鬼姫~運命の契り~

 時雨は取り逃がし、怪我を負った氷雨を連れて館へ戻った。

 あらかじめ連絡を入れておいたが、暁天は帰ってきた血まみれの六花と氷雨を見て目を丸くしていた。

 そして、暁天により氷雨の怪我が治される。

 六花すら血みどろにするほどの出血がありながら、氷雨は暁天が診た時には血も止まっており、驚異の回復力を見せた。

 血の量を見て、暁天に頼んでも助かるのは難しいかもしれないと思っていた六花は度肝を抜かれる。

 これもまた神の血によるものなのだろうか。

 「血と言えば、あの時はちゃんと宵闇を使いこなせている感覚があった」

 どうしてかと疑問符を浮かべる六花は、ベッドで寝ている氷雨に目を向けた。

 少々顔色が悪い気もするが、とてもあれだけの重傷を負った人間の顔ではない。あやかしならまだしも、彼は人間なのだから。

 しかし、彼の血を飲んだ直後に感じた変化は、六花には見過ごすことのできないものだった。

 初めて宵闇を使えた。

 最大限使いこなせたかと言われたら嘘になってしまうが、初めての感覚だったので大目に見てほしいところではある。

 それでも宵闇の主人として力を扱えたのは間違いない。

 「神の血……?」

 六花は顎に手を当て考える。神の血を引く一龍斎ならば、血そのものに不可思議な力が宿っていてもおかしくはない。

 ただ、館に帰ってから宵闇を同じように使おうとしたがその時にはもうできなくなっていた。

 つまり一時的なもののようだ。せっかく宵闇の力を扱えるようになったと喜んだ矢先だったのでなおさら惜しい。

 しばらく氷雨の様子をうかがっていると、(うめ)き声とともに顔が苦しそうに歪む。

 「ぐっ。くっ……」

 なにかを必死で耐えるその様子に、六花は氷雨の額ににじんだ汗を慌ててタオルで拭う。

 「急にどうしたの?」

 とりあえず医者を呼ぼうと思ったが、どこからともなくぬっと現れたナギによって動きが止まる。

 「びっくりさせないでよ、ナギ!」

 「きょほほ、これぐらいで驚くなんて精進が足りないわね」

 「霞はどうしたの?」

 「ぐっすり眠っているわ。それより、この男、すっごい霊力溜()め込んでるわね。六花が宵闇を扱えたのはこれのおかげじゃない?」

 ナギに言われてようやく気がつく、氷雨の中にあるあふれんばかりの強い霊力は、とうてい人の身に抱えきれるようなものではなかった。

 「これのせいで苦しんでるのかしら。人間は本当に弱いわねぇ」

 しみじみとするナギには、感心こそすれど心配といった感情はない。

 会話すらしたことのない相手なのでそれは仕方がないが、苦痛に歪んでもなお整った顔が崩れない氷雨の顔をじっと見ながら、ナギはにいっと笑った。ろくでもないことでも思いついたに違いない。

 「ねえねえ、六花。こいつの血で宵闇を使えるようになったなら、こいつの血を全部吸い尽くしたら宵闇を完全に扱えるようになるんじゃない?」

 「ナギ、あなたって子は……」

 「きょほほほ。名案でしょ。褒めてくれて構わないわよ」

 「誰が褒めるのよ。一龍斎と全面戦争になるでしょうが。彼は跡取りなのよ」

 ただでさえ大怪我をして血を大量に流した後だ、吸い尽くしたらさすがに神の血を引く一龍斎でも死んでしまう。

 天鬼月の六花が氷雨を殺したら、戦争待ったなしだ。そんな危険な橋を渡れるはずがない。少々誘惑に負けそうになったのはナギには内緒だが。

 「えー」

 「えー、じゃないわ。でも、確かにこの霊力は彼には大きすぎるわね。肉体がついていけていない」

 六花はじっと氷雨の寝顔を見ながらおもむろに氷雨の腕にかぶりつく。そして、慎重に血を飲んだ。

 事務的に淡々とされるその行動は、六花の中にある欠けたものを補ってくれるような不思議な感覚がした。

 血を飲んではいるが、実のところ血に含まれる霊力を摂取しているにすぎないので、口に含む量はさほど多くない。

 それでも、流れ込んでくる膨大な霊力とその強さに六花は驚く。

 見た目以上にかなりの力を溜め込んでいたようだ。人の身では苦しむはずである。

 その後も、(とが)った歯を立てて血──霊力を摂取していると……。

 「……なにしてる」

 ふと聞こえてきた怒りのにじむ低い声にびくりとする六花は、慌てて口を離した。

 「貴様、俺になにをしている」

 「いや、違いますからっ! あなたのために必要だと思って」

 慌てて弁解すればするほど怪しく見えるのはどうしてだろうか。

 刺し殺しそうな眼差しでにらまれ、六花は早々に話題を変えるべく氷雨に質問を投げかけた。

 「それより体調はどうですか? だいぶ抜いたんですけど」

 最初の険悪な出会いが嘘のように、六花からは氷雨を案じる言葉がするりと出てきた。時雨から守ってもらったからだろうか。

 六花に問われて初めて体調を気にした氷雨は、体をぺたぺたさわり自身の変化に驚いている様子。

 「……なにをした?」

 険しい顔で六花に聞き返した。

 「怪我はご当主様が治してくださったわ。けどさっきから霊力が暴れているようだったから吸い取っておいたんです。必要に駆られてなわけで、決して害そうとしたわけではありませんからっ!」

