その猫は、まるで空気の裂け目から滲み出てきたように、突然、部屋の中にいた。
音もなく、動きもなく、まるでプロジェクターが投影した幻影か、精巧な動物の彫像のようだった。
それを目にした瞬間、私は、これはきっと二日間の断食と、ろくに眠っていないせいで見た幻覚だと思った。
なにしろ、窓は長いあいだ閉めきったままで、窓辺には灰が積もっている。
ドアの鍵も今日だけで十三回は確認した。
錠がゆるんでいないか、外からこじ開けようとする者はいないか、 そして私が、たった五畳のこの部屋の中で――外界から完全に切り離された「安全圏」にいることを、確かめるために。
この三日間、私はドアから一瞬たりとも目を離さず、
誰かが開けようとする気配を遮断するように耳を塞いだ。
外から聞こえる「開けて」と呼ぶ声を拒み続けた。
完璧な防御。誰も入れない。私は自分だけのシェルターに閉じこもることに成功した――そう思っていた。
なのに、いまそこに、一匹の猫がいる。
忌々しい、猫だ。
その猫は、ほとんど動かなかった。
まるで、最初から存在などしていなかったかのように。
かすかに胸が上下している。それだけが、かろうじて生きている証だった。
普通の猫のように部屋を走り回ることも、毛づくろいをすることもない。
鳴かず、あくびもせず、ましてや私の足もとに擦り寄ってくることもなかった。
まるで空腹も喉の渇きも感じないかのように、窓際の下で小さく身を丸め、外から差し込む陽光をその体に受けていた。
光はその華奢な輪郭を透かすように照らし、猫の身体を淡く透明にしていった。
私は身体を硬直させたまま、動けずにいた。
この猫が現れてから、私と猫は部屋の両端で向かい合い、互いに避けられる限りの距離を保っている。
視線をそらさずにいると、時間の流れが止まってしまったようだった。
無意識のうちに、私たちは“どちらが先に耐えきれなくなるか”という、無言の競争を始めていたのかもしれない。
結果は言うまでもない。
私の方が先に限界を迎え、体力の尽きた身体を眠りに落とすまで、猫はあの姿勢のまま、ただそこにいた。
勝手に現れて、この部屋の主である私をまるで無視するその態度。……腹立たしいにもほどがある。
「ねぇって――!」
夢の中でも、目を覚ましてからも、私の胸の奥には、どうしようもない怒りが渦巻いていた。
理由はただひとつ――あの、訳の分からない猫のせいだ。
起き上がった途端、喉が焼けるように痛むのも構わず、私はその猫に向かって怒鳴り散らした。
けれど、近づくことだけは、どうしてもできなかった。
「どこから入ってきたんだよ!」
「さっさと自分のいた場所に戻れ!」
「ここはあんたのいるところじゃない、聞こえてるのかよ!」
どんなに叫んでも、猫はぴくりとも動かない。
まるで耳という器官そのものを持たないように、沈黙を貫いていた。
声が枯れ、息が切れて、私が再び静かに観察を始めたそのとき――
背後の扉が、こん、こん、と叩かれた。
「りんな……」
疲れきった兄の声が、上の方から落ちてきた。
まるで懇願するように。
「和生くんの……葬式の日が決まった」
――その瞬間、脳の奥で何かが爆ぜた。
強い衝撃音が全身を駆け抜け、耳の奥のすべての音が消えた。
同時に、窓際の子猫がぴくりと耳を動かした。
そして、ゆっくりと、まるで時間を引き延ばした映像のように、頭を持ち上げ、体を起こした。
私は息をのんで、それを見つめた。
純白の毛並み。
光を反射してきらめくほどの白。
顔の三分の二を占めるほど大きく、透き通った青い瞳。
――子猫だ、と思った。
だが次の瞬間、目に飛び込んできたのは首にかけられた黒い紐。
その紐の先には、ざらついたプラスチックのタグ。
見覚えのあるブランドのロゴ。
その光景を見た途端、“何か”が私の全身を支配した。
冷たい感覚が嵐のように一気に広がる。
空気が一瞬で十度も下がったように、肌が粟立った。
「……プリンちゃん」
私はその名を口にした。
子猫が、前足を一歩、私の方へ踏み出す。
「プリンちゃん、だよね」
確信した瞬間、身体の奥まで冷えきっていく。
内臓までも凍りつくように痛い。
鼻が詰まり、息ができず、思わず口を開けて荒く空気を吸い込む。
「……プリンだ」
そう繰り返した直後、信じられないという衝撃で、私は背中からドアに倒れ込んだ。
鈍い音が部屋に響く。
「どうした!?りんな、何があった!?」
ドアの向こうで兄が慌てる声を上げた。
けれど、もう答える余裕なんてなかった。
私の視界には、こちらへとゆっくり歩いてくる小さな白い影しか映っていなかった。
その首元で、銀色の名札がゆらりと揺れている。
――プリン。
その名をつけたのは、ほかでもない私だ。
プラスチックのタグを結んだのも、私。
あのとき、コンビニで買った一番安いプリンを手にしていたから。
けれど、その猫は――私の猫じゃない。
和生の猫だった。
和生と出会ってからというもの、私はよく考えていた。
和生って、どんなタイプの男の子なんだろう。
彼は太陽みたいだった。
明るくて、誰にでも分け隔てなく優しくて、両親にたっぷりの愛情を注がれて育ったんだろうと思わせるような、まっすぐな笑顔をしていた。
世界の“悪意”なんて知らない。
それでも臆せず、すべてを愛し、すべてに勇気を向ける。
そんな人だった。
和生のことを知ってから気づいた。
彼には数えきれない“良さ”があった。
私にとって、まぎれもなく太陽のような存在だった。
出会う前の私は、ただ教室の女子たちの噂でその名前を耳にしていただけ。
成績がよくて、顔はもっとよくて、他クラスの誰かがまたラブレターを渡したけれど、彼はいつも穏やかに断るんだって。
和生のことが好きな子はたくさんいる。
和生を嫌う人なんて、ほとんどいない。
恋の始まりに気づく年頃、あんなに眩しい人は、憧れにも幻にもなり得る。
……ただし、私を除いて。
初めて彼が声をかけてきたのは、海沿いの町の外れ、波打ち際に突き出た岩の上だった。
私は、風ひとつない鏡のような海面をぼんやりと眺めていた。
「やあ、こんにちは」
和生の声は、少し幼さを残したまま、それでいて不思議と心地よい低音を含んでいた。
「いつもここにいるけど、何を見てるの?」
見知らぬ相手に声をかけながらも、彼はまったく臆さなかった。
同じ制服を着ていたせいで、きっと私のことも、学校で彼に群がる無邪気な女子たちの一人だと思ったのだろう。
確かに、和生は“完璧な優等生”だった。
けれど、そんな無防備な距離の詰め方に、私は妙な怒りを覚えた。
「あなたに関係ないでしょ」
言葉を投げつけると、和生は驚いたように目を瞬かせ、それから、ほんの少し困ったように笑った。
その笑顔は、嘘くさくなかった。
目尻がやわらかく下がって、本当に心から笑っているようだった。
「いつもここで見かけるから、ちょっと気になって、何を見てるのかなって」
そう言って、一歩前へ進み、私の隣から同じように海を見た。
「きれいだね」
和生は小さくつぶやいた。
「毎日通ってる道だから、見慣れてると思ってたけど、こうしてじっくり見ると、やっぱり見惚れちゃうね」
私は眉をひそめ、彼の“無遠慮”にうんざりして黙り込んだ。
けれど彼は、そんな私の拒絶を感じ取ることなく、話を続けた。
「いつもこうして見てるけど、何を考えてるの?」
「……あなたに関係ないでしょ」
同じ言葉を繰り返すと、彼は今度は驚くどころか、嬉しそうに笑った。
「宍戸さん。僕、今学期の君のクラス委員なんだ」
そう言いながら、鞄から一束のプリントを取り出した。
透明なファイルに丁寧にまとめられたノート。
それは、私が学校を休んでいた間に、彼が代わりにまとめてくれた授業の記録だった。
「これで、少しは“関係ある”って言えるかな?」
今度は、私の方が言葉を失った。
怒りたかったのに、反論の言葉が出てこなかった。
高二の春。
私は理由もなく学校へ行きたくなくなり、けれど行く場所もなく、毎日この海辺で時間を潰していた。
都会から離れたこの小さな町では、どこへ行っても噂になる。
ようやく見つけた“安心できる場所”が、和生の登場で壊された気がした。
彼はクラス委員。
不登校のクラスメイトを気にかけるのも彼の役目。
そう思うと、ますます腹が立った。
三度目に彼がノートを持って現れたとき、私はついに堪えきれず、怒鳴ってしまった。
「クラス委員ってそんなに暇なの?それとも、正義感?不幸な子を助けてあげるヒーローにでもなったつもり?そんなの、ただのお節介だよ。」
傷つけようとして言った。
けれど和生は、怒るでもなく、困るでもなく、ただ黙って、私が吐き出すのを待っていた。
「今日、君のお兄さんが学校に来てたよ。たぶん君の不登校のことで、先生から呼ばれたんだと思う」
彼の声は穏やかで、同情も憐れみもなかった。
ただ、まっすぐで誠実だった。
「先生たちはもう慣れっこみたいだった。お兄さんも“放っておいていい”って言ってた。でも、僕は違うと思う」
「……」
「もしかしたら、余計なお節介かもしれない。でも、君がいつも一人でここにいるのを見てたら、どうしても気になって。もし誰も君の声を聞こうとしないなら、どうやって助けを求めたらいいんだろうって」
彼の目には、真剣な光があった。
まるで“崖の縁に立つ誰か”を見ているような。
きっと和生の中には、生まれつき“誰かを救いたい”という成分があるのだろう。
「心配なんだ、クラスメイトとしてじゃなくて、同い年の人間として。もし僕の思い違いならごめん。でも、助けが必要なら、ちゃんと聞かせてほしい」
