六花は対象者を捕縛すると、天鬼月の分家で構成させた下部組織に引き渡す。
「それは本家に運んでください」
「かしこまりました」
六花に命令されるのは不本意この上ないだろうが、六花が本家直系であり、彼らの上に立つ立場であるのは変わらない。
周囲の目など気にしてはいられないと六花が構わず指示を出していた時、その場が不意にざわつく。
何事かと目を向けると、そこには先日顔合わせをした一龍斎氷雨の姿があった。
そちらも任務の途中なのか、対あやかしの国家機関・星影の制服を着ている。他に隊の者はおらず、どうやらひとりのようだ。
氷雨は居並ぶ鬼たちを目にし、ほんの瞬きにも満たない一瞬顔をしかめるのを、六花はしっかりと確認した。
しかし、他の鬼は気がつかなかったようで、一気に浮き足立つのが分かる。
「どうやらひと足遅かったようだ」
夜の闇の中にあってなお、輝くような笑みをたたえる氷雨に、鬼たちはざわめく。
「うわっ、一龍斎氷雨さんだ」
「こんなところでお会いできるなんて感激~」
などと、鬼でありながら本家直系の姫である六花よりも氷雨の方に愛想がいいというのはどうなんだと、六花は内心でツッコむ。
とはいえ彼らに愛想よくしてもらいたいわけではないので別に構わないのだが、鬼としての矜持はないのかと文句は言いたい。
「あなたが責任者ですか?」
気のせいでありたいが、『お前程度の弱い奴が責任者とは笑い種だな』と副音声が聞こえてくる。
被害妄想と言われようと確実に嘲られている気になるのだから仕方ない。
天使みたいに人畜無害な微笑みを浮かべているのに喧嘩を売られているように感じるとは、いったいどういうことなのか。
なので、どうしても棘のある言い方になってしまう。
「そちらはずいぶんと遅いご登場ですねぇ。仕事に手を抜いているんじゃありませんか?」
氷雨の登場にきゃあきゃあ騒いでいた鬼たちが非難の目を向けてくるが、六花の知ったことではない。彼らにどう思われようと今さらだ。
「それは申し訳ありません。やはり天鬼月の情報力は素晴らしいですね」
まるで後光がさしているような慈愛に満ちた微笑みも、六花から見ると嘘くさく感じる。
しかし他の鬼たちには効果てきめんのようで、男女問わず頬を染めた。
特に女性陣はうっとりとした眼差しで釘付けとなっており、確実に今が任務中であると忘れているだろう。
「もう対象者はこちらで捕らえましたので、おかえりになって結構ですよ。後はこちらで処理いたします」
敬語ながら嫌みたらしく聞こえるように話すと、わずかに眉がぴくりと動いた。
他の者が気づかぬほど一瞬だけちゃんと苛立たせられたようなので、六花は満足して対象の男を部下の鬼に任せて夜の闇に消えていこうとした。しかし……。
「あなたはどこに行くつもりだ?」
「どこだっていいでしょう? あなたには関係ありません」
「そう言わずに。危険ですよ。……鬼にふらふらと出歩かれてはこちらの迷惑だ」
いつの間に近づいていたのか、それまでの丁寧な話し方を捨て去って、六花の耳元でどすの利いた声色で言葉を吐く。
肩を掴まれたが、六花は勢いよく振り払った。
「あなたに私の行動を制限する権限はありません」
両者がにらみ合うその時、腰にさした宵闇がどくりと脈打つように反応した。
この刀がこんな反応を見せたのはこれが二度目。
氷雨と初めて会った時も宵闇は似た反応を見せたが、今回はまるで六花になにかを知らせるような警戒が伝わってきた。
「これはまさか……」
驚愕に彩られた六花の表情は誰の目にも緊張しており、氷雨はそんな六花を見ていぶかしげにする。
自分ではない誰かと共鳴しているその感覚に、六花はすぐに宵闇の反応の意味を理解する。
「あいつが……、あいつが近くにいる!」
弾かれたように駆け出した。
「おい!」
氷雨の呼びかけで、なぜか彼までが後をついてきていることに気がついた六花は驚く。
「どうしてついてくるんですか!」
「お前が突然走りだすからだろう。そんな殺気を振りまくようなあやかしを放置できるか」
「それはご苦労様です。これまで取り繕っていた化けの皮もはがれていますよ。まあそれはどうでもいいですが、ついてこないでください。……殺されるかもしれませんよ」
冷たく突き放す六花の不穏な言葉に、氷雨は息を呑んだ。
「なおさら追いかけないわけにはいかないな」
それは星影の者としての使命感からなのか、はたまた六花が嫌いだからか分からないが、氷雨に気を回している余裕は六花にはない。
