駅舎を出ると、街の夜は薄く霞んで見えた。
現実の夜ではない。光も音も、わずかにぼやけている。
歩道の石畳は静かに濡れ、影がゆっくりと揺れていた。
黒猫——ブラスは、いつの間にかエディンの少し前を歩いていた。時折尻尾をゆらす。
青年はその後を追った。理由はない。ただ、そうするしかない気がした。
駅前の道は、見覚えがあるようで、どこか歪んでいた。
見慣れた街灯の並び、通学中に眺めたはずの建物の形。
けれどその配置が妙に曖昧で、瞬きするたび、輪郭が揺れて見えた。
「……まさか」
角を曲がったとき、エディンは息をのんだ。
古い石造りの建物。
高い窓は、少し歪んでいる。
夜の中でぼんやり白んだ時計塔が見えた。
──針は、ゆっくりと逆に回っていた。
エディンは、ポケットの懐中時計を確かめるように握りしめた。
記憶とは少し違う。
だが学生時代、放課後をほとんど過ごしていた図書館がそこにあった。
先ほどの駅もそうだが、本来、今の自宅から歩いて来られる距離ではない。
だが現実の距離は、この霧の世界では意味をなさないらしい。
ブラスは段差を軽やかに跳び、入口の影で立ち止まり、柱に体をこすりつけている。
どうやら縄張りにするつもりのようだ。
それを横目にエディンが戸を押すと、古い蝶番がかすかに鳴き、紙とインクの匂いが溢れ出した。
*
館内は、かすかに揺らめくランプの光に照らされ、書棚が深い影を落としている。
湿気を帯びた空気が肌にまとわりつき、耳鳴りのように遠くで紙の擦れる音がした。
——懐かしい。
図書館でもよく書いた。
静かで、誰にも邪魔されないから。
もうずいぶん昔のことのような気がするのに、身体がその空気を覚えていた。
学生時代、講義の合間に駆け込んだ夕方。
閉館ぎりぎりまで物語を書き続けた夜。
誰にも読まれないページを、必死に埋めていった時間。
「こんな……ところまで、来ることになるとはな」
声が吸い込まれるように薄れていく。
閲覧室の奥で、誰かが動いた気がしてエディンは足を止めた。
そちらを見ても、ただ机のランプが静かに灯っているだけだった。
ブラスが低い棚をひょいと飛び越え、閲覧室へ先回りした。
エディンが追いつくころには、猫は机の上で何かの匂いを嗅いでいた。
そこにあったのは古びた万年筆だった。
ブラスは興味津々、といった様子で鼻先をペンに近づけ、前足で“ちょい、ちょい”とつつき始めた。
「おい、それは——」
だが注意は間に合わない。
ペンがかたんと跳ね、机の端から転がった細い影が床へ落ちた。
乾いた音。
ブラスは音に驚いたのか、飛び上がると、走ってどこかへ行ってしまった。
足元まで転がってきたペンを、エディンは反射的に拾い上げた。
真鍮の万年筆。
蓋のへこみ、持ち手の傷。高校から大学にかけて使っていた。
書けば書くほど手に馴染んでいった、大事だった道具。
あの日に、捨てた。
「……なんで、ここに」
呟くと、胸の奥がずきりと痛んだ。
気がつけば猫は高い棚の上から、彼を見下ろしていた。
耳もひげも、見逃すまいとするようにエディンの方を向いていた。
*
閲覧室の奥へ進むと、一冊のノートが机に置かれていた。
黒猫は、ひょいと机に乗ると、ノートの匂いをすんすんと嗅ぎ始めた。
黒い革の表紙。
使い古したような擦り切れた角。
エディンは目を見開いた。
昔、自分が夢中で書いていたノートにとてもよく似ていた。
指が勝手に伸びる。
開いたページは——真っ白だった。一瞬息がつまる。
ページをめくる手が早くなる。
二枚目も、三枚目も、白。
書いたはずの物語の断片は、何も残っていない。