その声も、その目も、距離を保ちながらも真っ直ぐだった。
不意に、胸の奥が熱くなった。
和生の言う通りだった。
先生は私を放置し、両親はそばにいなくて、兄は仕事に追われ、友達なんて一人もいなかった。
毎日目が覚めるたび、空気の中に見えない壁が立ちはだかっているようで、
息をすることすら苦しかった。
だから私は毎日海を見ていた。
このまま歩いて、海の底まで行ってしまえば、きっと楽になれる――そう思いながら。
そんな私の計画の中に、和生は突然、乱暴に入り込んできた。
「君は助けが必要なの?」と、まっすぐに。
「もし、私が死にたいって言ったら……どうするの?」
私は悪意を込めてそう言った。
彼を怯えさせて、逃げ出させたかった。
“救う”なんて言葉、子どもの遊びみたいな嘘だと思っていたから。
けれど、和生の目が一瞬で赤く染まった。
涙が光を受けて滲む。
その中に、驚いた自分の顔が映っていた。
――彼は泣いていた。
理由は言わなかった。
けれど、ずっと後になって私は気づいた。
もしかしたら、和生もまた、
どこかで自分を助けたがっていたのかもしれない。
そのことを、まだお互い、知らなかっただけだ。
しばらくのあいだ、和生は「学校へ来い」と一度も言わなかった。
その代わり、彼は毎日のようにノートを持って海辺に現れた。
そして私たちは、言葉を交わすでもなく、ただ並んで底知れぬ海の水平線を見つめた。
ときどき何気ない会話をした。
ときどきは、波の音だけが間を埋めた。
和生があの海を見つめるとき、何を考えているのか、私は知らない。
けれどたまに、彼の横顔がふっと寂しげに見える瞬間があった。
いつもの明るい笑顔とは違う、まるで別の人間みたいに静かな表情。
そのときの彼からは、私と同じ匂いがした。
たぶん私は、その“同類”の気配に、心を許してしまったのだと思う。
「うちの両親、東京で働いててね。ほとんど帰ってこないんだ。本当は家族で引っ越す予定だったけど、私が泣いて嫌がったから、結局このままになっちゃった」
「お兄さんは?」
「怒ってると思う。もともと一緒に行くつもりだったのに、私のせいで足止めを食らったから」
「この町が好きなの?」
和生は少し驚いたように目を瞬かせた。
きっと、私がこの町を“好き”だなんて思わなかったのだろう。
私は首を横に振った。
「怖いだけ。ここには友達がいないし、東京は広すぎて、人が多すぎて、行ってもうまくやれない気がするの」
家族には理解されなかった。
彼らの目には、私はわがままで手のかかる子どもにしか見えない。
「東京はそんなに怖くないよ。人は確かに多いけど」
「委員長はきっと平気だよ。どこに行っても人気者で、東京に行ったらファンクラブができるかもね」
からかうように言うと、和生は照れたように笑い、少しだけ首を振った。
「買いかぶりすぎだよ。でも……ありがとう。実は僕もこの町から離れられない」
「好きだから?」
「違う。僕も……怖いんだ」
「何が?」
和生が何を恐れているのか、私には想像できなかった。
彼は人間関係もうまくやれているように見えたし、少なくとも、私のように失敗ばかりの人間ではなかった。
彼は岩場から軽く飛び降り、砂浜に着地した。
そして、こちらに手を差し伸べた。
「宍戸さん、行ってみたい場所があるんだ。一緒に来てくれる?」
「どこ?」
「行けばわかるよ」
初めての誘いだった。
私は一瞬だけ迷って、それでも断らなかった。
和生の後をついて歩く。
海風の匂いが消え、道の両側に人が増えていく。
町の中心に近づくにつれて、胸の奥にざらついた不安が広がった。
「委員長、そろそろ目的地を教えてくれない?」
「もうすぐだよ。あっ着いた、宍戸さん」
そう言って彼が入ったのは、思ったより大きなチェーンの書店だった。
(なんだ、本を買いに来ただけか……)
心の中で安堵の息をついた、その瞬間――
「若山くん、こんばんは」
和生が声をかけた。
雑誌コーナーに立っていた男子が顔を上げ、「こんばんは」と返す。
驚く様子もない。
「将棋の雑誌、買いに来たの?」
「うん。新しい号が出たから」
若山と呼ばれた彼の視線が、和生から私に移る。
「こんばんは、宍戸さん」
思わず目を見開いた。
どうして、私の名前を?
「若山くんも同じクラスなんだ。将棋がすごく強くてね。大会で何度も入賞してる。先月は東京まで行ったんだよね?」
「うん、一週間だけ」
「東京、どうだった?」
「夜も賑やかだった。こことは全然違う」
「試合の結果は?」
「最後の一戦で負けた。でも、悪くはなかったよ」
ふたりの会話を聞きながら、私は少しずつ緊張を解いた。
「宍戸さん、将棋に興味があるなら、若山くんがきっと教えてくれるよ」
「……もし興味があれば」
話題の終わりは、いつも私だった。
若山は雑誌を手に取り、レジへ向かった。
和生は本を買うでもなく、棚を見渡すでもなく、「行こう」とだけ言って、再び歩き出した。
私たちは書店を出て、そのまま北へ向かった。
人通りが増え、街灯の明かりが連なる商店街の中へと足を踏み入れる。
和生は迷うことなく、コロッケ屋の前で立ち止まった。
まるで常連のようにカウンターの奥へ声をかける。
「こんばんは、平戸くん」
「和生!やっと来たな。ちょうど新しいのを揚げたとこだ。今なら一番サクサクしてるぞ。あ、宍戸さんもどう?初対面の記念に一個おごるよ!」
平戸の声は店内いっぱいに響いた。
その大きな声に合わせて、奥からエプロン姿の女の子が顔を出した。
私たちと同じ制服を着ていて、まるで前から知っていたみたいに軽く会釈してくる。
「宍戸さん、水安さん、こんばんは。……それと大介、声が大きすぎ!」
「大きいほうが呼び込みになるんだって!」
言いながら、平戸は手際よく二つのコロッケを紙袋に包み、私と和生に手渡した。
「ありがとう、平戸くん。それに大原さんも。二人は相変わらず仲いいね」
「な、なに言ってんの!別に仲良くなんかないし!今日はお母さんに頼まれて用事で来ただけ!」
「えっ、じゃあ俺の片思いだったのか〜」
「ば、ばか!声が大きいってば!」
じゃれ合うふたりを横目に、和生が私に小声で説明した。
「平戸くんと大原さんは幼なじみなんだ。大原さんのお母さん、すぐ前の店で和菓子屋をやってるんだよ。そこの最中がすごくおいしいんだ。食べてみる?」
私はしばらく返事もできず、目の前で笑い合う三人をただ見ていた。
まるで別の世界の人たちみたいに、温かくて、まぶしかった。
「さあ、宍戸さんも来て。ちょうど閉店前だから、できたてが食べられるよ!」
大原さんが平戸を軽く突き飛ばして、私と和生を引っ張るように歩き出す。
平戸は「ひどい〜」と情けない声を上げながら、それでも楽しそうに笑っていた。
やがて私の手の中には、桜の花の形をした最中が一つ。
ふんわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
どうして、こんなふうに展開しているのか、頭が追いつかない。
けれど、和生は隣で穏やかに笑っていた。
柔らかな春の光みたいな笑顔で、私にウインクする。
「まだ次があるんだ。行こう、宍戸さん」
和生の歩く速度は早かった。
行きたい場所が多すぎるのだろう。
ぐるぐると商店街を回っているうちに、私は気づけば何人もの同級生と顔を合わせていた。
不思議なことに、誰も私と和生が一緒にいることを驚かなかった。
まるで全部、あらかじめ決められていたシナリオみたいに。
台本も配られ、全員がリハーサルを終えていると、そう感じた。
ただ一人、初めて舞台に立つのは、私だけ。
「委員長、これは一体……」
「あ、最後にもう一か所だけ」
いつの間にか、和生が私の手を握っていた。
その顔には、目的を果たしたような満足の笑みが浮かんでいた。
まるで本当に、私が今日一日で何人もの同級生と“再会”できたことを、心から喜んでいるみたいに。
怒りたいのに、理由が見つからなかった。
そのときようやく気づいた。
和生は、全部分かっていて、わざとやっている。
「美術部の鈴木さんに会おう」
最後の角を曲がったところで、彼は私を鈴木直子のもとへと連れていった。
鈴木は一年前より少し変わっていた。
額を覆う前髪、淡く染まった髪は街灯の下でコーヒー色に光る。
思い出す。
高一の頃、彼女は自販機でいつも無糖の缶コーヒーを買っていた。
クラスの誰も飲まない味を、彼女だけが好んでいた。
「こんばんは。久しぶりだね」
先に口を開いたのは鈴木だった。
私が何も言わないことを見越していたかのように。
おかしい。
今学期、彼女はもう私のクラスではないはずだ。
けれど今日の流れはまるで、同級生おかえりパーティーのようで、彼女はその最後の出演者に選ばれていた。
「久しぶり」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
鈴木は一瞬たじろぎ、助けを求めるように和生を見た。
「鈴木さんが言ってたんだ。宍戸さんが美術部を辞めちゃって、みんな残念がってるって。できれば戻ってきてほしいって」
「……部長からも頼まれて。絶対に宍戸さんを連れ戻してって。学園祭のポスター、宍戸さんの絵が一番だったから。私も、そう思ってる」
私は無表情のまま聞いていた。
頭の奥に、あの夏の日の光景がよみがえる。
眩しい午後、部室の前で、鈴木が他の部員に私の絵を「盗作だ」と笑っていた声。
まるで、別人みたい。
沈黙の中、鈴木は何かを思い出したように、小さく拳を握りしめ、俯いたまま、震える声で言った。
