夜の公園は、風もなく息を潜めていた。
 街灯は少なく、霧に洗われた木々の輪郭が、薄い絵の具のように滲んでいる。
 噴水が光を反射しながら静かな音を立てていた。

 エディンの胸の奥は、まだどこかざわついていた。

 と、横に気配がした。少し先を歩いていた黒猫――ブラスが、いつのまにかエディンの足元に戻ってきていた。
 まるで「次はここだ」と告げるように、ベンチへぴょん、と跳び乗る。

 そして、隣の席を前足で軽く、とん、と叩いた。

「……座れってことか?」

 返事があるとは思っていない。
 そう思って、エディンは苦笑しながら腰を下ろした。

 その瞬間だった。

「本当にどんくさいな、お前」

 風とも幻ともつかない人懐っこい声が耳をかすめた。
 エディンは心臓を跳ねさせて振り返る。

「い、今……おまえが言ったのか?」

 昔読んだおとぎ話には、夜になると人の言葉を交わす猫の妖精が出ていた気がする。
 いや、こんなやつはもっと意地悪だったはずだが……。

 ブラスは、ちょうど前足をなめてひげを整えていた。顔も上げない。

 ただ、ブラスは尻尾をふわりと揺らした。
 それが肯定なのか否定なのか、分からない。

 けれど。気のせいかもしれないけれど、その揺れ方だけは妙に人懐っこく見えて――胸の奥のざわつきは、さっきより少しだけ軽くなっていた。

     *

 ふと目を上げると、夜空が開けていた。
 本来なら街の光に負けて見えないはずの星が、今夜はうっすらと浮かんでいる。

 ――星って、こんなに見えていたっけ。

 じっと見ていると、胸の奥で何かがふわりと動いた。
 懐かしさのような、痛みのような、名前のない感情。

 ――星を見ると、溺れそうで、何かを書きたくなっていた気がする。

 そこまで思いかけて、エディンは小さく息を吐いた。

 学生の頃。
 深夜の屋上で、寮の部屋の階段で、よく星を見上げていた。
 そしてノートに物語を書き連ねた。

 でも、何を書いていたのか、もう覚えていない。

 ゆっくりと、視線が自分の手元へ落ちていく。
 右手には、図書館で手にした真鍮の万年筆――昔使っていたペン。

 ペンを握った瞬間、胸の痛みの輪郭が少しだけ柔らかくなる。
 けれどそれは無くなりはしなかったし、奥にまだ触れたくない棘があるのが分かった。

 書くことを止めたのは仕方がなかった――ずっとそう言い聞かせてきた。
 そう思わなければ、自分の選択が許せなかった。

     *

 エディンは無意識にコートのポケットへ手を入れていた。
 いつもの癖のように――懐中時計に触れるためだ。

 そこにあるのは、古く傷だらけの銀色の時計。
 父が大切にしていたもので、エディンもまた、手放せずにいた。

 ポケットから懐中時計を取り出すと、星明りがその銀の面を照らした。
 その光が、ほんの一瞬だけ昔とまったく同じ並びになった気がした。

 隣で毛づくろいをしていたブラスは、エディンの方を向くと、短くひげを震わせた。

 その瞬間、ぱちりと――
 閉じていた記憶の扉が、ほんの少しだけ動いた。

 丘の上の夜。
 毛布の上。
 母が差し出してくれたパンの匂い。
 父の大きな手。

「エディ、この星の並びは“船”に見えるだろう」
「あっちの星は、ネコちゃんに見えない?」

 父や母の穏やかな、でも記憶よりもずっと優しくて、どこか擦れた声。
 帰り間際には、父の懐中時計の表面が月光を受けて光っていた。
 懐中時計は、その時からボロボロで傷がたくさんついていた。

「傷がつくたびに、思い出も増えるんだ」

 父がその時計を撫でながら言ったあの一言だけが、なぜか強く残っている。

 気づけば、目の奥がじんと熱くなっていた。
 父や母の声は、思い出の中でも相変わらず穏やかだった。

 こんな温かな思い出だけだったら、どれほど楽だっただろう。
 けれど、あの痛みも同じ場所に沈んでいた。その輪郭だけが、水面にゆらいでいた。

 あの頃は、物語を書くたびに両親に見せていた。
 少し困った顔をしていて、いつしか隠れて書くようになった。
 気が付けば、エディンは懐中時計を握りしめていた。

     *

 ブラスは、噴水の方を見ていた。おそらくはもっと遠くを。
 耳がピクリと動くと、気配もなくエディンの隣へ移動していた。
 エディンが気づくより早く、猫は右手に持っていた懐中時計を鼻を近づけ、ふんふんと匂いをかぐ。

「何だ、気になるの――」

 言葉が終わるより早く、ブラスのひげがピクリと動き、懐中時計を咥えていた。
 ぎらりと金属が街灯の光を反射する。

 エディンの胸が跳ねた。

「返せ、それは……!」

 父の記憶そのものだった。
 だがブラスは意に介さず、ぴょんとベンチから飛び降りる。

 何かの合図のように、尻尾を一度ぱたんと倒すと、歩き始めた。
 迷いなく、軽やかな足取りで、石畳の細道へ進んでいく。

 まるで――「来い」とでも言うように。

「おい……」

 エディンは、走って追おうとしたわけではなかった。
 ただ、もう目をそらしてばかりもいられないと、どこかで思っただけだ。

 ポケットの中にある万年筆が、少しだけ重さを増したように感じられた。

 エディンは深く息を吸った。

「……分かったよ。行く」

 足が自然と前へ出た。

 ブラスはこちらを振り向かない。
 けれど、その尻尾が、かすかに嬉しそうに揺れた気がした。

 夜の霧の向こうから、汽笛のような低い音が響いた。
 遠くに港があるのだろう。

 エディンはその音に背中を押されるように、歩き出した。