もしかしたらこれが最後のチャンスかもしれないのだから。
苦しそうにベッドで眠る霞の姿が六花の脳裏をよぎる。
宵闇に誘われるようにして走り続ける鬼の六花を、氷雨は問題なくついてくる。人間ではありえない身体能力は、やはり彼の中に流れる神の血がそうさせるのだろうか。
撒いてやろうと思うのにどうしてもできず、六花は早々にあきらめた。
一応警告はした。それでもなおついてきたのは氷雨なのだから、もしついてきた結果、死ぬことになっても自己責任である。
なんて考えているなど、氷雨は知らないだろう。
六花は氷雨から宵闇に意識を集中させていると、覚えのある霊力の残滓に気がついた。
「あいつの気配……」
忘れようとも忘れられない、この懐かしくも憎らしい霊力。
速度を落とし、より気配の強い方へと歩いていくに従い、どくどくと心臓が激しく鼓動する。
緊張と高揚がない交ぜになったかのような感覚に、六花の手のひらにじとりと汗がにじんだ。
「やっと……、やっと見つけた」
先ほどまでどんなに走っても息切れすらしていなかったのに、自然と呼吸が荒くなる。
そうして霊力をたどっていけば、それに伴って強い血の臭いを感じ取った。
建物の隙間を縫うように走り、角を曲がった時、袋小路になったビルの上にその男はいた。
黒髪に、赤黒い瞳。耳には特徴的な黒薔薇のピアスが揺れている。月を背にした男は不気味なほど美しく、六花に気づくと蠱惑的に笑った。
六花は憎い憎い男の名前を叫ぶ。
「時雨!」
「ああ、六花じゃないか。久しぶりだ。会いたかったよ」
まるで昔馴染みに再会したようにぱっと晴れやかで嬉しそうな顔をする時雨に、六花は歯噛みする。
自分と時雨は到底笑顔でおしゃべりをし合うような仲ではない。
いったいどんな気持ちで自分に笑いかけてくるのか、六花の中で抱えきれない怒りが噴き出し、紅玉の目をいっそう鮮やかにする。
にらみつける六花の姿すら楽しむような時雨は、六花から視線を動かした。
「ああ、六花だけじゃなく、一龍斎のガキも一緒じゃないか。ふたりに会えるなんて、今日はとってもいい気分だぁ」
まるで酒を飲んで酩酊しているかのようにうっとりとする時雨に対し、氷雨が激昂する。
「ほざけ!」
その激しい怒りと憎しみは、六花や他のあやかしに向けていた嫌悪感とはまた違う、もっと色濃いものだった。
知り合いなのかと驚いて、六花は氷雨に目を移す。
氷雨から憎悪の感情を向けられても、時雨の表情から笑みが消えることはない。
「いいね、いいねぇ。憎くて仕方がないって表情だ。僕を殺したいかい? だが、君には無理だ。僕を殺せるのは唯一、六花が持っているその宵闇だけだからね」
氷雨ははっと息を呑んで六花を振り返る。その手に持つ宵闇に視線が釘付けとなっており、六花はたじろいだ。
「俺に復讐したいなら六花の手を借りることをお勧めするよ~」
「ふざけるな! 誰が鬼の手助けなんか──っ! くあっ……」
突然胸を押さえて苦しみだした氷雨は、立っているのもつらそうにその場にうずくまった。
「ほらほら、無理するから~。君は弱いんだからさあ。しょせん人間の器に神の力は強すぎるんだよ」
「だ、大丈夫ですか?」
六花は心配そうに氷雨に手を伸ばすが、触れることを許さないと告げるように振り払われた。
「ぐっ……」
苦しんでいる理由が分からないだけに、どう対処していいか判断がつかない。
持病でもあるのか、時雨はなにか知っている様子。
いろいろと聞き出すことが増えたと時雨に目を向ければ、今にもその場から逃げていきそうで、六花は焦りをにじませた。
「待ちなさい! 霞の呪いを解いてちょうだい!」
霞に死の呪いを与えた、殺したいほど憎い存在。ずっと探していたが、手がかりひとつ見つけられずにいた。
この機会を逃したらもう次はないかもしれないので、逃がすわけにはいかないと六花は必死だった。
「いいよ~。……なんて、僕が素直に受けると思う?」
どこまでも人を小馬鹿にした物言いに、六花の苛立ちは増していく。
「あはは、六花は分かりやすくてかわいいなあ。昔のまんまだ」
「ふざけないで!」
悔しげに表情を歪ませるのは、時雨が決して呪いを解くつもりはないのだと悟ったからである。
あの呪いは呪った本人にしか解けない以上、時雨にその意思がないのなら、殺すしか方法はない。
けれど、六花はこれまで誰かの命を奪ったことなどなかった。それは任務においても同じである。どんな凶悪なあやかし相手でも、最後の一線は守り続けていた。