「……もしかして前に、教室で私、宍戸さんのポスターを“パクリだ”って言ったの、聞こえてた?」
「……」
「……ごめんなさい」
鈴木はもう一度、深く頭を下げた。
「自分でも、なんであんなことを言ったのか分からない。きっと嫉妬だった。宍戸さんの絵が、あまりに綺麗だったから。あの日から、あなたが部室に来なくなって……私、ずっと気になってた。部長も、“あのポスターは宍戸が一から描いたものだ”って言ってた。本当に、ごめんなさい。許してくれる?」
震える声に涙が混じった。
その姿を見ていると、なぜか胸が痛んだ。
まるで、悪いのは自分の方のように。
後ろを振り返ると、和生は少し離れた場所に立っていた。
私の視線を受けて、彼は静かに頷き、「大丈夫」と言うように、やわらかく笑った。
再び前を向くと、鈴木は小さく体を丸め、顔を上げられずにいた。
また思い出す。
美術部に入ったばかりの頃、放課後いつも一緒に帰って、互いの絵を見せ合いながら笑っていた日々を。
あのとき、私だけが友達だと思い込んでいたかも。
「……もういいよ」
やっと出た言葉は、驚くほど乾いていた。
鈴木はそれでも頭を下げたまま。
私の“もういい”が、許しなのか諦めなのか、分からなかったのだろう。
胸の奥に、重たい空気がたまっていく。
息がうまくできない。
「……あのときのことなんて、もうどうでもいいから」
そう言っても、自分の中の何かは、まだ少しも癒えていなかった。
家へ帰る道、和生は少し後ろを歩いていた。
「委員長、私……鈴木のこと、許した方がいいのかな」
「宍戸さんは、許したいと思ってる?」
「わからない」
「じゃあ、今は無理に決めなくていいよ。こういうことは、相手より自分の気持ちの方が大事だから」
その声を聞いているうちに、不思議と胸のざらつきが少しずつ溶けていった。
今日一日の重たい気分が、ゆっくりと緩んでいくようだった。
「委員長、今日わざとでしょ。“行きたいところがある”なんて言って、結局いろんな人に会わせたくせに」
「バレちゃったか」
「変なの。怒りたいのに、同時にお礼も言いたい気分」
和生は小さく笑った。
その笑い方は、どこまでも優しかった。
「素直じゃないなぁ。でも、別に大したことはしてないよ。クラスのみんなも、ずっと君のことを気にしてたんだ。長く休んでるから、どうしてるか心配してて」
「うまいこと言うけど、結局学校に来てほしいだけでしょ」
「……うん、まぁ、それも少しはあるけど。でも、それだけじゃない。宍戸さん、集団から離れる時間が長いほど、戻るのが怖くなるってこと、あると思う。もしその“怖さ”が理由なら、僕は伝えたかった。本当はね、その恐ろしいものって、君が思ってるほど大きくないんだよ」
私は何も言わなかった。
ただ、足元の影を見つめたまま歩き続けた。
家の前に着いたとき、和生がもう一度、静かに口を開いた。
「少しでも、学校に行ってみようかなって思えた?」
「わからない。でも今は、委員長の声を聞いてると、頭が痛い」
和生は吹き出して、笑いながら言った。
「そっか。じゃあ今日はもう寝よう。一晩ぐっすり眠ったら、きっと少しは良くなってるから」
*
和生の言葉なんて、全部嘘だった。
目を開けたとき、最初に見えたのは兄の背中だった。
電話を片手に、低い声で誰かを宥めている。
「……まだ寝てる。うん、大丈夫。俺がちゃんと見てるから。母さん、心配しなくていい」
――母さん。
電話の相手は、遠くにいる両親だった。
私は声を出さなかった。
ただ、ぼんやりと視線だけを動かした。
兄の足もと、窓辺の下。
そこには、白い猫が静かに毛づくろいをしていた。
兄には見えていないらしい。
兄と母の会話から察するに、私は部屋で倒れていたようだ。
何日もろくに食べず、眠りもしなかったのだから、当然の結果だろう。
電話を切った兄が振り向いた瞬間、私と目が合い、肩をびくりと震わせた。
握ったスマホがかすかに揺れる。
それでもすぐに顔を整え、私の前にしゃがみこんだ。
「……大丈夫?顔色がすごく悪いよ。お粥作ったんだ。小鉢もある。食べられそう?」
その声はやけに優しくて、今までの彼とはまるで別人みたいだった。
きっと今回は、本当に“死にかけた”のだ。
だから、兄はこんなにも怯えている。
「……出てって」
夢の中で見た和生の姿が、目を覚ました途端、胸の奥をずきりと刺した。
何もかもが嫌になった。
「りんな……」
「出てってって言ったの!」
喉がひりつくほどの声を張り上げた。
けれど、虚しく空気を震わせるだけ。
しばらく沈黙のあと、兄が深く息を吐いた。
「せめて少しでも食べて」
そう言い残して、静かにドアを閉めた。
部屋に残された私は、天井を見つめたまま、身じろぎもせずにいた。
この世界が、今ここで終わってくれたらいいのに。
そんなことばかりを考えていた。
そしてもう一つ。
もし世界が終わるその瞬間、
もう一度だけ、和生に会えたなら、それでいい。
「にゃあ」
そのとき、猫が窓辺から音もなく跳び降り、私のそばにやって来た。
小さな足取りで、私の手のまわりをくるくると回る。
白い尾が左右にゆらゆらと揺れ、やがて枕元から軽やかに跳び上がって、兄が置いた食事の横に座り込んだ。
湯気の立つお粥。
猫はその碗の後ろで足を折り、大きな瞳でまっすぐ私を見つめていた。
その目は、和生のものとは違う。
けれど、なぜか和生の顔が脳裏に浮かぶ。
「……なに」
猫は返事をするように小さく「にゃあ」と鳴いた。
それから、尾でコトンと茶碗の縁を叩く。
食べなさい、そんなふうに聞こえた。
「……いらない」
猫はもう一度鳴いて、前足で碗を軽く叩いた。
まるで諦めないように。
私は顔を背けた。
見たくなかった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
いつの間にか鳴き声は止み、静寂だけが残った。
恐る恐る顔を戻すと、そこにはもう、猫の姿がなかった。
ベッドサイドにも、窓辺にも、机の下にも、どこを見ても、白い影はもういない。
「宍戸さん、ちゃんとごはん食べてる?」
海辺を吹き抜ける風の中、和生がふいにそんなことを言った。
あの日、彼が私をクラスの皆に会わせたあとも、私は結局、学校には戻らなかった。
けれど和生は何も言わず、それまでと同じように毎日、ノートを持って海へやって来た。
放課後、海辺で並んで過ごす時間が、いつの間にか私たちの日課になっていた。
「食べてるよ」
「じゃあ、情報交換しよう。今日何を食べた?僕はね、昼に学校で卵焼きと肉じゃが。自分で作ったんだよ」
「……料理できるんだ」
「話そらしてるでしょ?」
「うん、ばれた。……コンビニのおにぎりよ、今日のご飯」
海沿いの道路を挟んだ向かいに、小さなコンビニが一軒ある。
店主は笑うと目尻がしわになる優しいおじいさんで、何度も通ううちに顔を覚えられてしまった。
けれど、一度も「どうして学校に行かないの」とは聞かれなかった。
だから、あの店が好きだった。
「おにぎりだけじゃだめだよ。栄養が偏っちゃう」
和生の声は、いつも通り柔らかくて、でも少しだけ困っているようでもあった。
「明日、お弁当持ってくるよ。いつも作りすぎて困ってるんだ。でも食べてくれる人がいなくて」
そんなはずない――心の中で思った。
和生みたいな人に、手作りの弁当を分けてもらいたい女子なんて、きっと教室から校門の外まで並んでいる。
けれど、言葉にはしなかった。
彼が本気で“心配している”のを、知っていたから。
私はいつの間にか、その心配にすがるように甘えていた。
「宍戸さん。ちゃんと食べて、ちゃんと眠る。それが、生きてく上で一番大事なことだよ」
和生は、生きていたころ、何度も同じことを言っていた。
三食きちんと、八時間睡眠。
時々、本当に中身はおじいちゃんなんじゃないかと思うくらい、健康の話ばかりする人だった。
だから、プリンもきっと、和生に似たのかもしれない。
カーテンの隙間からこぼれる光が、現実を引き戻した。
静まり返った部屋が、今日はいつもより広く感じた。
プリンがいなくなってからというもの、
本当に世界に私ひとりだけが取り残されたようだった。
ときどき襲ってくる和生の記憶が、
胸の奥を締めつけて、呼吸を奪っていく。
「……プリンちゃん、どこに行ったの?」
私は、誰もいない窓辺に問いかけた。
この町の野良猫なんて、放っておいても自分の居場所を見つけて生きていく。
あのときの私は、そう言って和生の“拾いたい”を笑った。
「拾っちゃったから、もう責任があるんだよ」
けれど、和生は笑いながらそう答えた。
私がごはんを食べなかったから、プリンは姿を隠してしまったのかもしれない。
私が生きることを拒んだから、プリンも私に会うのをやめたのかもしれない。
「……プリンちゃん、ちゃんと食べるから。だから、出てきてよ」
自分でも驚くほど、声はか細かった。
猫がいなくなっても、あのときの仕草が頭から離れない。
私はようやく上体を起こし、兄が置いていったお粥の碗を手に取った。
まだうっすらと湯気が立っている。
ひと口すくって口に入れると、煮崩れた米粒のやさしい甘みが広がった。
何日も空っぽだった胃が、ようやく生きていると実感した。
でも、やっぱり。
和生の作った味には、敵わない。
もう一口。
そして、また一口。
気づけば碗の底が見えていた。
「にゃ」
耳のすぐそばで、小さな声がした。
顔を上げると、そこにプリンがいた。
白い体がやわらかな光のように滲んで見える。
次の瞬間、いとしさに押し流されるように、気づけば涙がこぼれていた。