違う、ここにあのノートがあるわけない。そう思いたかったが、右手の中の万年筆が、それを否定させてはくれなかった。
ノートを閉じると、ページが風のない空間でひとりでにめくれた。
白い紙が、何かを促すようにぱらぱらと音を立て、最初のページで止まる。
ノートが自分を見ているような奇妙な感覚。
エディンは、書け、と言われているような気がした。
今、右手にはペンがある。ずっと一緒だった、真鍮の万年筆が。
そのとき、静かな空気を破るように声が落ちた。
――無駄だよ。
――そんなことしても。
冷たい声。
エディンには、声はどこから聞こえているのか分からなかった。
書棚の奥の影なのか、耳元なのか、それとも自分の頭の内側なのか。
猫はノートの隣で耳を伏せ、低く小さく唸るような音を出している。
声は続く。まるで、エディンに言い聞かせるように。
「無駄だ……」「どうせ……」
昔言われたような声が、胸の奥で黒い煙のように渦を巻いた。
――どうせ誰も読まない。
――もっと現実を考えろ。
家で何度も聞いた叱責の響き。
――技師を目指すことにしたんだ。食べていけないからね。
生活のためにペンを置いた夜の、自分の声。
今聞くと泣きそうな声だ。普通に言えたと思っていたのに。
「……やめてくれ」
エディンは低く呟いて、自分の耳をふさいだ。
ノートの白が視界いっぱいに広がる。
――それでも、声は止まらなかった。
ブラスは机から飛び降りると、その勢いのまま、エディンの足にぶつかるように近づき、その周りをぐるりと一周回った。
手の中の真鍮のペンが、わずかに重く感じた。
黒い影が足元まで伸び、ささやく声が次第に大きくなる。
エディンは不意に思う。このペンを捨てれば、もう聞こえなくなるだろうか?
もう一度、捨てれば――。
ブラスがエディンの足元を潜り抜け、扉へ向かった。
「なぁー」と鳴きながら、扉をひっかく。
毛が逆立っていて、“不愉快だ早く開けろ”と言っているようにも見えた。
図書館の空気が、ずしりと重くなる。まるで何かの枷のように。
エディンが後ろを振り向くと、図書館の奥の霧が濃く渦を巻いていた。
影が濃くなりすぎて、息をするたび胸の奥が軋んだ。
……わかってる。逃げてるだけかもしれない。でも、今の俺じゃ、この部屋に立っていられない。
エディンは喘ぎながら、足を踏み出す。
「……わかった。行くよ」
扉を押し開けた瞬間、背後でページのめくれる音が巻き起こった。
エディンがちらりと振り返ると、図書館全体が白い風に包まれたように見えた。
真っ白だったあのノートを思い出し、胸の奥がかすかに痛んだ。
扉が閉まると、すべての音がぴたりと止んだ。
ブラスが外へ駆け出し、エディンもその背を追った。
*
館外へ出ると、夜気がひやりと肌を撫でた。
図書館前の道は静まり返り、淡い霧が足元を流れていく。
エディンはそれを見るとはなしに見ていた。呼吸が浅い。
ブラスは石畳の小径へと、いつものように迷いなく歩き出す。
街路樹の影が夜風に揺れ、時計塔の針がひとつ音を刻んだ。
遠くで噴水の落ちる音が響く。
エディンは真鍮のペンを握ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
結局捨てずに持ってきてしまったらしい。
胸の奥には、まだ痛みが残っている。
けれど──ペン軸がじんわりと温くなっていく。その懐かしい感覚に、ゆっくりと息を吐く。
それは痛みの輪郭を、ほんのわずか柔らかくしてくれた。
歩ける……気がした。ほんの少しだけ。
霧の向こうのガス灯が、いつもよりも暖かいオレンジ色に揺れている気がした。
──俺は、歩いてもいいのか?
