夏の日差しが照りつける、地方のとある住宅街。

 大小様々な家屋が建ち並ぶ静かなエリアで、一箇所だけ更地が広がっていた。

 そこを目の前に、足がすくんでしまい思わず立ち止まる。汗が滲むほどの暑さなのに、身体は震えていた。

 夏休みも終わった平日の午前中に制服を着た女子中学生が立ちすくんでいる。おそらくかなり怪しく見えるのだろう。時折歩いてくる人々が、私を凝視しながら通り過ぎていくのがわかる。

 数回深呼吸をして、ゆっくりと歩き出した。

 一歩、また一歩と足を踏み出すたびに、胸のざわめきと痛みが大きくなっていって。

 目尻に滲む涙が、視界をうっすらと曇らせていく。

 たっぷり時間をかけてようやく更地に辿り着き、その場にしゃがみ込んだ。


「……ひさしぶり、だね」


 地面から生えている雑草に手を伸ばすと、目尻から一滴の雫がこぼれ落ちた。それを拭うこともできないまま、反対の手に持つ花束をそっと置く。


「ごめんね。こんなに、遅くなって」


 ぽつりとこぼした言葉は、それ以上紡がれることはない。

 ただ、静かにその場所を見つめた。

 懐かしむように。慈しむように。自分を戒めるように。

 そして風が草を揺らす音と鳥の囀りを感じながらゆっくりと目を閉じて、何度も噛み締めるように深呼吸をした。

 どれくらいそうしていただろう。

 帰ろうと立ち上がった時、


「──君、ここに何か用事?」


 後ろから聞こえた、少し掠れた声に振り向く。


「え……っ」


 そしてその先にいた姿を見て、息を呑んだ。

 大学生だろうか。爽やかなシャツに身を包んだ、男の人。垂れ下がった目尻が私を捉えた瞬間に、胸が激しく騒ぎ出す。


「聞いてる?」

「え、あ……すみませんっ」

「ここに用事? ……もしかして、その花」


 足元に置いた花束を見つけた彼は、怪訝そうにそれと私を見比べる。

 その視線に耐えられなくて、


「ごめんなさいっ……あの、失礼します!」

「あ、ちょっと!」


 彼の止める声も聞かないまま、私は固まっている足を無理矢理動かして走り出した。

 どうして逃げたのかは自分でもよくわからない。とにかく、これ以上あの場にいてはいけないと思った。とにかく離れないといけないと思った。

 走って、走って。息が切れても走り続けて。ようやく立ち止まったのは、遠くに海が見える小さな公園。

 そこで、人目も憚らず大声をあげて泣いた。

 そんな私を嘲笑うかのように、頭上には雲ひとつない綺麗な青空が広がっていた。



***

 ──懐かしい、夢を見た。

 目が覚めた時、枕が濡れていて寝ながら泣いていたことに気がつく。

 数年前の記憶を夢で見るのは、これで何回目だろう。しかもこんなに鮮明に頭に残るなんて、なんとも不思議なものだ。

 少しぼーっとしてから、スマホで時間を確認して目を見開く。


「やば……遅刻じゃん」


 夢を懐かしんでいる場合じゃない。飛び起きて、朝ごはんもそこそこに急いで準備をして家を飛び出した。

 桃園千冬。都内にある三葉高校に通う二年生だ。 

 恨めしいくらいの快晴が広がる九月の初めは、夏休みも終わったというのにまだジリジリと日差しが照りつける。そんな天気の中で自転車を漕ぎつつも、日焼け止めを塗ってくるのを忘れてしまったことに気が付いてさらに憂鬱な気持ちになった。