空になった碗を両手で握りしめ、声を押し殺すように、低く、長く、泣いた。
私は、和生の前で一度だけ泣いたことがある。
それは、和生が走ってきたバイクにはねられたあの日だった。
和生は、私のためにコンビニへ向かっていた。
横断歩道ではちゃんと左右を見て、慎重に渡っていた。
けれど、バイクはどこからともなく突っ込んできた。
あまりに突然で、現実だと気づくまで時間がかかった。
気づいたときには、私は叫びながら和生のもとへ駆け寄っていた。
倒れた和生は、思っていたよりもひどくなかった。
額から血が流れていたけれど、笑っていた。
泣きじゃくる私を見て、困ったように笑いながら、
「大丈夫、宍戸さん。僕は平気、痛くないよ」
何度も、そう言ってくれた。
コンビニの店長のおじいさんが飛び出してきて、救急車を呼んでくれた。
海風が強くなり、潮の匂いが一層濃く漂った。
和生は「風が気持ちいいね」と言って、
私に肩を貸させながら、砂浜に腰を下ろした。
そのときの彼は、まるで何も恐れていないように穏やかだった。
とてもこれから死ぬ人間には見えなかった。
「宍戸さん。僕ね、弟がいたんだ。小さいころに……あの海で、いなくなった」
和生は海を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
その横顔を見て、私はまた涙が止まらなくなった。
震える彼の手を、私は両手で包み込んだ。
これまでで一番近くにいた。
彼の体温が制服越しに伝わってきて、その熱が、なぜか恐ろしく思えた。
「弟がいなくなったときは、みんな悲しんでた。でも、年月が経つにつれて、誰ももう話題にしなくなった。父さんも母さんも、弟の名前を出さない。たぶん、僕だけなんだ。あの日、波にさらわれるのをこの目で見たのは、僕だけだから」
ゆっくり、ひとつひとつ言葉を選ぶように。
その声を聞きながら、私はようやく理解した。
和生が「この町を離れられない」と言っていた理由。
彼は、本当に“ここ”を離れるのが怖かったのだ。
この場所を離れたら、弟の記憶までもが、この世界から消えてしまう気がして。
「もう、話さないで……お願い」
私がそう言うと、和生は少し笑って、右手の小指を差し出した。
「宍戸さん、約束しよう。これからも、前を向いて生きていくって」
私は動けなかった。
涙で視界が滲み、彼の言葉が遠く霞んでいく。
前を向いて、生きていく。
一緒に、生きる。
和生は、あんなにも生を大切にしていた。
過去の痛みを抱えて、それでも誰よりもまっすぐに。
……なのに、死んだのは、彼の方だった。
救急車に乗って病院へ着くまで、和生はずっと笑っていた。
けれど、ベッドに横たわってから、そのまま静かに意識を失った。
「内臓の損傷が大きかった……最善は尽くしました」
医者が、駆けつけた両親にそう告げる声が聞こえた。
信じられなかった。
和生の体には、命を奪うような傷なんてどこにもなかったのに。
もしかして、彼は自分で分かっていたんじゃないか。
そう思ってしまった。
自分の死期を感じて、だからあの日、あの話をしてくれたのか。
弟のことを、私に託すために。
もし彼が死んでも、
この世界のどこかに“彼の弟を覚えている人間”がいればいい。
たとえ、彼の両親がすべてを忘れても。
私が、覚えていればいい。
そんな考えが頭をかすめた瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。
私は卑怯だった。
さらに卑怯だったのは、泣き声を聞くのが怖くて、彼の両親が病室で泣き崩れる前に逃げ出した。
病院を飛び出し、そのまま、海沿いの道を走り、家にたどり着いた。
それから私は、自分の部屋から一歩も出られなくなった。
たぶん――プリンが現れてからだ。
目を閉じるたびに、思い浮かぶのは和生の笑顔になった。
私と和生の関係を、どう言葉にすればいいのか分からない。
あの時間、毎日一緒にいたのに、“友達”という言葉では足りない気がした。
和生は、私がいちばん孤独だったときに現れた。
それなのに、私は一度も「ありがとう」と言えなかった。
夢の中の和生は、いつも優しかった。
一度も、私を責めなかった。
『宍戸さん、ちゃんとごはん食べて、ちゃんと眠ってね』
『学校に行けなくてもいい。君の気持ちがいちばん大事なんだ』
『約束しよう、前を向いて――生きていこう』
私は夢の中で笑い、泣き、泣きながら目を覚まして、また笑ってしまう。
「にゃ」
足もとで、プリンが尾をふわふわと揺らしながら私のまわりをくるくる回った。
そのやわらかい尻尾が、ふくらはぎを軽く叩く。
けれど何も感じなかった。
だって、プリンは本当は存在しない。
私の心がつくり出した幻だ。
「……あなた、和生が私を見張らせるために来たの?」
そう尋ねると、プリンは尻尾をさらに大きく揺らした。
「じゃあ、どうして和生本人が来ないの?」
「にゃ、にゃあ」
プリンは小さく首をかしげ、否定するように鳴いた。
私はどうしようもなく思った。
もし願いが叶うなら、猫じゃなくて、和生に会いたい。
けれど、もし本当に和生が現れたら、私はきっと、その瞬間に罪悪感で押しつぶされてしまうだろう。
何日も続けて、プリンは私を見張っていた。
食事の時間も、眠る時間も。
外はいつの間にか雲が厚くなり、窓の向こうの光が鈍く揺れていた。
空気の重さが、何かを告げようとしているようだった。
「りんな?ごはん、食べた?」
兄の声が、ドア越しに聞こえた。
その声音がいつもより静かで、少しだけ掠れていた。
食べ終えた食器を片づけに来たのだ。
私はドアを少しだけ開け、隙間から空になった茶碗を差し出した。
兄は受け取りながら、私がちゃんと食べたことにほっとしたように微笑み、
「何か食べたいものある?」と優しく聞いた。
そのとき――
プリンがベッドからひらりと飛び降り、私の足もとをすり抜けてドアの前に座り込んだ。
そして、まるで外にいる兄を見上げるように顔を上げた。
そう、私にはそう見えた。
けれど、次の瞬間。
何の前触れもなく、プリンはドアの隙間から駆け出してしまった。
「だめ!」
思わず叫び、私はドアを開けて飛び出した。
兄の目には、突然泣き叫んで部屋を飛び出した私は、きっと正気を失ったように見えただろう。
でも、そんなことを気にしている余裕はなかった。
頭の中は“プリンがいなくなる”という恐怖でいっぱいだった。
幸い、プリンは玄関までは行かず、リビングの真ん中で立ち止まっていた。
私は息を吐き、胸をなでおろす。
……だが、安堵したのも束の間、胸の奥に重たい違和感が広がった。
リビングの空気が、妙に静まり返っている。
ソファの上には、きれいにアイロンがけされた制服。
そのすぐ横で、黒いスーツを着た兄が、静かにこちらを見ていた。
「りんな。……今日は、和生の葬儀なんだ」
兄の言葉が、胸の奥に鈍く響いた。
その一言で、すべてを理解した。
プリンが逃げた理由も、兄がこんな服を着ている理由も。
私は力が抜け、その場に崩れ落ちた。
プリンは、まるで何も知らないふりをして、
私の制服の横に座り込み、静かな瞳でこちらを見つめていた。
和生がもう、この世にいない。
その事実が、この瞬間になってようやく現実として襲いかかってきた。
逃げ場なんて、どこにもなかった。
「りんな……無理しなくていい。家にいてもいいんだよ。兄さんが代わりに行くから」
兄は声を落とし、優しく言った。
けれど私は、ただプリンを見ていた。
その白い体を見ながら、唇が勝手に動いた。
「……行く。私も行く」
それは、感謝のためか、償いのためか。
自分でも分からなかった。
ただ、どうしても“和生に会いに行かなければ”と思った。
プリンは小さく跳ね、嬉しそうに私の足もとをくるくる回った。
兄も一瞬驚いたように目を瞬かせ、そして静かに頷いた。
「分かった。車で待ってる。準備ができたら来て」
部屋に戻って制服に袖を通した。
プリンはその間ずっと、私の周りを回り続けていた。
まるで「大丈夫、ちゃんと見てるよ」と言うように。
けれど、玄関のドアを開けた瞬間、もうそこにはいなかった。
冬の光が、思っていたよりもまぶしかった。
冷たいはずの空気の中で、太陽の熱だけが鋭く肌を刺した。
一瞬、白く光るものが視界をよぎった。
プリンの毛のような輝き。
そして、そのすぐ向こう。
玄関の階段の上に、寄りかかるように立っている和生の姿が見えた。
――幻覚だ。
そう思った。
それでも、私は足を止めずに通り過ぎた。
そのとき、風の音にまぎれて、
懐かしい声が耳の奥でささやいた。
『宍戸さん、前を向いて』
『僕は、いつも君の後ろにいるから』
それも幻聴だったのかもしれない。
それでも、私は情けないほど泣いてしまった。
顔を上げたときには、もう和生の姿はなかった。
けれど、その瞬間、私の中に初めて“前へ進もう”という小さな勇気が灯った。
和生は、私が二度も死にたいと思ったとき、必ずそばに現れてくれた。
そのたびに、彼なりの方法で私を生かしてくれた。
もう、彼のような人には出会えないだろう。
けれど、和生が残した約束だけは、これからも私を支え続ける。
「……ありがとう」
遠く、海から吹く風が頬を撫でた。
冬の陽射しはまぶしくて、こぼれた涙の跡をやさしく照らしていく。
空は高く、どこまでも澄んでいて、まるで和生がいつも見上げていた空と同じ色だった。
私はしばらく、その場に立ち尽くした。
風の音と、自分の鼓動だけが耳の奥で響いていた。
