みを浮かべたものの、手に力が入りかすかに震えているのに六花は気がつく。

 本人は必死で取り繕っているようだが、近距離にいる六花にまではさすがに隠せはしない。

 急にどうしたのだろうか。ついさっきまであれほど悪態をつくほどに元気だったというのに。

 「ああ、あのっ!」

 すると、突然慌てたように日方が声をあげて立ち上がり、暁天をうかがう。

 「申し訳ありません。どうやら本日はタイミングが悪かったようですね。また日を改めさせていただいて構いませんか?」

 「分かりました。そうするとしましょう。とりあえず顔合わせという目的は達しましたから」

 日方の提案に、暁天も乗る。

 「では、失礼いたします」

 少々困ったように会釈する日方と、天使のように微笑む氷雨が一礼して部屋を出ていく。

 その時、日方は心配そうな目を氷雨に向けていた。