エディンは、ブラスの小さな背中を追って歩き始めた。
夜霧は濃く、街灯の光は穏やかに輪を描いて滲んでいた。
足音はまだ静かだが、胸の奥では何かが確かに動き続けていた。
路地をひとつ抜けると、潮を含んだ風が流れ込んだ。
――海が近い。
そう思った瞬間、エディンの歩幅は自然と広がった。足が軽い。
あんな夜を越えた直後だというのに、不思議と足は止まらなかった。
ブラスが振り返り、喉をかすかに鳴らす。
「その調子だ」とでも言いたげに。
エディンは息を漏らし、ふっと笑った。
「……そんな急かすなよ」
言ったはずなのに、気づけば速度はさらに上がっていた。
霧の流れが速くなり、ガス灯が横に流れ、石畳がリズムを刻む。
いつのまにか歩きは小走りになり、小走りは走りへ変わっていた。
ブラスの軽やかな足取りを、自分の意思で追いかけていた。
*
坂道に差し掛かると、急に息が上がった。
霧の中で世界が少し揺れる。
ブラスが立ち止まると振り返って、肩で息をしているエディンをじっと見た。
「仕方ないやつだ」とでも言うように、尻尾をひと振りする。
霧が風に押し流され、視界がゆっくりと開ける。
坂の上は高台だった。
呼吸の音だけが耳の奥で響いた。
霧の切れ間から、街の灯りがゆっくりと姿を見せ、また隠れる。
駅、橋、そして真っすぐに伸びた鉄塔――遠くの光が点と線でつながっていく。
帰ってきたのか、と思う。
やがて、中腹の家々から煙が上がり、近くでは馬車の蹄が石畳を叩く音がした。
「……綺麗だな」
聞こえた自分の声が楽しそうで、エディン自身が驚いた。
同じ街なのに、深さが違って見える。
まるで夜の空気の中に、隠れていた層があることに気づいたような感覚。
ブラスは海の向こうを見ていた。ひげがピクリと動く。
猫が口にくわえた懐中時計が揺れ、街灯の光を反射した。
ブラスが再び走り始めた。
今度はエディンも、息が整うのを待ってからゆっくり坂を下りた。
*
街路が広がり、石畳は濡れたように黒く変わる。
潮の匂いが強くなり、風にざらつきが混じる。
――近い。
海が本当に近いことを、空気が教えてくれる。
ガス灯はまばらになり、代わりに無骨な鉄製のランプが並んだ。
暗がりの中で灯る淡い光が、地面に長い影を落とす。
角を曲がると、ブラスは振り返った。
エディンを見上げる。耳もひげも、エディンの様子を探るように前を向いていた。
そうして、尾をゆっくり揺らすと、懐中時計をぽとりと地面へ落とした。
金属の音が夜気の中に広がる。
エディンはそれを拾い上げた。
懐中時計は少し湿っていて、小さな傷が増えているような気がした。多分ブラスの牙の跡だろう。
「傷がつくたびに、思い出も増えるんだ」と、父さんが言っていた。
ああ、本当にその通りだ。
エディンは不意に笑った。
「馬鹿だなぁ、ブラス。こんな重い物運ばなくても、一緒に来たのに」
黒猫は、突然の笑い声に驚いたのか、尻尾を膨らませる。
尻尾を一振りすると、目を細めてエディンを見返していた。
「ここまでが案内ってわけか?」
エディンがそう言うと、気を取り直したブラスは小さく尻尾を振る。
意味なんて、本当はないのかもしれない。でも“この先はお前の足で行け”と言われた気がして、胸がちくりとした。それでも、少し嬉しかった。
かえ そうして嬉しいと思った自分に、エディンは少し戸惑った。
耳に潮騒が届く。
ひくい海の唸り声だった。
最後の角を曲がる足が、思ったより重かった。
進みたい気持ちと、引き返したい気持ちが、同時に胸の奥で引っ張り合う。
――もしこの先に、思い出したくないものがあったら。
不意に、図書館で胸を刺したあの感覚が蘇って、エディンは小さく息を吸った。
*
霧の帳を上げるように、港が眼前に現れた。
巨大な鉄のアーチに囲まれた波止場。
蒸気を吹き上げる貨物船。
荷を積むクレーンの軋む音が、夜の底で軋むように響く。
列をなす馬車。
水面に映る橙色の光が波で砕ける。
「……すごいな」
港の光景は胸を震わせた。
その震えの端に、言いようのない痛みが混じっているのをエディンは感じた。
――こんな景色を、いつから避けていたんだろう。
眩しさの奥で、胸が痛んだ。
港の奥に、一際大きな蒸気船が停泊していた。
鉄と木で組まれた船体。
蒸気を吐く煙突。
甲板の灯りが柔らかく揺れ、影が動く。