 高校に着くと、自転車を駐輪スペースに停めて早足で校舎に向かう。そのまま教室に行きたいところだけれど、結局遅刻してしまったため職員室へ向かった。


「失礼します」

「お、桃園。おはよう」

「おはようございます……すみません。寝坊しました」

「五分オーバーか。珍しいな。じゃあこれ書いて」

「はい」


 学年主任のおじさん先生から遅刻届を受け取り、さらさらと記入した。


「そうそう、今日から教育実習生が来てるんだ。今ごろ自己紹介してるんじゃないかな。早く教室に行くといいよ」

「はぁ」

「受け持ちは数学。ま、そういうことだからよろしく」


 よろしく、とは。そう思いながらも、適当に返事をして職員室を出る。

 教育実習生なんて正直全く興味が無いけれど、遅刻した手前言われた通り急いで教室に向かうことにした。

 教室の扉は開けられていたため、思いの外目立たずに入れそうで安心する。

 学年主任が言っていた通り、今はちょうど自己紹介が始まったばかりのようだ。クラスメイトの女子がキャーキャーと黄色い声をあげている。どうやらイケメンらしい。

 チョークで名前を書いているタイミングを見計らって、急いで入って席に座る。

 周りからの視線を感じつつ、一息ついて顔を上げた時。


「──え……?」


 息をするのを忘れてしまうくらいに、時が止まったような錯覚がした。


「──えー、畠山 圭佑です。大学四年、担当教科は数学です。緊張していますが、僕も三葉高校出身でみんなと話が合うこともあると思うので、たくさん話しかけてもらえると嬉しいです。みんなと早く仲良くなりたいと思っています! 二週間と短い期間ですが、どうぞよろしくお願いします!」


 その優しく垂れ下がった目尻も、ほんの少し掠れた声も。私の中で覚えがあって。

 まさか、そんなわけない。こんなところにいるわけない。そう思うのに。

 今朝、あんな夢を見たから?数年前のことを、思い出してしまったから?だから、こんなことが起こるの?

 ぐるりと教室の中を見まわした彼は、私を視界に入れた瞬間にほんの少しだけ目を見開いた。

 思わずパッと逸らした顔。

 心臓がバクバクと高鳴っていて、息苦しさすら感じる。

 もう一度恐る恐る顔を上げてみるけれど、もう目が合うことは無く。それにホッとしてしまう私がいた。


「ねぇ、君」

「え……」

「ごめん、まだみんなの名前知らなくて。えっと……」

「……桃園、です」

「桃園さん、ね。ごめんね、急に呼び止めて」

「いえ」


 昼休みに購買に行った帰り、呼び止められて振り向くと彼、畠山先生の姿があった。

 思わず身構える私に、先生は困ったように両手をあげて害の無いアピールをする。

 それに拍子抜けして、ゆっくりと息を吐いた。


「桃園さん、ちょっと変なこと聞くかもしれないんだけど、いい?」

「……はい」

「俺と、……二年くらい前に地方で会ったことない?」


 ドクン、と心臓が大きく鳴る。


「私が、ですか?」 

「うん。君を見たことがある気がして」


 あぁ、ダメだ。これはダメだ。まさか、あの日のことを覚えているだなんて。

 大きく息を吐いて、そして、大きく息を吸う。

 ……大丈夫。笑え。笑顔を作るの。そうすればバレないから。


「……多分、人違いですよ。私、生まれも育ちも都内なので。地方にはほとんど行ったことありませんし。先生のことも、見覚えはありません」


 咄嗟についた嘘に合わせるように無理矢理口角を上げて、目尻を下げる。

 胸の前で手をぎゅっと握ったのは、無意識だった。

 ちゃんと笑顔を作れた。そう思うのに、目の前の彼は私の表情を見て眉を顰めた。


「……そ、か。うん、そうだな。多分人違いだよな。なんかごめんな。ありがとう」

「いえ。じゃあ、また」


 会釈して、その場を離れる。

 後ろから先生に見られているような気がしたけれど、私は振り返ることはせずに早足で教室に戻って行った。

 ──本当は、先生の言う通り二年前に会ったことがある。

 それは、今朝夢で見たあの光景だった。

 中学三年生のころ、修学旅行で訪れた地方。そこで、私はどうしても行きたいところがあった。どうしても行かなければならないところがあった。だけど、観光地でもないところに行きたいだなんて言えるわけもなく。どうしようか悩みに悩んだ結果、自主研修の時間に具合が悪いと嘘をつき、一人で宿に待機と言われたところを抜け出した。

 その時に、先生と出会ったのだ。

 忘れもしない。今日と同じ、空はまばゆいくらいの快晴だった。

 更地の前で花を置き、涙を流しながら立ち尽くす私に声をかけた先生。

 私が逃げた後、あの花を見て先生は何を思ったのだろう。


 怪しい子ども?

 いたずらの類い?

 それにしては度が過ぎているのでは?