だが、そんなふうに躊躇している間も霞は苦しんでいるのだ。
やるしかない。霞を守るためになんでもすると自分に誓ったはずだと、六花は何度も己に言い聞かせる。
そうして霞の顔を思い浮かべれば、驚くほどあっさりとためらいは消え去った。
静かな殺意が瞳に宿り、目の前の時雨に向けられる。
宵闇を鞘から出して構えた瞬間、六花が踏み出すより先に時雨が六花の前に躍り出たかと思えば、手に霊力をまとわせ攻撃を仕掛けてくる。
六花はそれをかろうじて宵闇でさばくので手いっぱいだった。
「くっ!」
「ほら、どうしたんだ? 僕を殺すんじゃないのか? 早くしないと妹が死んじゃうかもねえ」
愉悦を浮かべ、六花との戦闘をまるでダンスでも踊るように楽しむ時雨からは、圧倒的な実力差と余裕が感じられた。
鬼であっても一族から落ちこぼれと蔑まれてきた六花には到底及ばぬ高みから見下ろされている感覚に陥る。
次第に壁側へと追い詰められていき、目前に迫った時雨に宵闇を振り下ろしたが、手を掴まれあっさりと防がれてしまう。
身動きの取れない六花は、時雨のあまりに強い握力に顔を歪ませる。
「ねえ、六花。宵闇に選ばれながら使いこなせない憐れな六花。一族からないがしろにされて、それでも天鬼月にいる必要ははたしてあるのか?」
「なにが言いたいんですか?」
時雨はさらに顔を近づけ、六花に甘く囁く。
「君だけは助けてあげてもいいよ。無様で負けず嫌いの六花。君が僕のものになるならね」
時雨に顎を掴まれ、指が六花の唇をなぞる。
「ねえ、天鬼月なんて捨ててしまいな。あんな腐った家にしがみつく必要がどこにある?」
睦言のように甘美な声は、六花の耳にねっとりと絡みつくように入り込んでくる。
確かに六花の天鬼月での待遇はお世辞にもいいとは言えない。
宵闇に選ばれながら使いこなせない六花から宵闇を取り上げるべきという声も少なくなかった。それをどうにか暁天の力で抑え込んでいる状態だ。
いつ、強行しようとする者が現れてもおかしくない。そうなれば確実に霞を救う手立ても、六花が天鬼月で力を認められることもなくなるだろう。
「私だって天鬼月の連中に対しては胸糞が悪く感じています」
「それなら──」
「けど、あの家には霞もおじい様もいる。霞だってまだ頑張って生きようとしているのに、どうして姉の私が捨てることができるというんです? 私は約束した! お父さんとお母さんに霞を守ると」
そうふたりの墓前に誓ったのだ。
「だいたい、私から両親を奪っていった諸悪の根源がなにを言うつもり!? お前がいなければ今も私はあの家で幸せに暮らしていたわ。それをめちゃくちゃにしたのはお前じゃない!」
六花は唇に触れる時雨の指を力いっぱい噛んだ。
時雨は一瞬痛みに表情を動かしたが、すぐに笑顔に変わり、その目はこれまで以上に爛々と輝いていた。
六花が憎しみを込めて遠慮なく歯を立てたせいで、皮膚が破れ時雨の血の味が口の中に広がる。
吐き気をもよおす不快感とともに、時雨の強い霊力を血に感じた。それはあやかしにしては清廉な霊力が含まれており、違和感を覚える。
「ああ、残念だよ、六花。君とはうまくやれると思ったのに」
至極残念そうに憂いを浮かべる時雨は、六花から宵闇を奪い取ると、六花の心臓に向け勢いよく突き刺そうとしてきた。
逃げる間もためらいもないその行動に、六花はまるでスローモーションを見ているかのように錯覚し、己の死を強く感じる。
しかし、次に襲ってきたのは痛みではなく、柔らかい温もり。
目の前で血しぶきが舞うが、それは六花のものではなく、六花をかばった氷雨の血だった。
愕然とする六花は、震える手で氷雨を抱きとめる。六花の手に血がべっとりとつき、激しい衝撃と混乱で声が震えた。
「な、なにしてるんです? あなたは鬼が嫌いなんじゃなかったんですか? 私を助けるなんてどうして……?」
まさか氷雨が自分をかばって怪我をするなど思いもしなかったため、六花はうまく頭が回らない。
問いかけられた氷雨は、ふっと自虐的に笑う。
「さあ、なんでだろうな……」
力ない声が暗い夜空の下に落ちる。
急所は外しているようだが、出血が多い。六花は治癒しようとするが、霊力は強くとも使いこなせない六花に治癒の力は扱えなかった。
「ぐっ……」
痛みに苦しむ氷雨からどんどん体温が奪われていくのが伝わり、焦燥感が募る。
いったいどうしたらいいのか。
「ち、治療を……」
果たして間に合うのか?