エディンは、それがどこの国の船にも似ていないことに気が付いた。
夜によく似合っていた。
街の灯より低く、星より近いところで光っている。
船着き場に着くと、ブラスはタラップの前でぴたりと足を止めた。
エディンは、久しぶりに走ったせいで、身体の奥にまだ熱が残っているのが分かった。
ブラスはちらりとだけ彼を見上げたが、気にするでもなく、タラップの手すり側へひょいっと飛び乗った。わざわざ狭い方を選ぶあたりが実に猫らしい。
エディンが「ちょっと危ないって……」と息を整えながら言うより早く、ブラスは手すりを軽快に渡り、最後にポン、と音もなく甲板へ飛び移った。
甲板に上がると、すぐに足元のロープをくんくんと嗅ぎ、タルの縁に飛び乗って周囲を確かめるように尻尾を小さく揺らす。完全に探検気分のようだった。
エディンのことなど、いまは半分も意識していないようだ。
それでも、不意に立ち止まり、耳だけがエディンを確かめるように向きを変えた。
呼んでいるわけではない。
ただ、確認しているだけ——相変わらず、勝手で優しい。
「……大丈夫だって。行くよ、言われなくても」
その声が届いたかどうかはわからない。
ブラスはもう、船首の方へ歩き出していた。
タラップに足をかけると、胸がぎゅっと締めつけられた。
踏み出すことに、過去が静かに抵抗しているようだった。
深く息を吸い、懐中時計を握りしめる。それだけで、足は自然と前へ出た。
木がぎしりと鳴いた。
霧が流れ、港の景色がざわめくように揺れる。
*
エディンが甲板に立つと、港の灯りが遠くに滲んでいるのが見えた。
船が揺れ、足元に重心がゆっくり移る。
――動き始めた。
胸の奥には、まだ整理のつかないものが多すぎた。
けれど、それでも――少なくとも今夜だけは、
足を止めずに進んでもいい気がした。
背後で汽笛が鳴った。
低く、長く、夜の海に響く。
港の灯りは霧の向こうへ沈み、輪郭を失いはじめていた。
ブラスは甲板の中央に座り、静かな目で海を見ていた。
「……ここから先は、どこへ行くんだ?」
答えはない。
けれど、ブラスの背中はすべてを知っているようだった。
その真鍮の羽飾りが、音もなく夜風にゆれた――まるで羽ばたくように。
夜霧は濃く、街灯の光は穏やかに輪を描いて滲んでいた。
足音はまだ静かだが、胸の奥では何かが確かに動き続けていた。
路地をひとつ抜けると、潮を含んだ風が流れ込んだ。
――海が近い。
そう思った瞬間、エディンの歩幅は自然と広がった。足が軽い。
あんな夜を越えた直後だというのに、不思議と足は止まらなかった。
ブラスが振り返り、喉をかすかに鳴らす。
「その調子だ」とでも言いたげに。
エディンは息を漏らし、ふっと笑った。
「……そんな急かすなよ」
言ったはずなのに、気づけば速度はさらに上がっていた。
霧の流れが速くなり、ガス灯が横に流れ、石畳がリズムを刻む。
いつのまにか歩きは小走りになり、小走りは走りへ変わっていた。
ブラスの軽やかな足取りを、自分の意思で追いかけていた。
*
坂道に差し掛かると、急に息が上がった。
霧の中で世界が少し揺れる。
ブラスが立ち止まると振り返って、肩で息をしているエディンをじっと見た。
「仕方ないやつだ」とでも言うように、尻尾をひと振りする。
霧が風に押し流され、視界がゆっくりと開ける。
坂の上は高台だった。
呼吸の音だけが耳の奥で響いた。
霧の切れ間から、街の灯りがゆっくりと姿を見せ、また隠れる。
駅、橋、そして真っすぐに伸びた鉄塔――遠くの光が点と線でつながっていく。
帰ってきたのか、と思う。
やがて、中腹の家々から煙が上がり、近くでは馬車の蹄が石畳を叩く音がした。
「……綺麗だな」
聞こえた自分の声が楽しそうで、エディン自身が驚いた。
同じ街なのに、深さが違って見える。
まるで夜の空気の中に、隠れていた層があることに気づいたような感覚。
ブラスは海の向こうを見ていた。ひげがピクリと動く。
猫が口にくわえた懐中時計が揺れ、街灯の光を反射した。
ブラスが再び走り始めた。
今度はエディンも、息が整うのを待ってからゆっくり坂を下りた。
*
街路が広がり、石畳は濡れたように黒く変わる。
潮の匂いが強くなり、風にざらつきが混じる。
――近い。
海が本当に近いことを、空気が教えてくれる。
ガス灯はまばらになり、代わりに無骨な鉄製のランプが並んだ。