その静けさの中で、ようやく息を吸い込むことができた気がした。
前を向いて、生きていく。
和生が教えてくれたように。
いつかこの世界にも、きっとまた――
光が差す日が来る。
音もなく、動きもなく、まるでプロジェクターが投影した幻影か、精巧な動物の彫像のようだった。
それを目にした瞬間、私は、これはきっと二日間の断食と、ろくに眠っていないせいで見た幻覚だと思った。
なにしろ、窓は長いあいだ閉めきったままで、窓辺には灰が積もっている。
ドアの鍵も今日だけで十三回は確認した。
錠がゆるんでいないか、外からこじ開けようとする者はいないか、 そして私が、たった五畳のこの部屋の中で――外界から完全に切り離された「安全圏」にいることを、確かめるために。
この三日間、私はドアから一瞬たりとも目を離さず、
誰かが開けようとする気配を遮断するように耳を塞いだ。
外から聞こえる「開けて」と呼ぶ声を拒み続けた。
完璧な防御。誰も入れない。私は自分だけのシェルターに閉じこもることに成功した――そう思っていた。
なのに、いまそこに、一匹の猫がいる。
忌々しい、猫だ。
その猫は、ほとんど動かなかった。
まるで、最初から存在などしていなかったかのように。
かすかに胸が上下している。それだけが、かろうじて生きている証だった。
普通の猫のように部屋を走り回ることも、毛づくろいをすることもない。
鳴かず、あくびもせず、ましてや私の足もとに擦り寄ってくることもなかった。
まるで空腹も喉の渇きも感じないかのように、窓際の下で小さく身を丸め、外から差し込む陽光をその体に受けていた。
光はその華奢な輪郭を透かすように照らし、猫の身体を淡く透明にしていった。
私は身体を硬直させたまま、動けずにいた。
この猫が現れてから、私と猫は部屋の両端で向かい合い、互いに避けられる限りの距離を保っている。
視線をそらさずにいると、時間の流れが止まってしまったようだった。
無意識のうちに、私たちは“どちらが先に耐えきれなくなるか”という、無言の競争を始めていたのかもしれない。
結果は言うまでもない。
私の方が先に限界を迎え、体力の尽きた身体を眠りに落とすまで、猫はあの姿勢のまま、ただそこにいた。
勝手に現れて、この部屋の主である私をまるで無視するその態度。……腹立たしいにもほどがある。
「ねぇって――!」
夢の中でも、目を覚ましてからも、私の胸の奥には、どうしようもない怒りが渦巻いていた。
理由はただひとつ――あの、訳の分からない猫のせいだ。
起き上がった途端、喉が焼けるように痛むのも構わず、私はその猫に向かって怒鳴り散らした。
けれど、近づくことだけは、どうしてもできなかった。
「どこから入ってきたんだよ!」
「さっさと自分のいた場所に戻れ!」
「ここはあんたのいるところじゃない、聞こえてるのかよ!」
どんなに叫んでも、猫はぴくりとも動かない。
まるで耳という器官そのものを持たないように、沈黙を貫いていた。
声が枯れ、息が切れて、私が再び静かに観察を始めたそのとき――
背後の扉が、こん、こん、と叩かれた。
「りんな……」
疲れきった兄の声が、上の方から落ちてきた。
まるで懇願するように。
「和生くんの……葬式の日が決まった」
――その瞬間、脳の奥で何かが爆ぜた。
強い衝撃音が全身を駆け抜け、耳の奥のすべての音が消えた。
同時に、窓際の子猫がぴくりと耳を動かした。
そして、ゆっくりと、まるで時間を引き延ばした映像のように、頭を持ち上げ、体を起こした。
私は息をのんで、それを見つめた。
純白の毛並み。
光を反射してきらめくほどの白。
顔の三分の二を占めるほど大きく、透き通った青い瞳。
――子猫だ、と思った。
だが次の瞬間、目に飛び込んできたのは首にかけられた黒い紐。
その紐の先には、ざらついたプラスチックのタグ。
見覚えのあるブランドのロゴ。
その光景を見た途端、“何か”が私の全身を支配した。
冷たい感覚が嵐のように一気に広がる。
空気が一瞬で十度も下がったように、肌が粟立った。
「……プリンちゃん」
私はその名を口にした。
子猫が、前足を一歩、私の方へ踏み出す。
「プリンちゃん、だよね」
確信した瞬間、身体の奥まで冷えきっていく。
内臓までも凍りつくように痛い。
鼻が詰まり、息ができず、思わず口を開けて荒く空気を吸い込む。
「……プリンだ」
そう繰り返した直後、信じられないという衝撃で、私は背中からドアに倒れ込んだ。
鈍い音が部屋に響く。
「どうした!?りんな、何があった!?」
ドアの向こうで兄が慌てる声を上げた。
けれど、もう答える余裕なんてなかった。
私の視界には、こちらへとゆっくり歩いてくる小さな白い影しか映っていなかった。
その首元で、銀色の名札がゆらりと揺れている。
――プリン。
その名をつけたのは、ほかでもない私だ。
プラスチックのタグを結んだのも、私。
あのとき、コンビニで買った一番安いプリンを手にしていたから。
けれど、その猫は――私の猫じゃない。
和生の猫だった。
和生と出会ってからというもの、私はよく考えていた。
和生って、どんなタイプの男の子なんだろう。
彼は太陽みたいだった。
明るくて、誰にでも分け隔てなく優しくて、両親にたっぷりの愛情を注がれて育ったんだろうと思わせるような、まっすぐな笑顔をしていた。
世界の“悪意”なんて知らない。
それでも臆せず、すべてを愛し、すべてに勇気を向ける。
そんな人だった。
和生のことを知ってから気づいた。
彼には数えきれない“良さ”があった。
私にとって、まぎれもなく太陽のような存在だった。
出会う前の私は、ただ教室の女子たちの噂でその名前を耳にしていただけ。
成績がよくて、顔はもっとよくて、他クラスの誰かがまたラブレターを渡したけれど、彼はいつも穏やかに断るんだって。
和生のことが好きな子はたくさんいる。
和生を嫌う人なんて、ほとんどいない。
恋の始まりに気づく年頃、あんなに眩しい人は、憧れにも幻にもなり得る。
……ただし、私を除いて。
初めて彼が声をかけてきたのは、海沿いの町の外れ、波打ち際に突き出た岩の上だった。
私は、風ひとつない鏡のような海面をぼんやりと眺めていた。
「やあ、こんにちは」
和生の声は、少し幼さを残したまま、それでいて不思議と心地よい低音を含んでいた。
「いつもここにいるけど、何を見てるの?」
見知らぬ相手に声をかけながらも、彼はまったく臆さなかった。
同じ制服を着ていたせいで、きっと私のことも、学校で彼に群がる無邪気な女子たちの一人だと思ったのだろう。
確かに、和生は“完璧な優等生”だった。
けれど、そんな無防備な距離の詰め方に、私は妙な怒りを覚えた。
「あなたに関係ないでしょ」
言葉を投げつけると、和生は驚いたように目を瞬かせ、それから、ほんの少し困ったように笑った。
その笑顔は、嘘くさくなかった。
目尻がやわらかく下がって、本当に心から笑っているようだった。
「いつもここで見かけるから、ちょっと気になって、何を見てるのかなって」
そう言って、一歩前へ進み、私の隣から同じように海を見た。
「きれいだね」
和生は小さくつぶやいた。
「毎日通ってる道だから、見慣れてると思ってたけど、こうしてじっくり見ると、やっぱり見惚れちゃうね」
私は眉をひそめ、彼の“無遠慮”にうんざりして黙り込んだ。
けれど彼は、そんな私の拒絶を感じ取ることなく、話を続けた。
「いつもこうして見てるけど、何を考えてるの?」
「……あなたに関係ないでしょ」
同じ言葉を繰り返すと、彼は今度は驚くどころか、嬉しそうに笑った。
「宍戸さん。僕、今学期の君のクラス委員なんだ」
そう言いながら、鞄から一束のプリントを取り出した。
透明なファイルに丁寧にまとめられたノート。
それは、私が学校を休んでいた間に、彼が代わりにまとめてくれた授業の記録だった。
「これで、少しは“関係ある”って言えるかな?」
今度は、私の方が言葉を失った。
怒りたかったのに、反論の言葉が出てこなかった。
高二の春。
私は理由もなく学校へ行きたくなくなり、けれど行く場所もなく、毎日この海辺で時間を潰していた。
都会から離れたこの小さな町では、どこへ行っても噂になる。
ようやく見つけた“安心できる場所”が、和生の登場で壊された気がした。
彼はクラス委員。
不登校のクラスメイトを気にかけるのも彼の役目。
そう思うと、ますます腹が立った。
三度目に彼がノートを持って現れたとき、私はついに堪えきれず、怒鳴ってしまった。
「クラス委員ってそんなに暇なの?それとも、正義感?不幸な子を助けてあげるヒーローにでもなったつもり?そんなの、ただのお節介だよ。」
傷つけようとして言った。
けれど和生は、怒るでもなく、困るでもなく、ただ黙って、私が吐き出すのを待っていた。
「今日、君のお兄さんが学校に来てたよ。たぶん君の不登校のことで、先生から呼ばれたんだと思う」
彼の声は穏やかで、同情も憐れみもなかった。
ただ、まっすぐで誠実だった。
「先生たちはもう慣れっこみたいだった。お兄さんも“放っておいていい”って言ってた。でも、僕は違うと思う」
「……」
「もしかしたら、余計なお節介かもしれない。でも、君がいつも一人でここにいるのを見てたら、どうしても気になって。もし誰も君の声を聞こうとしないなら、どうやって助けを求めたらいいんだろうって」
彼の目には、真剣な光があった。
まるで“崖の縁に立つ誰か”を見ているような。
きっと和生の中には、生まれつき“誰かを救いたい”という成分があるのだろう。