電話で助けを求めようと思った時。
「おっと、すごいすごい」
その場にふさわしくない明るい声が響き、六花ははっとする。
氷雨の怪我に気を取られてしまっていたが、まだ時雨がいたのだ。
目の前にいる時雨の手には宵闇が握られており、宵闇とともにある姿が六花よりもしっくりきて違和感がない。
それもそのはず。宵闇の先代所有者はこの男なのだから。さらに時雨の力は、現当主・暁天を上回るほど強い。
「宵闇を返してください」
「これはもともと俺のなのに?」
「っ! 今は私が宵闇の主人です!」
「使いこなせていないくせに主人とはよく言えたもんだ」
まぎれもない事実を突きつけられると六花はなにも言い返せない。
「まあ、でも確かに俺が持っていた時の宵闇とは違うみたいだ」
時雨の手の中でカタカタと震えだす宵闇は次の瞬間、時雨を拒絶するように手を弾き、六花のもとに自ら舞い戻ってきた。
慌てて宵闇を握る六花。しかし、宵闇がちゃんと自分を選んでくれたことにほっとしたのもつかの間、時雨と怪我をした氷雨を交互に見ながら選択を迫られる。
時雨を捕えるため戦うべきか、時雨をあきらめ氷雨の治療を優先するか。
この期を逃したら次に見つけるまで霞の体がもつか分からない。かといって、氷雨の怪我はすぐに治療しなければ間もなく彼は命を落とす。
ふたつの命の天秤をどちらに傾けていいのか、六花は迷う。
「さて、俺はそろそろ行くとするかな。楽しかったよ、六花。それと、一龍斎のガキも、もし生きていたら遊んであげる」
「あ……」
この時になっても決断できない六花の紅玉のような瞳が揺れる。そこへ、小さくも力強い声が耳に入ってきた。
「おい、お前の刀ならあいつを殺せるのか……?」
振り絞る声に六花が視線を落とすと、氷雨が痛みをこらえ顔を歪めながらじっと六花を見つめていた。
「できます、けど……私は宵闇が使いこなせないんです」
悔しい。そう言い訳するしかできない自分がふがいない。
目の前に、手の届くところに元凶がいるというのに、六花の今の力では到底追いつけないと、先ほどの一瞬のやりとりで理解させられてしまった。
「なら、あきらめるのか?」
「それは嫌!」
迷いが吹っ切れたようにそれだけは強く否定した。
あきらめるということは霞の死を望むのと同義だ。そんな望みなど誰がするものか。
六花は意思を込めた眼差しで宵闇を強く握りしめる。
すると、氷雨は負傷して血がしたたる腕を六花の口元に無理やりくっつけた。
「むぐっ」
なにするんだと非難の目を向けると、なぜか氷雨は不敵に笑っていた。どうしてこの状況でそのように笑うのか理解できない六花に、ただひと言告げる。
「血を飲め」
意味が分からないと硬直している六花に氷雨が血のついた腕をぐいぐい押しつけてくるので、六花はただただ血の匂い以外感じられない。
「さっさとしろ!」
怒鳴られようやく言う通りに血を舐めた六花は、氷雨の血が体内に入ると同時に不思議な感覚に陥った。どくりどくりと宵闇を持つ手に霊力が集中し、これまでにない宵闇との一体感を覚える。
腕を下ろした氷雨が命令するように発した。
「刀を振れ」
言われるままに、いや、言われずとも、宵闇がそうしろと伝えてきているような気がした。
刀を振り切ると、これまでにない宵闇の圧倒的な力が一本の線が通ったように六花の霊力と共鳴して放たれる。
驚いた顔をする時雨に攻撃が直撃した。爆発でも起こったような轟音が鳴り響き、六花は目を丸くする。
「え、どうして……」
「神の血がこんな時に役立つとはな……」
ははっと小さく笑ってから、氷雨は気を失った。
「ちょ、ちょっと!」
説明もなく気絶する氷雨に動揺する六花は、はっと時雨の存在を思い出して彼がいた場所を見るがそこには誰もいなくなっていた。
「結局逃げられましたね……」
口惜しいが、先ほどまで感じていた時雨の霊力は跡形もなく消えている。
これでは探すのは難しいだろう。
六花はため息をひとつつき、電話をかけた。
「もしもし、おじい様──」
「それは本家に運んでください」
「かしこまりました」
六花に命令されるのは不本意この上ないだろうが、六花が本家直系であり、彼らの上に立つ立場であるのは変わらない。
周囲の目など気にしてはいられないと六花が構わず指示を出していた時、その場が不意にざわつく。