暗がりの中で灯る淡い光が、地面に長い影を落とす。
角を曲がると、ブラスは振り返った。
エディンを見上げる。耳もひげも、エディンの様子を探るように前を向いていた。
そうして、尾をゆっくり揺らすと、懐中時計をぽとりと地面へ落とした。
金属の音が夜気の中に広がる。
エディンはそれを拾い上げた。
懐中時計は少し湿っていて、小さな傷が増えているような気がした。多分ブラスの牙の跡だろう。
「傷がつくたびに、思い出も増えるんだ」と、父さんが言っていた。
ああ、本当にその通りだ。
エディンは不意に笑った。
「馬鹿だなぁ、ブラス。こんな重い物運ばなくても、一緒に来たのに」
黒猫は、突然の笑い声に驚いたのか、尻尾を膨らませる。
尻尾を一振りすると、目を細めてエディンを見返していた。
「ここまでが案内ってわけか?」
エディンがそう言うと、気を取り直したブラスは小さく尻尾を振る。
意味なんて、本当はないのかもしれない。でも“この先はお前の足で行け”と言われた気がして、胸がちくりとした。それでも、少し嬉しかった。
かえ そうして嬉しいと思った自分に、エディンは少し戸惑った。
耳に潮騒が届く。
ひくい海の唸り声だった。
最後の角を曲がる足が、思ったより重かった。
進みたい気持ちと、引き返したい気持ちが、同時に胸の奥で引っ張り合う。
――もしこの先に、思い出したくないものがあったら。
不意に、図書館で胸を刺したあの感覚が蘇って、エディンは小さく息を吸った。
*
霧の帳を上げるように、港が眼前に現れた。
巨大な鉄のアーチに囲まれた波止場。
蒸気を吹き上げる貨物船。
荷を積むクレーンの軋む音が、夜の底で軋むように響く。
列をなす馬車。
水面に映る橙色の光が波で砕ける。
「……すごいな」
港の光景は胸を震わせた。
その震えの端に、言いようのない痛みが混じっているのをエディンは感じた。
――こんな景色を、いつから避けていたんだろう。
眩しさの奥で、胸が痛んだ。
港の奥に、一際大きな蒸気船が停泊していた。
鉄と木で組まれた船体。
蒸気を吐く煙突。
甲板の灯りが柔らかく揺れ、影が動く。
エディンは、それがどこの国の船にも似ていないことに気が付いた。
夜によく似合っていた。
街の灯より低く、星より近いところで光っている。
船着き場に着くと、ブラスはタラップの前でぴたりと足を止めた。
エディンは、久しぶりに走ったせいで、身体の奥にまだ熱が残っているのが分かった。
ブラスはちらりとだけ彼を見上げたが、気にするでもなく、タラップの手すり側へひょいっと飛び乗った。わざわざ狭い方を選ぶあたりが実に猫らしい。
エディンが「ちょっと危ないって……」と息を整えながら言うより早く、ブラスは手すりを軽快に渡り、最後にポン、と音もなく甲板へ飛び移った。
甲板に上がると、すぐに足元のロープをくんくんと嗅ぎ、タルの縁に飛び乗って周囲を確かめるように尻尾を小さく揺らす。完全に探検気分のようだった。
エディンのことなど、いまは半分も意識していないようだ。
それでも、不意に立ち止まり、耳だけがエディンを確かめるように向きを変えた。
呼んでいるわけではない。
ただ、確認しているだけ——相変わらず、勝手で優しい。
「……大丈夫だって。行くよ、言われなくても」
その声が届いたかどうかはわからない。
ブラスはもう、船首の方へ歩き出していた。
タラップに足をかけると、胸がぎゅっと締めつけられた。
踏み出すことに、過去が静かに抵抗しているようだった。
深く息を吸い、懐中時計を握りしめる。それだけで、足は自然と前へ出た。
木がぎしりと鳴いた。
霧が流れ、港の景色がざわめくように揺れる。
*
エディンが甲板に立つと、港の灯りが遠くに滲んでいるのが見えた。
船が揺れ、足元に重心がゆっくり移る。
――動き始めた。
胸の奥には、まだ整理のつかないものが多すぎた。
けれど、それでも――少なくとも今夜だけは、
足を止めずに進んでもいい気がした。
背後で汽笛が鳴った。
低く、長く、夜の海に響く。
港の灯りは霧の向こうへ沈み、輪郭を失いはじめていた。
ブラスは甲板の中央に座り、静かな目で海を見ていた。
「……ここから先は、どこへ行くんだ?」
答えはない。
けれど、ブラスの背中はすべてを知っているようだった。
その真鍮の羽飾りが、音もなく夜風にゆれた――まるで羽ばたくように。
