夜霧を渡る猫

 船が桟橋に触れた衝撃で、エディンは甲板で目を覚ました。
 気が付けば眠っていたらしい。あたりはまだ暗かった。
 潮の香りと蒸気のぬくもりが混ざった風が、頬をなでる。

 足元には、丸くなって眠っていたはずのブラスの姿はなかった。
 ただコートの裾に、小さな温もりの痕跡だけ、かすかに残っていた。

 「……行ったのか」

 声にして言うと、胸の奥がかすかに震えた。

 外套には柔らかな猫の毛が数本。
 ほのかに残る体温。
 ブラスがここにいたという、たしかな証拠。

 その温もりを指先で確かめた瞬間、それを残しておきたくなって、手がペンに伸びた。
 昨夜、図書館で拾った真鍮の万年筆。
 けれど、そこには何もなかった。
 まるで昨夜の出来事が、ただの夢だったみたいに。

 昔はいつだってポケットにペンが入っていたのに。
 気が付けば、その癖さえなくしていた。

 エディンは、他に誰もいない船からタラップを渡った。

 岸に足をつけた瞬間、ほんのわずかに膝が震えた。
 夜を渡った身体が、朝という現実に馴染もうとしているのかもしれない。

 その瞬間、風が耳をなでる。

 「……じゃあね、エディ。結構楽しかったよ」
 風とも幻ともつかない、あの人懐っこい声が聞こえた気がした。

 エディンは思わず振り返る。

 そこに、船はなかった。
 桟橋には静かな波だけが寄せている。

 ああ、そういうことかと思った。
 ブラスがいないと気が付いたとき。ポケットにペンがなかったとき。
 そうなるような気はしていた。

 エディンは苦笑しながら頭を掻いた。
 急に、紙の匂いを思い出し、ペンの重みが指先に欲しくなった。

 遠くから、汽笛が聞こえる。

「……帰るか」

 その言葉に決意の色はなかった。
 ただ、自然と口からこぼれ落ちた。

 東の空が、ほんのわずかに白みはじめていた。
 夜と朝の境界が、ゆっくりとほどけていく。

     *

 街は相変わらず蒸気で濡れていた。
 シューシューと蒸気を吹き出す音が、そこかしこから聞こえてくる。

 エディンは朝の街を抜け、いつものアパートの前に立つ。
 鍵を差し込み扉を開けると、薄暗い部屋の空気が迎えてくれた。
 ここで、また書けるだろうか、と少し不安にも思った。

 昨夜までと何も変わらない部屋。
 けれど、どこかに微かなあたたかさが宿っているように感じた。

 エディンはそっと息を吸った。胸の奥がわずかにきしむ。
 机に近づき、椅子を引く。

 机の引き出しからノートを取り出す。一緒に安物のペンも。
 蒸気機関の図面が描かれた仕事用の、くたびれたノート。この部屋には、それしかなかった。

 その中央の白いページを開く。

 ペンを握った指が、少しだけ震えた。
 だが、その震えを押しとどめようとは思わなかった。

 エディンは白いページを睨むようにして、最初の一行を書き始める。

 ――夜の向こうから、猫がやってきた。

 書き始めた瞬間、胸の奥にあった痛みがふっと薄れていくようだった。
 それでも、うまくは書けなかった。一小節ごとにペンは止まり、何度も線を重ねては消す。それでもペンを置く気にはならなかった。
 ペン先が紙の上を走る音が、静かな部屋に響く。

 外では朝日が建物の屋根を照らしはじめていた。
 エディンは顔を上げずに書き続ける。

 文字がページに広がっていく。ときおりペンがかすれて、小さなシミができた。
 インクの匂いが部屋に漂っていくのを感じた。
 窓から差し込む光が、ゆっくりと部屋を満たしていく。

 金色の反射がふっと目をかすめ、エディンは窓へ視線を向けた。

「ブラス?」

 そこには何もなかった。ただ、いつの間にか窓の外は朝の光で白く染まっていた。
 通りを行きかう人々の足音が、かすかに聞こえる。
 今日が日勤だと思い出して、少し苦笑する。

 「……ま、走れば間に合うだろ」

 呟きは自然だった。
 昨日までなら焦りが胸を締めていたはずなのに、今は妙な軽さがある。

 ページの上に残ったまだ乾ききらないインクが、朝の光にきらりと光った。
 エディンはそっとペンを置いた。

 上着をつかみ、外に出ようとして、動きを止める。
 そして、机の上に置いたペンをポケットに入れ――
 外へ出た。