何事かと目を向けると、そこには先日顔合わせをした一龍斎氷雨の姿があった。
そちらも任務の途中なのか、対あやかしの国家機関・星影の制服を着ている。他に隊の者はおらず、どうやらひとりのようだ。
氷雨は居並ぶ鬼たちを目にし、ほんの瞬きにも満たない一瞬顔をしかめるのを、六花はしっかりと確認した。
しかし、他の鬼は気がつかなかったようで、一気に浮き足立つのが分かる。
「どうやらひと足遅かったようだ」
夜の闇の中にあってなお、輝くような笑みをたたえる氷雨に、鬼たちはざわめく。
「うわっ、一龍斎氷雨さんだ」
「こんなところでお会いできるなんて感激~」
などと、鬼でありながら本家直系の姫である六花よりも氷雨の方に愛想がいいというのはどうなんだと、六花は内心でツッコむ。
とはいえ彼らに愛想よくしてもらいたいわけではないので別に構わないのだが、鬼としての矜持はないのかと文句は言いたい。
「あなたが責任者ですか?」
気のせいでありたいが、『お前程度の弱い奴が責任者とは笑い種だな』と副音声が聞こえてくる。
被害妄想と言われようと確実に嘲られている気になるのだから仕方ない。
天使みたいに人畜無害な微笑みを浮かべているのに喧嘩を売られているように感じるとは、いったいどういうことなのか。
なので、どうしても棘のある言い方になってしまう。
「そちらはずいぶんと遅いご登場ですねぇ。仕事に手を抜いているんじゃありませんか?」
氷雨の登場にきゃあきゃあ騒いでいた鬼たちが非難の目を向けてくるが、六花の知ったことではない。彼らにどう思われようと今さらだ。
「それは申し訳ありません。やはり天鬼月の情報力は素晴らしいですね」
まるで後光がさしているような慈愛に満ちた微笑みも、六花から見ると嘘くさく感じる。
しかし他の鬼たちには効果てきめんのようで、男女問わず頬を染めた。
特に女性陣はうっとりとした眼差しで釘付けとなっており、確実に今が任務中であると忘れているだろう。
「もう対象者はこちらで捕らえましたので、おかえりになって結構ですよ。後はこちらで処理いたします」
敬語ながら嫌みたらしく聞こえるように話すと、わずかに眉がぴくりと動いた。
他の者が気づかぬほど一瞬だけちゃんと苛立たせられたようなので、六花は満足して対象の男を部下の鬼に任せて夜の闇に消えていこうとした。しかし……。
「あなたはどこに行くつもりだ?」
「どこだっていいでしょう? あなたには関係ありません」
「そう言わずに。危険ですよ。……鬼にふらふらと出歩かれてはこちらの迷惑だ」
いつの間に近づいていたのか、それまでの丁寧な話し方を捨て去って、六花の耳元でどすの利いた声色で言葉を吐く。
肩を掴まれたが、六花は勢いよく振り払った。
「あなたに私の行動を制限する権限はありません」
両者がにらみ合うその時、腰にさした宵闇がどくりと脈打つように反応した。
この刀がこんな反応を見せたのはこれが二度目。
氷雨と初めて会った時も宵闇は似た反応を見せたが、今回はまるで六花になにかを知らせるような警戒が伝わってきた。
「これはまさか……」
驚愕に彩られた六花の表情は誰の目にも緊張しており、氷雨はそんな六花を見ていぶかしげにする。
自分ではない誰かと共鳴しているその感覚に、六花はすぐに宵闇の反応の意味を理解する。
「あいつが……、あいつが近くにいる!」
弾かれたように駆け出した。
「おい!」
氷雨の呼びかけで、なぜか彼までが後をついてきていることに気がついた六花は驚く。
「どうしてついてくるんですか!」
「お前が突然走りだすからだろう。そんな殺気を振りまくようなあやかしを放置できるか」
「それはご苦労様です。これまで取り繕っていた化けの皮もはがれていますよ。まあそれはどうでもいいですが、ついてこないでください。……殺されるかもしれませんよ」
冷たく突き放す六花の不穏な言葉に、氷雨は息を呑んだ。
「なおさら追いかけないわけにはいかないな」
それは星影の者としての使命感からなのか、はたまた六花が嫌いだからか分からないが、氷雨に気を回している余裕は六花にはない。
もしかしたらこれが最後のチャンスかもしれないのだから。
苦しそうにベッドで眠る霞の姿が六花の脳裏をよぎる。
宵闇に誘われるようにして走り続ける鬼の六花を、氷雨は問題なくついてくる。人間ではありえない身体能力は、やはり彼の中に流れる神の血がそうさせるのだろうか。