「心配なんだ、クラスメイトとしてじゃなくて、同い年の人間として。もし僕の思い違いならごめん。でも、助けが必要なら、ちゃんと聞かせてほしい」
その声も、その目も、距離を保ちながらも真っ直ぐだった。
不意に、胸の奥が熱くなった。
和生の言う通りだった。
先生は私を放置し、両親はそばにいなくて、兄は仕事に追われ、友達なんて一人もいなかった。
毎日目が覚めるたび、空気の中に見えない壁が立ちはだかっているようで、
息をすることすら苦しかった。
だから私は毎日海を見ていた。
このまま歩いて、海の底まで行ってしまえば、きっと楽になれる――そう思いながら。
そんな私の計画の中に、和生は突然、乱暴に入り込んできた。
「君は助けが必要なの?」と、まっすぐに。
「もし、私が死にたいって言ったら……どうするの?」
私は悪意を込めてそう言った。
彼を怯えさせて、逃げ出させたかった。
“救う”なんて言葉、子どもの遊びみたいな嘘だと思っていたから。
けれど、和生の目が一瞬で赤く染まった。
涙が光を受けて滲む。
その中に、驚いた自分の顔が映っていた。
――彼は泣いていた。
理由は言わなかった。
けれど、ずっと後になって私は気づいた。
もしかしたら、和生もまた、
どこかで自分を助けたがっていたのかもしれない。
そのことを、まだお互い、知らなかっただけだ。
しばらくのあいだ、和生は「学校へ来い」と一度も言わなかった。
その代わり、彼は毎日のようにノートを持って海辺に現れた。
そして私たちは、言葉を交わすでもなく、ただ並んで底知れぬ海の水平線を見つめた。
ときどき何気ない会話をした。
ときどきは、波の音だけが間を埋めた。
和生があの海を見つめるとき、何を考えているのか、私は知らない。
けれどたまに、彼の横顔がふっと寂しげに見える瞬間があった。
いつもの明るい笑顔とは違う、まるで別の人間みたいに静かな表情。
そのときの彼からは、私と同じ匂いがした。
たぶん私は、その“同類”の気配に、心を許してしまったのだと思う。
「うちの両親、東京で働いててね。ほとんど帰ってこないんだ。本当は家族で引っ越す予定だったけど、私が泣いて嫌がったから、結局このままになっちゃった」
「お兄さんは?」
「怒ってると思う。もともと一緒に行くつもりだったのに、私のせいで足止めを食らったから」
「この町が好きなの?」
和生は少し驚いたように目を瞬かせた。
きっと、私がこの町を“好き”だなんて思わなかったのだろう。
私は首を横に振った。
「怖いだけ。ここには友達がいないし、東京は広すぎて、人が多すぎて、行ってもうまくやれない気がするの」
家族には理解されなかった。
彼らの目には、私はわがままで手のかかる子どもにしか見えない。
「東京はそんなに怖くないよ。人は確かに多いけど」
「委員長はきっと平気だよ。どこに行っても人気者で、東京に行ったらファンクラブができるかもね」
からかうように言うと、和生は照れたように笑い、少しだけ首を振った。
「買いかぶりすぎだよ。でも……ありがとう。実は僕もこの町から離れられない」
「好きだから?」
「違う。僕も……怖いんだ」
「何が?」
和生が何を恐れているのか、私には想像できなかった。
彼は人間関係もうまくやれているように見えたし、少なくとも、私のように失敗ばかりの人間ではなかった。
彼は岩場から軽く飛び降り、砂浜に着地した。
そして、こちらに手を差し伸べた。
「宍戸さん、行ってみたい場所があるんだ。一緒に来てくれる?」
「どこ?」
「行けばわかるよ」
初めての誘いだった。
私は一瞬だけ迷って、それでも断らなかった。
和生の後をついて歩く。
海風の匂いが消え、道の両側に人が増えていく。
町の中心に近づくにつれて、胸の奥にざらついた不安が広がった。
「委員長、そろそろ目的地を教えてくれない?」
「もうすぐだよ。あっ着いた、宍戸さん」
そう言って彼が入ったのは、思ったより大きなチェーンの書店だった。
(なんだ、本を買いに来ただけか……)
心の中で安堵の息をついた、その瞬間――
「若山くん、こんばんは」
和生が声をかけた。
雑誌コーナーに立っていた男子が顔を上げ、「こんばんは」と返す。
驚く様子もない。
「将棋の雑誌、買いに来たの?」
「うん。新しい号が出たから」
若山と呼ばれた彼の視線が、和生から私に移る。
「こんばんは、宍戸さん」
思わず目を見開いた。
どうして、私の名前を?
「若山くんも同じクラスなんだ。将棋がすごく強くてね。大会で何度も入賞してる。先月は東京まで行ったんだよね?」
「うん、一週間だけ」
「東京、どうだった?」
「夜も賑やかだった。こことは全然違う」
「試合の結果は?」
「最後の一戦で負けた。でも、悪くはなかったよ」
ふたりの会話を聞きながら、私は少しずつ緊張を解いた。
「宍戸さん、将棋に興味があるなら、若山くんがきっと教えてくれるよ」
「……もし興味があれば」
話題の終わりは、いつも私だった。
若山は雑誌を手に取り、レジへ向かった。
和生は本を買うでもなく、棚を見渡すでもなく、「行こう」とだけ言って、再び歩き出した。
私たちは書店を出て、そのまま北へ向かった。
人通りが増え、街灯の明かりが連なる商店街の中へと足を踏み入れる。
和生は迷うことなく、コロッケ屋の前で立ち止まった。
まるで常連のようにカウンターの奥へ声をかける。
「こんばんは、平戸くん」
「和生!やっと来たな。ちょうど新しいのを揚げたとこだ。今なら一番サクサクしてるぞ。あ、宍戸さんもどう?初対面の記念に一個おごるよ!」
平戸の声は店内いっぱいに響いた。
その大きな声に合わせて、奥からエプロン姿の女の子が顔を出した。
私たちと同じ制服を着ていて、まるで前から知っていたみたいに軽く会釈してくる。
「宍戸さん、水安さん、こんばんは。……それと大介、声が大きすぎ!」
「大きいほうが呼び込みになるんだって!」
言いながら、平戸は手際よく二つのコロッケを紙袋に包み、私と和生に手渡した。
「ありがとう、平戸くん。それに大原さんも。二人は相変わらず仲いいね」
「な、なに言ってんの!別に仲良くなんかないし!今日はお母さんに頼まれて用事で来ただけ!」
「えっ、じゃあ俺の片思いだったのか〜」
「ば、ばか!声が大きいってば!」
じゃれ合うふたりを横目に、和生が私に小声で説明した。
「平戸くんと大原さんは幼なじみなんだ。大原さんのお母さん、すぐ前の店で和菓子屋をやってるんだよ。そこの最中がすごくおいしいんだ。食べてみる?」
私はしばらく返事もできず、目の前で笑い合う三人をただ見ていた。
まるで別の世界の人たちみたいに、温かくて、まぶしかった。
「さあ、宍戸さんも来て。ちょうど閉店前だから、できたてが食べられるよ!」
大原さんが平戸を軽く突き飛ばして、私と和生を引っ張るように歩き出す。
平戸は「ひどい〜」と情けない声を上げながら、それでも楽しそうに笑っていた。
やがて私の手の中には、桜の花の形をした最中が一つ。
ふんわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
どうして、こんなふうに展開しているのか、頭が追いつかない。
けれど、和生は隣で穏やかに笑っていた。
柔らかな春の光みたいな笑顔で、私にウインクする。
「まだ次があるんだ。行こう、宍戸さん」
和生の歩く速度は早かった。
行きたい場所が多すぎるのだろう。
ぐるぐると商店街を回っているうちに、私は気づけば何人もの同級生と顔を合わせていた。
不思議なことに、誰も私と和生が一緒にいることを驚かなかった。
まるで全部、あらかじめ決められていたシナリオみたいに。
台本も配られ、全員がリハーサルを終えていると、そう感じた。
ただ一人、初めて舞台に立つのは、私だけ。
「委員長、これは一体……」
「あ、最後にもう一か所だけ」
いつの間にか、和生が私の手を握っていた。
その顔には、目的を果たしたような満足の笑みが浮かんでいた。
まるで本当に、私が今日一日で何人もの同級生と“再会”できたことを、心から喜んでいるみたいに。
怒りたいのに、理由が見つからなかった。
そのときようやく気づいた。
和生は、全部分かっていて、わざとやっている。
「美術部の鈴木さんに会おう」
最後の角を曲がったところで、彼は私を鈴木直子のもとへと連れていった。
鈴木は一年前より少し変わっていた。
額を覆う前髪、淡く染まった髪は街灯の下でコーヒー色に光る。
思い出す。
高一の頃、彼女は自販機でいつも無糖の缶コーヒーを買っていた。
クラスの誰も飲まない味を、彼女だけが好んでいた。
「こんばんは。久しぶりだね」
先に口を開いたのは鈴木だった。
私が何も言わないことを見越していたかのように。
おかしい。
今学期、彼女はもう私のクラスではないはずだ。
けれど今日の流れはまるで、同級生おかえりパーティーのようで、彼女はその最後の出演者に選ばれていた。
「久しぶり」
自分でも驚くほど冷たい声が出た。
鈴木は一瞬たじろぎ、助けを求めるように和生を見た。
「鈴木さんが言ってたんだ。宍戸さんが美術部を辞めちゃって、みんな残念がってるって。できれば戻ってきてほしいって」
「……部長からも頼まれて。絶対に宍戸さんを連れ戻してって。学園祭のポスター、宍戸さんの絵が一番だったから。私も、そう思ってる」
私は無表情のまま聞いていた。
頭の奥に、あの夏の日の光景がよみがえる。
眩しい午後、部室の前で、鈴木が他の部員に私の絵を「盗作だ」と笑っていた声。
まるで、別人みたい。
沈黙の中、鈴木は何かを思い出したように、小さく拳を握りしめ、俯いたまま、震える声で言った。
