その夜の海は、駅の霧よりも静かで深かった。
 船は黒い水の上をすべるように進み、甲板の隙間から吐き出された蒸気が、冷たい風に触れてゆっくりとちぎれていく。
 海の上には薄い霧が帯のように流れ、けれど頭上の空は驚くほど澄んでいた。星が水面に落ちては、霧越しに、静かに揺れている。

 エディンは柵に片手を置き、夜気を吸い込んだ。
 潮の匂いが胸の奥まで染みていく。肩の力が、少し抜けた。

 足元ではブラスが丸くなって、かすかに尻尾だけを動かしていた。
 その尾が揺れるたび、灯りが毛の上で細く揺らぎ、まるで猫自身が夜の一部になったように見える。
 エディンはそれを飽きずに眺めていた。

 「……不思議な夜だな」

 独り言が霧のように空気へ溶ける。
 返事は期待していない。ただ声に出したかった。それだけだった。

 ブラスはエディンを見上げ、軽く瞬きし、それから立ち上がった。
 短い鳴き声も上げず、とことこ歩き、柱の影をするりと抜けていく。
 また戻ってきて、エディンの足首に頬を押しつけては、すぐ離れる。
 猫はいつも、意味に捕らわれずに生きているように見えて、エディンはそれが好きだった。

 その気まぐれな動きに、エディンの心の奥で硬くなっていた何かが、ほんの少しだけほどけていく。

     *

 少し寒くなってきた気がして、エディンはコートの前を合わせた。
 見ると、船室の扉が少し開いていた。
 ブラスはためらいもなくその中へ歩いていく。
 エディンも、つられるように続いた。

 中に入ると、ストーブが燃えていた。
 ランプの明かりが小さく揺れ、黄色い光が壁に影をつくり、ゆっくり伸びたり縮んだりしている。
 誰もいないようだった。乗組員が休憩時に使うだけの、小さな部屋らしい。

 エディンが扉を閉めた瞬間、ブラスがベッドに跳び乗った。
 布団の上に丸まり、次の瞬間には毛繕いを始める。
 足裏を舐め、背を反らし、ときどきこちらを振り返っては、興味なさそうにまた視線をそらす。

 エディンは椅子に腰を下ろし、息をついた。
 だがブラスはこっちにこい、とばかりに尻尾でばしばしとベッドを叩く。

 「分かったよ」
 
 エディンがベッドの端に座ると、ブラスはそれにくっついて丸くなった。
 船の揺れに合わせて、ブラスの柔らかな重みが、時おりエディンの脇に寄りかかってくる。
 毛がコートに触れ、ほんのわずかに温もりが移った。
 その温かさが、心の温度をわずかに上げた。

 エディンは、ポケットの中の懐中時計に指先で触れた。相変わらず、蓋は壊れているし、ムーブメントが動いている気配はない。でも朝が来たら、直しに行ってもいいのかもしれないと思った。
 そして、こうして誰かとゆっくりと過ごすのが、随分久しぶりなことにようやく気が付いた。

 遠くで汽笛が鳴るのが聞こえた。

     *

 夜の空気がふっと動いたのがわかった。

 エディンは立ち上がり、ブラスもそれに続いた。
 猫は何も言わない。ただ先に歩き出し、影のように足元をすり抜ける。

 外に出ると、海風が頬を冷やした。空気がいっそう冴えている。

「ブラス、何か来るんだ?」
 エディンは半分独り言のように、黒猫に語り掛ける。

 ブラスは柵に軽々と跳び乗り、尾を高く掲げた。
 その視線の先が、遠くの闇を指していた。

 エディンも視線を向ける。夜気が、さっきより重く感じられた。
 ――暗い海の向こうに、ひとつ、またひとつと光が生まれていた。

 それは一つの形を持って、こちらへ近づいてくる。

 「……船だ」

 静かな声が、自分のものとは思えないほど落ち着いて聞こえた。

 霧の中から現れたその船は、青白い光に包まれていた。
 甲板に影がいくつも揺れている。エディンは目を凝らした。

 子供の影が見えた。両手に何かをもって、少しうつむいて。
 何かを書いているのか、と気づいて目を見開いた。

 この霧で見えるはずがない。それでも、分かった。
 右手に持っているはずの、えんじ色の鉛筆の姿も。
 あの左手に持っているノートが、本当はただの紙束なのも知っている。

 ひときわ強い風が吹く。
 霧が切れて、少年の姿が見えた気がした。
 少年は、風に飛ばされそうな紙束を握りしめ、めくれそうになるたびに慌てて抑えて鉛筆を走らせていた。
 まるで、自分が風に飛ばされないように。それはひどく心もとない姿だった。

 「……俺?」

 エディンは息をのんだ。その気配に気づいたように、少年の手がふっと止まった。
 ゆっくりと顔が上がる。
 そうして一瞬、目が合って――少年が笑っているのが見えた。

 胸がひとつ脈打った。

 今よりずっと無力だったはずなのに、
 手放すなんて想像したことすらなかった。

 エディンは今自分がどんな顔をしてるのか、分からなかった。
 ただ、胸がきゅっと締めつけられた。痛みではない。
 もっと鋭い、でも暖かい何か――懐かしさに近い感覚だった。

 エディンは、柵をつかんで身を乗り出していた。黒い外套がはためいた。
 右腕を伸ばす。手を伸ばせば届く気がした。けど何に?
 声をかければ、届く気がした。でも何を?

 そのとき。

 「にゃあ!」

 ブラスの短い声が背中で響いた。

 エディンは振り返った。視界にすこし丸みを帯びた体つきの黒猫が映る。
 ほんの一瞬――ほんのそれだけだった。

 慌てて視線を戻すと、もはや船上の影は揺れるだけで、どれが少年かもわからない。
 船影はすでに遠い。霧に溶け、闇に紛れ、吸い込まれるように消えていく。

 「……待て……」
 でも何を待ってほしかったのか、自分でもわからない。
 追いかけるでもなく、ただ胸の奥が焼けた。もう二度と、あの自分には会えない――そんな確信だけが残った。

 声は波の音にかき消されて、静寂だけが残った。

     *

 エディンはしばらく立ち尽くしていた。
 けれど胸の奥には、奇妙な温かさが残っている。

 少年の自分のまなざし。
 あの小さな影。
 書くことに、ただ必死で――それが楽しくてたまらなかった時間。

 ――確かに、そこにあった。

 足元にブラスが寄り添い、そっと頭を押しつけた。

「……知ってたのか?」

 言葉が落ちるのと同時に、ブラスの尻尾が、ひとつだけ静かに揺れた。
 エディンはしゃがみこみ、その背を撫でた。
 猫は目を細めて、風を受けながらじっとしている。

 夜の海には波の音しかない。
 だが、今の静けさは、ほんの少しだけやわらかい。

 あんなに必死だったもの、そうそう捨てられやしないのに。そんなことにも気が付けなかった。

 エディンはポケットの上から真鍮の万年筆に触れた。
 今なら、またこれで書けるのだろうか?そうは思っても、直接触れることはできなかった。

「……ありがとうな、ブラス」
 こいつは、俺よりずっと前に気づいていたのかもしれない。
 猫はちらりとエディンを見上げてから、大きなあくびをした。

 ブラスはどこか遠くを見るように瞬きをした。
 まるで、もうすぐ夜が終わることを知っているかのように。

 ゆっくりと霧が濃くなっていく。