小径の先で、ブラスがふいに立ち止まり、振り返る。
黒く深い瞳が、夜の光を丸く映していた。
まるで「遅い」と言われているようで、エディンは思わず苦笑する。
「……別に、ついていくと決めたわけじゃない」
そう言って、エディンは歩き出した。その足は、まだ震えていた。
もちろん猫は答えない。
ただ尻尾をひと振りし、暗がりへと姿を滑らせる。
エディンは、万年筆をそっとポケットにしまった。昔と同じ場所に。
そうして猫の背を追うのではなく、止まりそうになる足をなだめながら、自分のペースで小道へと歩き出した。
現実の夜ではない。光も音も、わずかにぼやけている。
歩道の石畳は静かに濡れ、影がゆっくりと揺れていた。
黒猫——ブラスは、いつの間にかエディンの少し前を歩いていた。時折尻尾をゆらす。
青年はその後を追った。理由はない。ただ、そうするしかない気がした。
駅前の道は、見覚えがあるようで、どこか歪んでいた。
見慣れた街灯の並び、通学中に眺めたはずの建物の形。
けれどその配置が妙に曖昧で、瞬きするたび、輪郭が揺れて見えた。
「……まさか」
角を曲がったとき、エディンは息をのんだ。
古い石造りの建物。
高い窓は、少し歪んでいる。
夜の中でぼんやり白んだ時計塔が見えた。
──針は、ゆっくりと逆に回っていた。
エディンは、ポケットの懐中時計を確かめるように握りしめた。
記憶とは少し違う。
だが学生時代、放課後をほとんど過ごしていた図書館がそこにあった。
先ほどの駅もそうだが、本来、今の自宅から歩いて来られる距離ではない。
だが現実の距離は、この霧の世界では意味をなさないらしい。
ブラスは段差を軽やかに跳び、入口の影で立ち止まり、柱に体をこすりつけている。
どうやら縄張りにするつもりのようだ。
それを横目にエディンが戸を押すと、古い蝶番がかすかに鳴き、紙とインクの匂いが溢れ出した。
*
館内は、かすかに揺らめくランプの光に照らされ、書棚が深い影を落としている。
湿気を帯びた空気が肌にまとわりつき、耳鳴りのように遠くで紙の擦れる音がした。
——懐かしい。
図書館でもよく書いた。
静かで、誰にも邪魔されないから。
もうずいぶん昔のことのような気がするのに、身体がその空気を覚えていた。
学生時代、講義の合間に駆け込んだ夕方。
閉館ぎりぎりまで物語を書き続けた夜。
誰にも読まれないページを、必死に埋めていった時間。
「こんな……ところまで、来ることになるとはな」
声が吸い込まれるように薄れていく。
閲覧室の奥で、誰かが動いた気がしてエディンは足を止めた。
そちらを見ても、ただ机のランプが静かに灯っているだけだった。
ブラスが低い棚をひょいと飛び越え、閲覧室へ先回りした。
エディンが追いつくころには、猫は机の上で何かの匂いを嗅いでいた。
そこにあったのは古びた万年筆だった。
ブラスは興味津々、といった様子で鼻先をペンに近づけ、前足で“ちょい、ちょい”とつつき始めた。
「おい、それは——」
だが注意は間に合わない。
ペンがかたんと跳ね、机の端から転がった細い影が床へ落ちた。
乾いた音。
ブラスは音に驚いたのか、飛び上がると、走ってどこかへ行ってしまった。
足元まで転がってきたペンを、エディンは反射的に拾い上げた。
真鍮の万年筆。
蓋のへこみ、持ち手の傷。高校から大学にかけて使っていた。
書けば書くほど手に馴染んでいった、大事だった道具。
あの日に、捨てた。
「……なんで、ここに」
呟くと、胸の奥がずきりと痛んだ。
気がつけば猫は高い棚の上から、彼を見下ろしていた。
耳もひげも、見逃すまいとするようにエディンの方を向いていた。
*
閲覧室の奥へ進むと、一冊のノートが机に置かれていた。
黒猫は、ひょいと机に乗ると、ノートの匂いをすんすんと嗅ぎ始めた。
黒い革の表紙。
使い古したような擦り切れた角。
エディンは目を見開いた。
昔、自分が夢中で書いていたノートにとてもよく似ていた。
指が勝手に伸びる。
開いたページは——真っ白だった。一瞬息がつまる。
ページをめくる手が早くなる。
二枚目も、三枚目も、白。
書いたはずの物語の断片は、何も残っていない。