 そこは強調しておかねば、今後の天鬼月と一龍斎の関係にヒビが入りかねない。

 とはいっても紫電や一部の鬼とはすでに険悪らしいが、今は置いておく。

 「吸い取ったというのは、今、腕を食っていたことか?」

 「食べていたんじゃなくて、血を吸ってたんです!」

 「似たようなものだろう」

 「まったく違いますから!」

 これはかなり誤解が生じているなと、六花は警戒する氷雨に説明する。

 「代々、天鬼月の直系には血を介して相手の霊力を取り込む能力があるんです。吸血行為は人間から忌避されるので、今はあまりされていませんけれど、できないわけじゃありません。その能力であなたの血を吸うのと同時に霊力を取り込んだんです。人間の身には危険なほど、あなたは強い力を溜め込んでいたみたいでしたから。少しはよくなったんじゃありませんか?」

 氷雨は六花の説明に納得したようだ。

 「ああ、これほど体調がすっきりしているのは久しぶりかもしれない」

 思わずおやっと反応を意外に感じるほど、氷雨の声から険が消えた。

 聞くならば今かと、六花は切り出す。

 「ねえ、あなたは時雨と知り合いなんですか?」

 「時雨……」

 途端にいろいろ思い出したのか、穏やかだった氷雨の眼差しが鋭くなる。

 「確かお前はあの男のことをそう呼んでいたな。お前こそ知り合いなのか?」

 「質問しているのはこっちなんですが?」

 「助けてやっただろ。先にこっちの質問に答えろ」

 「その言葉、そっくりそのままお返します。さっきまで呻き苦しんでいたくせに、誰のおかげでそこまで元気になったと思ってるんですか?」

 バチバチと火花を散らすふたりの間に、「きょほほ」と不気味な笑い声が聞こえた。

 「ねえ、あなたが六花の旦那になる男かしら?」

 ぬっと目の前に現れたナギに、氷雨はびくっとして身を引く。

 あの氷雨を驚かせるほど、突然のナギは破壊力抜群らしい。よくやった、と六花は心の中で拍手喝采だ。

 今度から話をする時はナギを同席させようと決意する六花は、即座にナギの言葉を否定する。

 「違うわ。あんなのご破算よ!」

 「あら、ご当主様の命令でしょう?」

 「命令にも従えることとできないことがあるわよ。それよりも、時雨の話が先!」

 今は結婚の話よりこちらが重要だ。

 話すなら時雨の件が先だと目に力を込めると、あきらめたように氷雨が口を開く。

 「あいつは俺の(かたき)だ」

 そう言葉にする声には、ぞっとするほどの深い憎しみが含まれていた。

 「どういうことですか?」

 「俺はあの男に両親と妹を殺された」

 六花は血の気が引く。

 「あなたも、なの?」

 唖然としながら問う六花に、氷雨の表情も変わる。

 「も、とはどういう意味だ。まさかお前……」

 「私も両親をあの男に殺されました。そして、妹はその際に呪われていつどうなるか分からない。だから呪いを解くためにずっと時雨を探していたんです。本当は時雨自身に解呪させるのが早道だったのですが、そんな簡単な相手でないことは分かっていました」

 そもそも、言って解呪してくれるなら逃げやしないだろう。

 「せっかく機会が巡ってきたと思ったのに、やっぱり宵闇をちゃんと扱えない私ではかなわず……」

 目の前にいるのに手が届かない。霞の呪いを解ける唯一の男がそこにいたのに。

 「でも、あなたの血を飲んだ時は宵闇の力を引き出せたんですよね。不思議です。その時に始末できていたら霞の呪いも解けていたのに……」

 己の無力さを痛感させられ、悔しくてならない。

 ぐっと手を握りしめる六花を見て、氷雨は落ちついた表情に戻っていた。

 「あの男の名前を知っているということは、どの家の者か知っているのか?」

 話すべきか迷った。しかし、氷雨が目的を同じとしているなら、知りたいに決まっている。

 あの男に向けた氷雨の憎悪に満ちた目は嘘ではないと思ったからこそ、六花は表には出ていない情報をつい話してしまった。
 「あれは天鬼月の鬼です。そして、宵闇の先代所有者でもありました」