撒いてやろうと思うのにどうしてもできず、六花は早々にあきらめた。
一応警告はした。それでもなおついてきたのは氷雨なのだから、もしついてきた結果、死ぬことになっても自己責任である。
なんて考えているなど、氷雨は知らないだろう。
六花は氷雨から宵闇に意識を集中させていると、覚えのある霊力の残滓に気がついた。
「あいつの気配……」
忘れようとも忘れられない、この懐かしくも憎らしい霊力。
速度を落とし、より気配の強い方へと歩いていくに従い、どくどくと心臓が激しく鼓動する。
緊張と高揚がない交ぜになったかのような感覚に、六花の手のひらにじとりと汗がにじんだ。
「やっと……、やっと見つけた」
先ほどまでどんなに走っても息切れすらしていなかったのに、自然と呼吸が荒くなる。
そうして霊力をたどっていけば、それに伴って強い血の臭いを感じ取った。
建物の隙間を縫うように走り、角を曲がった時、袋小路になったビルの上にその男はいた。
黒髪に、赤黒い瞳。耳には特徴的な黒薔薇のピアスが揺れている。月を背にした男は不気味なほど美しく、六花に気づくと蠱惑的に笑った。
六花は憎い憎い男の名前を叫ぶ。
「時雨!」
「ああ、六花じゃないか。久しぶりだ。会いたかったよ」
まるで昔馴染みに再会したようにぱっと晴れやかで嬉しそうな顔をする時雨に、六花は歯噛みする。
自分と時雨は到底笑顔でおしゃべりをし合うような仲ではない。
いったいどんな気持ちで自分に笑いかけてくるのか、六花の中で抱えきれない怒りが噴き出し、紅玉の目をいっそう鮮やかにする。
にらみつける六花の姿すら楽しむような時雨は、六花から視線を動かした。
「ああ、六花だけじゃなく、一龍斎のガキも一緒じゃないか。ふたりに会えるなんて、今日はとってもいい気分だぁ」
まるで酒を飲んで酩酊しているかのようにうっとりとする時雨に対し、氷雨が激昂する。
「ほざけ!」
その激しい怒りと憎しみは、六花や他のあやかしに向けていた嫌悪感とはまた違う、もっと色濃いものだった。
知り合いなのかと驚いて、六花は氷雨に目を移す。
氷雨から憎悪の感情を向けられても、時雨の表情から笑みが消えることはない。
「いいね、いいねぇ。憎くて仕方がないって表情だ。僕を殺したいかい? だが、君には無理だ。僕を殺せるのは唯一、六花が持っているその宵闇だけだからね」
氷雨ははっと息を呑んで六花を振り返る。その手に持つ宵闇に視線が釘付けとなっており、六花はたじろいだ。
「俺に復讐したいなら六花の手を借りることをお勧めするよ~」
「ふざけるな! 誰が鬼の手助けなんか──っ! くあっ……」
突然胸を押さえて苦しみだした氷雨は、立っているのもつらそうにその場にうずくまった。
「ほらほら、無理するから~。君は弱いんだからさあ。しょせん人間の器に神の力は強すぎるんだよ」
「だ、大丈夫ですか?」
六花は心配そうに氷雨に手を伸ばすが、触れることを許さないと告げるように振り払われた。
「ぐっ……」
苦しんでいる理由が分からないだけに、どう対処していいか判断がつかない。
持病でもあるのか、時雨はなにか知っている様子。
いろいろと聞き出すことが増えたと時雨に目を向ければ、今にもその場から逃げていきそうで、六花は焦りをにじませた。
「待ちなさい! 霞の呪いを解いてちょうだい!」
霞に死の呪いを与えた、殺したいほど憎い存在。ずっと探していたが、手がかりひとつ見つけられずにいた。
この機会を逃したらもう次はないかもしれないので、逃がすわけにはいかないと六花は必死だった。
「いいよ~。……なんて、僕が素直に受けると思う?」
どこまでも人を小馬鹿にした物言いに、六花の苛立ちは増していく。
「あはは、六花は分かりやすくてかわいいなあ。昔のまんまだ」
「ふざけないで!」
悔しげに表情を歪ませるのは、時雨が決して呪いを解くつもりはないのだと悟ったからである。
あの呪いは呪った本人にしか解けない以上、時雨にその意思がないのなら、殺すしか方法はない。
けれど、六花はこれまで誰かの命を奪ったことなどなかった。それは任務においても同じである。どんな凶悪なあやかし相手でも、最後の一線は守り続けていた。
だが、そんなふうに躊躇している間も霞は苦しんでいるのだ。