「……もしかして前に、教室で私、宍戸さんのポスターを“パクリだ”って言ったの、聞こえてた?」
「……」
「……ごめんなさい」
鈴木はもう一度、深く頭を下げた。
「自分でも、なんであんなことを言ったのか分からない。きっと嫉妬だった。宍戸さんの絵が、あまりに綺麗だったから。あの日から、あなたが部室に来なくなって……私、ずっと気になってた。部長も、“あのポスターは宍戸が一から描いたものだ”って言ってた。本当に、ごめんなさい。許してくれる?」
震える声に涙が混じった。
その姿を見ていると、なぜか胸が痛んだ。
まるで、悪いのは自分の方のように。
後ろを振り返ると、和生は少し離れた場所に立っていた。
私の視線を受けて、彼は静かに頷き、「大丈夫」と言うように、やわらかく笑った。
再び前を向くと、鈴木は小さく体を丸め、顔を上げられずにいた。
また思い出す。
美術部に入ったばかりの頃、放課後いつも一緒に帰って、互いの絵を見せ合いながら笑っていた日々を。
あのとき、私だけが友達だと思い込んでいたかも。
「……もういいよ」
やっと出た言葉は、驚くほど乾いていた。
鈴木はそれでも頭を下げたまま。
私の“もういい”が、許しなのか諦めなのか、分からなかったのだろう。
胸の奥に、重たい空気がたまっていく。
息がうまくできない。
「……あのときのことなんて、もうどうでもいいから」
そう言っても、自分の中の何かは、まだ少しも癒えていなかった。
家へ帰る道、和生は少し後ろを歩いていた。
「委員長、私……鈴木のこと、許した方がいいのかな」
「宍戸さんは、許したいと思ってる?」
「わからない」
「じゃあ、今は無理に決めなくていいよ。こういうことは、相手より自分の気持ちの方が大事だから」
その声を聞いているうちに、不思議と胸のざらつきが少しずつ溶けていった。
今日一日の重たい気分が、ゆっくりと緩んでいくようだった。
「委員長、今日わざとでしょ。“行きたいところがある”なんて言って、結局いろんな人に会わせたくせに」
「バレちゃったか」
「変なの。怒りたいのに、同時にお礼も言いたい気分」
和生は小さく笑った。
その笑い方は、どこまでも優しかった。
「素直じゃないなぁ。でも、別に大したことはしてないよ。クラスのみんなも、ずっと君のことを気にしてたんだ。長く休んでるから、どうしてるか心配してて」
「うまいこと言うけど、結局学校に来てほしいだけでしょ」
「……うん、まぁ、それも少しはあるけど。でも、それだけじゃない。宍戸さん、集団から離れる時間が長いほど、戻るのが怖くなるってこと、あると思う。もしその“怖さ”が理由なら、僕は伝えたかった。本当はね、その恐ろしいものって、君が思ってるほど大きくないんだよ」
私は何も言わなかった。
ただ、足元の影を見つめたまま歩き続けた。
家の前に着いたとき、和生がもう一度、静かに口を開いた。
「少しでも、学校に行ってみようかなって思えた?」
「わからない。でも今は、委員長の声を聞いてると、頭が痛い」
和生は吹き出して、笑いながら言った。
「そっか。じゃあ今日はもう寝よう。一晩ぐっすり眠ったら、きっと少しは良くなってるから」
*
和生の言葉なんて、全部嘘だった。
目を開けたとき、最初に見えたのは兄の背中だった。
電話を片手に、低い声で誰かを宥めている。
「……まだ寝てる。うん、大丈夫。俺がちゃんと見てるから。母さん、心配しなくていい」
――母さん。
電話の相手は、遠くにいる両親だった。
私は声を出さなかった。
ただ、ぼんやりと視線だけを動かした。
兄の足もと、窓辺の下。
そこには、白い猫が静かに毛づくろいをしていた。
兄には見えていないらしい。
兄と母の会話から察するに、私は部屋で倒れていたようだ。
何日もろくに食べず、眠りもしなかったのだから、当然の結果だろう。
電話を切った兄が振り向いた瞬間、私と目が合い、肩をびくりと震わせた。
握ったスマホがかすかに揺れる。
それでもすぐに顔を整え、私の前にしゃがみこんだ。
「……大丈夫?顔色がすごく悪いよ。お粥作ったんだ。小鉢もある。食べられそう?」
その声はやけに優しくて、今までの彼とはまるで別人みたいだった。
きっと今回は、本当に“死にかけた”のだ。
だから、兄はこんなにも怯えている。
「……出てって」
夢の中で見た和生の姿が、目を覚ました途端、胸の奥をずきりと刺した。
何もかもが嫌になった。
「りんな……」
「出てってって言ったの!」
喉がひりつくほどの声を張り上げた。
けれど、虚しく空気を震わせるだけ。
しばらく沈黙のあと、兄が深く息を吐いた。
「せめて少しでも食べて」
そう言い残して、静かにドアを閉めた。
部屋に残された私は、天井を見つめたまま、身じろぎもせずにいた。
この世界が、今ここで終わってくれたらいいのに。
そんなことばかりを考えていた。
そしてもう一つ。
もし世界が終わるその瞬間、
もう一度だけ、和生に会えたなら、それでいい。
「にゃあ」
そのとき、猫が窓辺から音もなく跳び降り、私のそばにやって来た。
小さな足取りで、私の手のまわりをくるくると回る。
白い尾が左右にゆらゆらと揺れ、やがて枕元から軽やかに跳び上がって、兄が置いた食事の横に座り込んだ。
湯気の立つお粥。
猫はその碗の後ろで足を折り、大きな瞳でまっすぐ私を見つめていた。
その目は、和生のものとは違う。
けれど、なぜか和生の顔が脳裏に浮かぶ。
「……なに」
猫は返事をするように小さく「にゃあ」と鳴いた。
それから、尾でコトンと茶碗の縁を叩く。
食べなさい、そんなふうに聞こえた。
「……いらない」
猫はもう一度鳴いて、前足で碗を軽く叩いた。
まるで諦めないように。
私は顔を背けた。
見たくなかった。
どれくらい時間が経ったのだろう。
いつの間にか鳴き声は止み、静寂だけが残った。
恐る恐る顔を戻すと、そこにはもう、猫の姿がなかった。
ベッドサイドにも、窓辺にも、机の下にも、どこを見ても、白い影はもういない。
「宍戸さん、ちゃんとごはん食べてる?」
海辺を吹き抜ける風の中、和生がふいにそんなことを言った。
あの日、彼が私をクラスの皆に会わせたあとも、私は結局、学校には戻らなかった。
けれど和生は何も言わず、それまでと同じように毎日、ノートを持って海へやって来た。
放課後、海辺で並んで過ごす時間が、いつの間にか私たちの日課になっていた。
「食べてるよ」
「じゃあ、情報交換しよう。今日何を食べた?僕はね、昼に学校で卵焼きと肉じゃが。自分で作ったんだよ」
「……料理できるんだ」
「話そらしてるでしょ?」
「うん、ばれた。……コンビニのおにぎりよ、今日のご飯」
海沿いの道路を挟んだ向かいに、小さなコンビニが一軒ある。
店主は笑うと目尻がしわになる優しいおじいさんで、何度も通ううちに顔を覚えられてしまった。
けれど、一度も「どうして学校に行かないの」とは聞かれなかった。
だから、あの店が好きだった。
「おにぎりだけじゃだめだよ。栄養が偏っちゃう」
和生の声は、いつも通り柔らかくて、でも少しだけ困っているようでもあった。
「明日、お弁当持ってくるよ。いつも作りすぎて困ってるんだ。でも食べてくれる人がいなくて」
そんなはずない――心の中で思った。
和生みたいな人に、手作りの弁当を分けてもらいたい女子なんて、きっと教室から校門の外まで並んでいる。
けれど、言葉にはしなかった。
彼が本気で“心配している”のを、知っていたから。
私はいつの間にか、その心配にすがるように甘えていた。
「宍戸さん。ちゃんと食べて、ちゃんと眠る。それが、生きてく上で一番大事なことだよ」
和生は、生きていたころ、何度も同じことを言っていた。
三食きちんと、八時間睡眠。
時々、本当に中身はおじいちゃんなんじゃないかと思うくらい、健康の話ばかりする人だった。
だから、プリンもきっと、和生に似たのかもしれない。
カーテンの隙間からこぼれる光が、現実を引き戻した。
静まり返った部屋が、今日はいつもより広く感じた。
プリンがいなくなってからというもの、
本当に世界に私ひとりだけが取り残されたようだった。
ときどき襲ってくる和生の記憶が、
胸の奥を締めつけて、呼吸を奪っていく。
「……プリンちゃん、どこに行ったの?」
私は、誰もいない窓辺に問いかけた。
この町の野良猫なんて、放っておいても自分の居場所を見つけて生きていく。
あのときの私は、そう言って和生の“拾いたい”を笑った。
「拾っちゃったから、もう責任があるんだよ」
けれど、和生は笑いながらそう答えた。
私がごはんを食べなかったから、プリンは姿を隠してしまったのかもしれない。
私が生きることを拒んだから、プリンも私に会うのをやめたのかもしれない。
「……プリンちゃん、ちゃんと食べるから。だから、出てきてよ」
自分でも驚くほど、声はか細かった。
猫がいなくなっても、あのときの仕草が頭から離れない。
私はようやく上体を起こし、兄が置いていったお粥の碗を手に取った。
まだうっすらと湯気が立っている。
ひと口すくって口に入れると、煮崩れた米粒のやさしい甘みが広がった。
何日も空っぽだった胃が、ようやく生きていると実感した。
でも、やっぱり。
和生の作った味には、敵わない。
もう一口。
そして、また一口。
気づけば碗の底が見えていた。
「にゃ」
耳のすぐそばで、小さな声がした。
顔を上げると、そこにプリンがいた。
白い体がやわらかな光のように滲んで見える。
次の瞬間、いとしさに押し流されるように、気づけば涙がこぼれていた。
空になった碗を両手で握りしめ、声を押し殺すように、低く、長く、泣いた。