 六花は常に持ち歩く美しい黒薔薇の刻印がされた刀を手で撫でた。

 「天鬼月の鬼だと?」

 地を這うような声は、底知れぬ怒りを感じる。

 それもそうだろう。彼の言葉が本当なら、家族を殺した元凶の親族が目の前にいるということなのだから。

 「あなたがどう思うか、それを止める気はないですが、もし天鬼月に被害の責任を追及するなら、せめて私があの男を討ってからにしてください。今、おじい様に失脚されると困るんです。私から宵闇を取り上げようとする一族の者は多く、取り上げられたら唯一あいつに対抗できる(すべ)を失ってしまうから」

 氷雨の視線が宵闇へと移る。

 「あいつもそのような話をしていたな? それほど特別な刀なのか?」

 「宵闇は遥か昔、神から下賜された破邪の刀。あやかしの中で最強とされる鬼の中でも、ご当主様以上の力を持っていたあの男を討つとしたら、宵闇の力以外では不可能なんです」

 暁天がいるおかげで今は六花の手の内にあるが、宵闇の主として力不足と頻繁に陳情される現状で、守ってくれる暁天がいなければすぐにでも一族によって宵闇は奪われる。

 大事な霞の、唯一の命綱を手放すわけにはいかない。

 「とはいっても今の私じゃちゃんと使ってあげられないのが悔しいんですけどね」

 「宵闇という神器の話は軽く伝え聞いたことがある。なるほど、それがその神器か。だが、俺の血があれば使えたのだろう?」

 「確かにあなたの血をもらった時は不完全ながら使える感覚がありましたけれど、そもそもあなたはなぜ自分の血を飲ませたのですか?」

 まるで、そうすれば宵闇を使えると知っていたように。

 実は今も宵闇と深くつながっている感覚がしていた。おそらく先ほど氷雨の血を飲んだからだろう。

 「勘だ」

 即答したかと思いきや、発したのはそんなひと言だけ。

 「か、勘?」

 六花もその返答は予想外で声が裏返った。

 「それがどんなものかまでは知らなかったが、ただの刀ではないことは見れば分かる。神の気を感じたしな。なら、俺の中にある神の血が役に立つかもしれないと思っただけだ。薄れていても神の血は強力だからな。まあ、それが神から与えられた神器と聞いて納得だ。俺の中にある神の血が力を引き出したのだろう」

 氷雨は胸に手を当てる。薄れてもなおその身を食らいつくさんとする、神の血の強さを知っているからこそなのだろうが、六花としてはたまったものではない。

 そんな一か八かみたいなことをして、外れていたらどうしていたのだろうか。いや、あの時は可能性が少しでもあるなら賭けに出るしかない状況ではあったが。

 「神の血を引く一龍斎は昔から直感が鋭い。陰陽師などよりよほどな。俺はその血に従ったにすぎない」

 「外れていたらどうしたんですか?」

 「俺を責める口ぶりだが、そもそもなにも知らずに神器を持っている方が問題ではないか?」

 その声色は六花を馬鹿にしているというよりはあきれている。

 「文献がほとんどないんです」

 まさか一龍斎の血が有効だなど、思わないではないか。たとえ知っていたとしても、両家の関係性を考えると、おいそれと血をくださいなどお願いできるはずがない。

 あの状況だったからこそ可能だったのだ。

 「せっかく宵闇を扱える方法が見つかったと思いましたのに、一龍斎の血が必要だなんて……」

 「ならば今後も俺の血を飲めばいい。俺もその方が調子がいいしな」

 「そう軽く口にしますけど、簡単な問題ではないと、あなたがよく分かっているでしょう。いつも一緒にいるわけにはいかないでしょうし」

 天鬼月と一龍斎の間には見えない高い壁が存在する。頻繁に会っていたら、お互い一族の中で白い目で見られてしまう。ましてや、血を吸うためとあらば余計にだ。

 「だったら、結婚の話を進める」

 「は?」

 「きょほほー」

 ぼかんとする六花は、意味を理解するのにしばしの時間を要した。即座に理解し喜ぶナギとは対照的である。

 「……はあ!?」

 「一時的な共闘のためだ。俺もお前もあいつを倒したい。俺にはあいつを討つ力はないが、お前にはその刀がある。そして俺の血があればその刀を扱える。利害関係は一致しているはずだ」

 それはもう嫌そうに、しかし他の方法がないので仕方ないとあきらめと悔しさを含んでいる様子の氷雨に、六花も物申す。

 「それって結婚する必要ありますか?」

 結婚を望んでいないのはお互い様だと、言外に告げた。

 「お前のそばにいるための理由が必要だろうが。ただでさえ一龍斎と天鬼月の鬼は良好とは言えない仲なんだからな。それに、この結婚は両家当主の合意のもとで結ばれている以上、簡単にご破算にできるものじゃない」

 いや、初対面の時の氷雨は破談にする気満々だったではないか。

 あれだけ威嚇しておいて今さら?と思ったが、六花は口にしなかった。

 「どうする? このまま手をこまねいているか?」

 六花はわずかに考えたが、確かに彼の協力は大きな力になるだろう。鬼からすら恐れられるぐらいなので、実力も保証済みだ。
 「……ご当主様に報告に行きましょう」

 六花の答えに氷雨は不敵に笑った。