 ……きっと、たくさん悩ませてしまったと思う。


 だからこそ、あの日のことは先生には思い出してほしくなかった。私たちは関わってはいけないから。だからどうか、忘れていてほしかった。

 そもそも会ったのも一瞬の出来事だったから、覚えているなんて思わなかった。忘れてくれていると思っていた。


 ……私たちは、出会ってはいけないのだから。
 



 でも、人違いだとわかればもう私のことになど興味は無いだろう。そう思っていた。



 ──それなのに。


「桃園さん、おはよう」


 私の思いとは裏腹に、いまだ先生と関わる機会がなにかと多い気がしているのはどうしてだろう。

 教育実習三日目の朝。教室に入ると今日も先生は生徒たちひとりひとりに挨拶をしているのだ。

 どうやら早く顔と名前を一致させたいらしく、昨日からいわゆる"お出迎え"されている。教育実習生としては意識が高すぎる気もするが。

 私以外の女子生徒たちはみんな浮き足立っていて、"先生"ではなく"圭佑くん"と呼んでいる子までいる。戸惑いを隠せないのはおそらく女子の中では私だけだと思う。


「おはよう、ございます」


 とりあえず会釈を返すと、彼はそれはそれは嬉しそうに笑った。

 大きな垂れ目と泣きぼくろ、そしてこの爽やかな優しい笑顔がかっこいいと評判で、クラスの女子だけにとどまらずあっという間に学校全体の女子生徒からの人気を集めているらしい。

 大学でも相当モテているんだと思うし、実際に教師になった後もすごそうだなと思う。今も休み時間のたびに女子から"彼女はいるの?"とか、"好きな女性のタイプは?"とか、質問責めにあっていて大変そうだ。
 

 数学の時間、担任でもある田中先生の授業を教室の後ろから真面目に見学している畠山先生をちらりと盗み見る。

 するとなぜか目が合ってしまい、慌てて顔ごと逸らした。


 ……見てたの、バレたよね?
 ていうか、なんでこっち見たの!?


 恥ずかしさと後悔で居た堪れない。

 早く授業なんて終われ。そしたら昼休みだから早く教室から出よう。なんで見てたの?とか聞かれたら困る……。

 そう思ったのがダメだったのだろう。 


「──じゃあ今日の日直、このノート職員室まで運ぶの手伝ってくれ」

「え……」


 田中先生の気怠げな呼びかけに、顔が引き攣る。

 ……ついてない。今日の日直は私だ。

 授業が終わるのと同時に教卓に置かれていくノートの山を見つめて、はぁ、とため息がこぼれ落ちた。


「桃園。悪いな、手伝ってもらって」

「いえ……」

「畠山先生、彼女はうちの学年のトップの成績の生徒なんですよ」

「え! そうなんですか!」

「田中先生、やめてください……」


 昼休みで騒がしい廊下を、ノートを持って職員室へと向かう。その途中、田中先生は一緒に歩く畠山先生に私のことをぺらぺらと話していく。

 成績の話なんて自慢みたいに聞こえるからやめてほしいのに。田中先生は誇らしげに話していくから私は肩身が狭い。

 畠山先生もそんなこと言われても困るだろうに、田中先生の話を笑顔で聞いている。

 あぁ、早く職員室着かないかな……。それかこの話、早く終わらないかな。

 そう思って下を向いていると、


「きっと先生方のご指導が素晴らしいからですね! あ、それで言うと田中先生、さきほどの授業のことで質問したいことがあって、後ほどお時間いただきたいのですが……」


 と、畠山先生が話題を変えてくれて顔を上げた。


「授業のこと? もちろん。答えられる範囲なら」

「ありがとうございます」


 嬉しそうに授業の話をし始めた田中先生を見て、畠山先生はちらりと私の方を見て微笑む。

 ……もしかして、私のために話題変えてくれた?

 こういうところがモテるのかもしれない。その気遣いと優しさが嬉しくて、目を細めた。


「田中先生! 外線入ってますー!」

「え、あ、はい! 今行きます!」


 その後すぐに田中先生は他の先生に呼ばれていき、


「ノート、俺のデスクに置いておいてくれればいいから! 畠山先生もお昼入っちゃって! 質問はまた後で!」

「あ、はい!」


 慌ただしく指示を出して走って行ってしまった。

 私と畠山先生は立ち止まり、どちらからともなく顔を見合わせる。


「……重いでしょ。俺が全部運んでくから、ここ乗せていいよ。桃園さんもお昼食べておいで」 


 困ったように微笑む畠山先生に、私は首を横に振る。


「いえ、頼まれたことは最後までやります。それに重いのは先生も一緒でしょ。たくさん持ってるし。二人で運んだほうが早いです」


 本音を言えば一刻も早く一人になりたい。全部を任せてしまいたいところだけど、生憎自分のやるべきことを途中で投げ出すのは好きじゃない。

 あともう少しだし、早く運んじゃってそれからお昼を食べよう。

 先生の返事を待たずに足を進めると、


「……ありがとう。行こうか」

「はい」


 もう一度私の隣に並んだ先生の目尻は、いつになく下がっているように感じた。