やるしかない。霞を守るためになんでもすると自分に誓ったはずだと、六花は何度も己に言い聞かせる。
そうして霞の顔を思い浮かべれば、驚くほどあっさりとためらいは消え去った。
静かな殺意が瞳に宿り、目の前の時雨に向けられる。
宵闇を鞘から出して構えた瞬間、六花が踏み出すより先に時雨が六花の前に躍り出たかと思えば、手に霊力をまとわせ攻撃を仕掛けてくる。
六花はそれをかろうじて宵闇でさばくので手いっぱいだった。
「くっ!」
「ほら、どうしたんだ? 僕を殺すんじゃないのか? 早くしないと妹が死んじゃうかもねえ」
愉悦を浮かべ、六花との戦闘をまるでダンスでも踊るように楽しむ時雨からは、圧倒的な実力差と余裕が感じられた。
鬼であっても一族から落ちこぼれと蔑まれてきた六花には到底及ばぬ高みから見下ろされている感覚に陥る。
次第に壁側へと追い詰められていき、目前に迫った時雨に宵闇を振り下ろしたが、手を掴まれあっさりと防がれてしまう。
身動きの取れない六花は、時雨のあまりに強い握力に顔を歪ませる。
「ねえ、六花。宵闇に選ばれながら使いこなせない憐れな六花。一族からないがしろにされて、それでも天鬼月にいる必要ははたしてあるのか?」
「なにが言いたいんですか?」
時雨はさらに顔を近づけ、六花に甘く囁く。
「君だけは助けてあげてもいいよ。無様で負けず嫌いの六花。君が僕のものになるならね」
時雨に顎を掴まれ、指が六花の唇をなぞる。
「ねえ、天鬼月なんて捨ててしまいな。あんな腐った家にしがみつく必要がどこにある?」
睦言のように甘美な声は、六花の耳にねっとりと絡みつくように入り込んでくる。
確かに六花の天鬼月での待遇はお世辞にもいいとは言えない。
宵闇に選ばれながら使いこなせない六花から宵闇を取り上げるべきという声も少なくなかった。それをどうにか暁天の力で抑え込んでいる状態だ。
いつ、強行しようとする者が現れてもおかしくない。そうなれば確実に霞を救う手立ても、六花が天鬼月で力を認められることもなくなるだろう。
「私だって天鬼月の連中に対しては胸糞が悪く感じています」
「それなら──」
「けど、あの家には霞もおじい様もいる。霞だってまだ頑張って生きようとしているのに、どうして姉の私が捨てることができるというんです? 私は約束した! お父さんとお母さんに霞を守ると」
そうふたりの墓前に誓ったのだ。
「だいたい、私から両親を奪っていった諸悪の根源がなにを言うつもり!? お前がいなければ今も私はあの家で幸せに暮らしていたわ。それをめちゃくちゃにしたのはお前じゃない!」
六花は唇に触れる時雨の指を力いっぱい噛んだ。
時雨は一瞬痛みに表情を動かしたが、すぐに笑顔に変わり、その目はこれまで以上に爛々と輝いていた。
六花が憎しみを込めて遠慮なく歯を立てたせいで、皮膚が破れ時雨の血の味が口の中に広がる。
吐き気をもよおす不快感とともに、時雨の強い霊力を血に感じた。それはあやかしにしては清廉な霊力が含まれており、違和感を覚える。
「ああ、残念だよ、六花。君とはうまくやれると思ったのに」
至極残念そうに憂いを浮かべる時雨は、六花から宵闇を奪い取ると、六花の心臓に向け勢いよく突き刺そうとしてきた。
逃げる間もためらいもないその行動に、六花はまるでスローモーションを見ているかのように錯覚し、己の死を強く感じる。
しかし、次に襲ってきたのは痛みではなく、柔らかい温もり。
目の前で血しぶきが舞うが、それは六花のものではなく、六花をかばった氷雨の血だった。
愕然とする六花は、震える手で氷雨を抱きとめる。六花の手に血がべっとりとつき、激しい衝撃と混乱で声が震えた。
「な、なにしてるんです? あなたは鬼が嫌いなんじゃなかったんですか? 私を助けるなんてどうして……?」
まさか氷雨が自分をかばって怪我をするなど思いもしなかったため、六花はうまく頭が回らない。
問いかけられた氷雨は、ふっと自虐的に笑う。
「さあ、なんでだろうな……」
力ない声が暗い夜空の下に落ちる。
急所は外しているようだが、出血が多い。六花は治癒しようとするが、霊力は強くとも使いこなせない六花に治癒の力は扱えなかった。
「ぐっ……」
痛みに苦しむ氷雨からどんどん体温が奪われていくのが伝わり、焦燥感が募る。
いったいどうしたらいいのか。
「ち、治療を……」
果たして間に合うのか?