違う、ここにあのノートがあるわけない。そう思いたかったが、右手の中の万年筆が、それを否定させてはくれなかった。
ノートを閉じると、ページが風のない空間でひとりでにめくれた。
白い紙が、何かを促すようにぱらぱらと音を立て、最初のページで止まる。
ノートが自分を見ているような奇妙な感覚。
エディンは、書け、と言われているような気がした。
今、右手にはペンがある。ずっと一緒だった、真鍮の万年筆が。
そのとき、静かな空気を破るように声が落ちた。
――無駄だよ。
――そんなことしても。
冷たい声。
エディンには、声はどこから聞こえているのか分からなかった。
書棚の奥の影なのか、耳元なのか、それとも自分の頭の内側なのか。
猫はノートの隣で耳を伏せ、低く小さく唸るような音を出している。
声は続く。まるで、エディンに言い聞かせるように。
「無駄だ……」「どうせ……」
昔言われたような声が、胸の奥で黒い煙のように渦を巻いた。
――どうせ誰も読まない。
――もっと現実を考えろ。
家で何度も聞いた叱責の響き。
――技師を目指すことにしたんだ。食べていけないからね。
生活のためにペンを置いた夜の、自分の声。
今聞くと泣きそうな声だ。普通に言えたと思っていたのに。
「……やめてくれ」
エディンは低く呟いて、自分の耳をふさいだ。
ノートの白が視界いっぱいに広がる。
――それでも、声は止まらなかった。
ブラスは机から飛び降りると、その勢いのまま、エディンの足にぶつかるように近づき、その周りをぐるりと一周回った。
手の中の真鍮のペンが、わずかに重く感じた。
黒い影が足元まで伸び、ささやく声が次第に大きくなる。
エディンは不意に思う。このペンを捨てれば、もう聞こえなくなるだろうか?
もう一度、捨てれば――。
ブラスがエディンの足元を潜り抜け、扉へ向かった。
「なぁー」と鳴きながら、扉をひっかく。
毛が逆立っていて、“不愉快だ早く開けろ”と言っているようにも見えた。
図書館の空気が、ずしりと重くなる。まるで何かの枷のように。
エディンが後ろを振り向くと、図書館の奥の霧が濃く渦を巻いていた。
影が濃くなりすぎて、息をするたび胸の奥が軋んだ。
……わかってる。逃げてるだけかもしれない。でも、今の俺じゃ、この部屋に立っていられない。
エディンは喘ぎながら、足を踏み出す。
「……わかった。行くよ」
扉を押し開けた瞬間、背後でページのめくれる音が巻き起こった。
エディンがちらりと振り返ると、図書館全体が白い風に包まれたように見えた。
真っ白だったあのノートを思い出し、胸の奥がかすかに痛んだ。
扉が閉まると、すべての音がぴたりと止んだ。
ブラスが外へ駆け出し、エディンもその背を追った。
*
館外へ出ると、夜気がひやりと肌を撫でた。
図書館前の道は静まり返り、淡い霧が足元を流れていく。
エディンはそれを見るとはなしに見ていた。呼吸が浅い。
ブラスは石畳の小径へと、いつものように迷いなく歩き出す。
街路樹の影が夜風に揺れ、時計塔の針がひとつ音を刻んだ。
遠くで噴水の落ちる音が響く。
エディンは真鍮のペンを握ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
結局捨てずに持ってきてしまったらしい。
胸の奥には、まだ痛みが残っている。
けれど──ペン軸がじんわりと温くなっていく。その懐かしい感覚に、ゆっくりと息を吐く。
それは痛みの輪郭を、ほんのわずか柔らかくしてくれた。
歩ける……気がした。ほんの少しだけ。
霧の向こうのガス灯が、いつもよりも暖かいオレンジ色に揺れている気がした。
──俺は、歩いてもいいのか?
小径の先で、ブラスがふいに立ち止まり、振り返る。
黒く深い瞳が、夜の光を丸く映していた。
まるで「遅い」と言われているようで、エディンは思わず苦笑する。
「……別に、ついていくと決めたわけじゃない」
そう言って、エディンは歩き出した。その足は、まだ震えていた。
もちろん猫は答えない。
ただ尻尾をひと振りし、暗がりへと姿を滑らせる。
エディンは、万年筆をそっとポケットにしまった。昔と同じ場所に。
そうして猫の背を追うのではなく、止まりそうになる足をなだめながら、自分のペースで小道へと歩き出した。