私は、和生の前で一度だけ泣いたことがある。
それは、和生が走ってきたバイクにはねられたあの日だった。
和生は、私のためにコンビニへ向かっていた。
横断歩道ではちゃんと左右を見て、慎重に渡っていた。
けれど、バイクはどこからともなく突っ込んできた。
あまりに突然で、現実だと気づくまで時間がかかった。
気づいたときには、私は叫びながら和生のもとへ駆け寄っていた。
倒れた和生は、思っていたよりもひどくなかった。
額から血が流れていたけれど、笑っていた。
泣きじゃくる私を見て、困ったように笑いながら、
「大丈夫、宍戸さん。僕は平気、痛くないよ」
何度も、そう言ってくれた。
コンビニの店長のおじいさんが飛び出してきて、救急車を呼んでくれた。
海風が強くなり、潮の匂いが一層濃く漂った。
和生は「風が気持ちいいね」と言って、
私に肩を貸させながら、砂浜に腰を下ろした。
そのときの彼は、まるで何も恐れていないように穏やかだった。
とてもこれから死ぬ人間には見えなかった。
「宍戸さん。僕ね、弟がいたんだ。小さいころに……あの海で、いなくなった」
和生は海を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
その横顔を見て、私はまた涙が止まらなくなった。
震える彼の手を、私は両手で包み込んだ。
これまでで一番近くにいた。
彼の体温が制服越しに伝わってきて、その熱が、なぜか恐ろしく思えた。
「弟がいなくなったときは、みんな悲しんでた。でも、年月が経つにつれて、誰ももう話題にしなくなった。父さんも母さんも、弟の名前を出さない。たぶん、僕だけなんだ。あの日、波にさらわれるのをこの目で見たのは、僕だけだから」
ゆっくり、ひとつひとつ言葉を選ぶように。
その声を聞きながら、私はようやく理解した。
和生が「この町を離れられない」と言っていた理由。
彼は、本当に“ここ”を離れるのが怖かったのだ。
この場所を離れたら、弟の記憶までもが、この世界から消えてしまう気がして。
「もう、話さないで……お願い」
私がそう言うと、和生は少し笑って、右手の小指を差し出した。
「宍戸さん、約束しよう。これからも、前を向いて生きていくって」
私は動けなかった。
涙で視界が滲み、彼の言葉が遠く霞んでいく。
前を向いて、生きていく。
一緒に、生きる。
和生は、あんなにも生を大切にしていた。
過去の痛みを抱えて、それでも誰よりもまっすぐに。
……なのに、死んだのは、彼の方だった。
救急車に乗って病院へ着くまで、和生はずっと笑っていた。
けれど、ベッドに横たわってから、そのまま静かに意識を失った。
「内臓の損傷が大きかった……最善は尽くしました」
医者が、駆けつけた両親にそう告げる声が聞こえた。
信じられなかった。
和生の体には、命を奪うような傷なんてどこにもなかったのに。
もしかして、彼は自分で分かっていたんじゃないか。
そう思ってしまった。
自分の死期を感じて、だからあの日、あの話をしてくれたのか。
弟のことを、私に託すために。
もし彼が死んでも、
この世界のどこかに“彼の弟を覚えている人間”がいればいい。
たとえ、彼の両親がすべてを忘れても。
私が、覚えていればいい。
そんな考えが頭をかすめた瞬間、胸がぎゅっと痛んだ。
私は卑怯だった。
さらに卑怯だったのは、泣き声を聞くのが怖くて、彼の両親が病室で泣き崩れる前に逃げ出した。
病院を飛び出し、そのまま、海沿いの道を走り、家にたどり着いた。
それから私は、自分の部屋から一歩も出られなくなった。
たぶん――プリンが現れてからだ。
目を閉じるたびに、思い浮かぶのは和生の笑顔になった。
私と和生の関係を、どう言葉にすればいいのか分からない。
あの時間、毎日一緒にいたのに、“友達”という言葉では足りない気がした。
和生は、私がいちばん孤独だったときに現れた。
それなのに、私は一度も「ありがとう」と言えなかった。
夢の中の和生は、いつも優しかった。
一度も、私を責めなかった。
『宍戸さん、ちゃんとごはん食べて、ちゃんと眠ってね』
『学校に行けなくてもいい。君の気持ちがいちばん大事なんだ』
『約束しよう、前を向いて――生きていこう』
私は夢の中で笑い、泣き、泣きながら目を覚まして、また笑ってしまう。
「にゃ」
足もとで、プリンが尾をふわふわと揺らしながら私のまわりをくるくる回った。
そのやわらかい尻尾が、ふくらはぎを軽く叩く。
けれど何も感じなかった。
だって、プリンは本当は存在しない。
私の心がつくり出した幻だ。
「……あなた、和生が私を見張らせるために来たの?」
そう尋ねると、プリンは尻尾をさらに大きく揺らした。
「じゃあ、どうして和生本人が来ないの?」
「にゃ、にゃあ」
プリンは小さく首をかしげ、否定するように鳴いた。
私はどうしようもなく思った。
もし願いが叶うなら、猫じゃなくて、和生に会いたい。
けれど、もし本当に和生が現れたら、私はきっと、その瞬間に罪悪感で押しつぶされてしまうだろう。
何日も続けて、プリンは私を見張っていた。
食事の時間も、眠る時間も。
外はいつの間にか雲が厚くなり、窓の向こうの光が鈍く揺れていた。
空気の重さが、何かを告げようとしているようだった。
「りんな?ごはん、食べた?」
兄の声が、ドア越しに聞こえた。
その声音がいつもより静かで、少しだけ掠れていた。
食べ終えた食器を片づけに来たのだ。
私はドアを少しだけ開け、隙間から空になった茶碗を差し出した。
兄は受け取りながら、私がちゃんと食べたことにほっとしたように微笑み、
「何か食べたいものある?」と優しく聞いた。
そのとき――
プリンがベッドからひらりと飛び降り、私の足もとをすり抜けてドアの前に座り込んだ。
そして、まるで外にいる兄を見上げるように顔を上げた。
そう、私にはそう見えた。
けれど、次の瞬間。
何の前触れもなく、プリンはドアの隙間から駆け出してしまった。
「だめ!」
思わず叫び、私はドアを開けて飛び出した。
兄の目には、突然泣き叫んで部屋を飛び出した私は、きっと正気を失ったように見えただろう。
でも、そんなことを気にしている余裕はなかった。
頭の中は“プリンがいなくなる”という恐怖でいっぱいだった。
幸い、プリンは玄関までは行かず、リビングの真ん中で立ち止まっていた。
私は息を吐き、胸をなでおろす。
……だが、安堵したのも束の間、胸の奥に重たい違和感が広がった。
リビングの空気が、妙に静まり返っている。
ソファの上には、きれいにアイロンがけされた制服。
そのすぐ横で、黒いスーツを着た兄が、静かにこちらを見ていた。
「りんな。……今日は、和生の葬儀なんだ」
兄の言葉が、胸の奥に鈍く響いた。
その一言で、すべてを理解した。
プリンが逃げた理由も、兄がこんな服を着ている理由も。
私は力が抜け、その場に崩れ落ちた。
プリンは、まるで何も知らないふりをして、
私の制服の横に座り込み、静かな瞳でこちらを見つめていた。
和生がもう、この世にいない。
その事実が、この瞬間になってようやく現実として襲いかかってきた。
逃げ場なんて、どこにもなかった。
「りんな……無理しなくていい。家にいてもいいんだよ。兄さんが代わりに行くから」
兄は声を落とし、優しく言った。
けれど私は、ただプリンを見ていた。
その白い体を見ながら、唇が勝手に動いた。
「……行く。私も行く」
それは、感謝のためか、償いのためか。
自分でも分からなかった。
ただ、どうしても“和生に会いに行かなければ”と思った。
プリンは小さく跳ね、嬉しそうに私の足もとをくるくる回った。
兄も一瞬驚いたように目を瞬かせ、そして静かに頷いた。
「分かった。車で待ってる。準備ができたら来て」
部屋に戻って制服に袖を通した。
プリンはその間ずっと、私の周りを回り続けていた。
まるで「大丈夫、ちゃんと見てるよ」と言うように。
けれど、玄関のドアを開けた瞬間、もうそこにはいなかった。
冬の光が、思っていたよりもまぶしかった。
冷たいはずの空気の中で、太陽の熱だけが鋭く肌を刺した。
一瞬、白く光るものが視界をよぎった。
プリンの毛のような輝き。
そして、そのすぐ向こう。
玄関の階段の上に、寄りかかるように立っている和生の姿が見えた。
――幻覚だ。
そう思った。
それでも、私は足を止めずに通り過ぎた。
そのとき、風の音にまぎれて、
懐かしい声が耳の奥でささやいた。
『宍戸さん、前を向いて』
『僕は、いつも君の後ろにいるから』
それも幻聴だったのかもしれない。
それでも、私は情けないほど泣いてしまった。
顔を上げたときには、もう和生の姿はなかった。
けれど、その瞬間、私の中に初めて“前へ進もう”という小さな勇気が灯った。
和生は、私が二度も死にたいと思ったとき、必ずそばに現れてくれた。
そのたびに、彼なりの方法で私を生かしてくれた。
もう、彼のような人には出会えないだろう。
けれど、和生が残した約束だけは、これからも私を支え続ける。
「……ありがとう」
遠く、海から吹く風が頬を撫でた。
冬の陽射しはまぶしくて、こぼれた涙の跡をやさしく照らしていく。
空は高く、どこまでも澄んでいて、まるで和生がいつも見上げていた空と同じ色だった。
私はしばらく、その場に立ち尽くした。
風の音と、自分の鼓動だけが耳の奥で響いていた。
その静けさの中で、ようやく息を吸い込むことができた気がした。
前を向いて、生きていく。
和生が教えてくれたように。
いつかこの世界にも、きっとまた――
光が差す日が来る。