電話で助けを求めようと思った時。
「おっと、すごいすごい」
その場にふさわしくない明るい声が響き、六花ははっとする。
氷雨の怪我に気を取られてしまっていたが、まだ時雨がいたのだ。
目の前にいる時雨の手には宵闇が握られており、宵闇とともにある姿が六花よりもしっくりきて違和感がない。
それもそのはず。宵闇の先代所有者はこの男なのだから。さらに時雨の力は、現当主・暁天を上回るほど強い。
「宵闇を返してください」
「これはもともと俺のなのに?」
「っ! 今は私が宵闇の主人です!」
「使いこなせていないくせに主人とはよく言えたもんだ」
まぎれもない事実を突きつけられると六花はなにも言い返せない。
「まあ、でも確かに俺が持っていた時の宵闇とは違うみたいだ」
時雨の手の中でカタカタと震えだす宵闇は次の瞬間、時雨を拒絶するように手を弾き、六花のもとに自ら舞い戻ってきた。
慌てて宵闇を握る六花。しかし、宵闇がちゃんと自分を選んでくれたことにほっとしたのもつかの間、時雨と怪我をした氷雨を交互に見ながら選択を迫られる。
時雨を捕えるため戦うべきか、時雨をあきらめ氷雨の治療を優先するか。
この期を逃したら次に見つけるまで霞の体がもつか分からない。かといって、氷雨の怪我はすぐに治療しなければ間もなく彼は命を落とす。
ふたつの命の天秤をどちらに傾けていいのか、六花は迷う。
「さて、俺はそろそろ行くとするかな。楽しかったよ、六花。それと、一龍斎のガキも、もし生きていたら遊んであげる」
「あ……」
この時になっても決断できない六花の紅玉のような瞳が揺れる。そこへ、小さくも力強い声が耳に入ってきた。
「おい、お前の刀ならあいつを殺せるのか……?」
振り絞る声に六花が視線を落とすと、氷雨が痛みをこらえ顔を歪めながらじっと六花を見つめていた。
「できます、けど……私は宵闇が使いこなせないんです」
悔しい。そう言い訳するしかできない自分がふがいない。
目の前に、手の届くところに元凶がいるというのに、六花の今の力では到底追いつけないと、先ほどの一瞬のやりとりで理解させられてしまった。
「なら、あきらめるのか?」
「それは嫌!」
迷いが吹っ切れたようにそれだけは強く否定した。
あきらめるということは霞の死を望むのと同義だ。そんな望みなど誰がするものか。
六花は意思を込めた眼差しで宵闇を強く握りしめる。
すると、氷雨は負傷して血がしたたる腕を六花の口元に無理やりくっつけた。
「むぐっ」
なにするんだと非難の目を向けると、なぜか氷雨は不敵に笑っていた。どうしてこの状況でそのように笑うのか理解できない六花に、ただひと言告げる。
「血を飲め」
意味が分からないと硬直している六花に氷雨が血のついた腕をぐいぐい押しつけてくるので、六花はただただ血の匂い以外感じられない。
「さっさとしろ!」
怒鳴られようやく言う通りに血を舐めた六花は、氷雨の血が体内に入ると同時に不思議な感覚に陥った。どくりどくりと宵闇を持つ手に霊力が集中し、これまでにない宵闇との一体感を覚える。
腕を下ろした氷雨が命令するように発した。
「刀を振れ」
言われるままに、いや、言われずとも、宵闇がそうしろと伝えてきているような気がした。
刀を振り切ると、これまでにない宵闇の圧倒的な力が一本の線が通ったように六花の霊力と共鳴して放たれる。
驚いた顔をする時雨に攻撃が直撃した。爆発でも起こったような轟音が鳴り響き、六花は目を丸くする。
「え、どうして……」
「神の血がこんな時に役立つとはな……」
ははっと小さく笑ってから、氷雨は気を失った。
「ちょ、ちょっと!」
説明もなく気絶する氷雨に動揺する六花は、はっと時雨の存在を思い出して彼がいた場所を見るがそこには誰もいなくなっていた。
「結局逃げられましたね……」
口惜しいが、先ほどまで感じていた時雨の霊力は跡形もなく消えている。
これでは探すのは難しいだろう。
六花はため息をひとつつき、電話をかけた。
「もしもし、おじい様──」



