夜の気配が冷たく張り付くようだった。
 駅前のガス灯がぽうっと灯り、蒸気が薄い金色の霧となって漂っている。
 古い時計塔が見える。丸い文字盤がかすかな光沢を返し、風に鳴く古びた金属音が耳に届いた。

 エディンは眉をひそめた。

 「……ここ、まさか」

 記憶の奥がざわめく。
 忘れもしない。学生のころ、毎日のように通っていた駅だ。
 家とは反対方向、決して“歩いて来られる距離”ではないはずの場所。

 だが、目の前にあるのは――間違いなく、あの駅舎だった。

 「なんで……」

 つぶやいた声に、ブラスがにゃあと短く応えた。
 ふと見下ろすと、黒猫は尻尾をゆったり揺らして彼を見つめている。瞳孔は丸くなって、何かを見逃すまいとでもするようだ。

 エディンは知らず一歩、前へ踏み出していた。



 駅舎のガラス扉に手を触れると、柔らかな灯が内側からこぼれ出した。
 ひどく静かだった。
 エディンの記憶では、いつもは蒸気管が噴き出す蒸気の音で、やかましいくらいだったのに。
 記憶の音と今の静寂が、うまくかみ合わなかった。

 だが、中は昔とほとんど変わっていない。
 改札横の売店、掲示板、古い切符の自動販売機。
 記憶の中の配置と同じであることに、エディンの歩みはゆっくり肩の力が抜けていく。
 黒猫はエディンの後ろで立ち止まり、その背中をじっと見ていた。
 その金色の目が、楽しそうに細められる。

 エディンが駅舎に併設された小さなカフェの前に来たとき、胸がきゅっと痛んだ。

 ――ここで、書いていた。

 そう思った瞬間、空気の匂いまで鮮明に蘇る。
 淹れたてのコーヒー、木の家具のわずかな香り、消えかかったランプの匂い。
 学生の自分が、擦り切れたノートを広げて、なにかの物語を必死に書きつけていた姿が脳裏に浮かんだ。

 「……懐かしいな」
 ぽつりと漏れた声は、まるで他人のものみたいに遠い。

 書けていたころの自分。
 書いていて救われていた時期。
 書くことで、いつか“どこかへたどり着ける”と思えていた日々。

 今は、そんなときがあったことを、思い出すことすらほとんどなかった。
 いつの間にか……あのころの自分は、本当に遠くにあった。

 黒猫の耳がぴくりと動いた。
 誰もいないはずの方向をじっと見つめている。

 足元で小さな気配が動いた。
 猫はカフェの扉の前へ行って、鼻先を押しつけるようにして匂いを嗅いだ。
 さっと前足を伸ばして触れた拍子に、扉がわずかに軋んで隙間が開く。
 エディンは扉の隙間に気づき、思わず猫に声をかける。

 「……開けろって? いや、何かいい匂いでもしたのか?」

 カフェの扉を開けると、ほのあたたかい空気が包んだ。
 ついさっきまで、誰かがいたような気配だけが残っている。

 猫は、カフェの中へトコトコと歩いていく。
 その後ろ姿が妙に自然で、エディンは表情を緩める。

 カウンターの奥に客の姿はなく、店員も見当たらない。
 窓際の席に、一瞬だけ人影が見えた気がして、鼓動が速くなる。だがもう一度見直しても誰もいない。
 疲れている、気のせいだ。と言い聞かせて、前髪をかき上げる。

 よく見ればその席は、昔の自分がお気に入りだった場所だ。
 汽車がよく見えて……そこまで思い出して、エディンは何かを振り切るように頭を振った。

 猫は気に入った場所を見つけたのか、カウンター席の下をぐるぐると回っている。
 やがてカウンターの影からエディンを一度だけ見上げ、すんすんと匂いを嗅ぐと、満足そうに丸くなった。

 エディンは、その近くの席にそっと腰を下ろす。
 落ち着こうと深く息を吸った瞬間――記憶が溢れた。



 学生時代、夜遅くまで原稿をカフェで書いていた。
 指はかじかむほど冷え、疲れで文字が歪むまで、それでも書き続けた。

 それは誰に義務づけられたものでもない。
 ただ、書かずにはいられなかった。

 ――あのころの自分は、息をするように書いていたんだな。

 懐かしさと、それを塗りつぶすような痛みが胸の奥に広がる。
 気づけば、ポケットの懐中時計を握りしめていた。

 気づけば、黒猫が静かにエディンを見上げていた。
 金色の瞳と視線が合う。

 エディンは何かを口にしようとして、止まり、つぶやく。

 「……そういえば、まだ名前もつけてなかったな」

 猫は尻尾を軽く振る。

 「黒い毛並み。真鍮の羽飾り。珍しいよな……。ああ、お前に取られた鍵も真鍮なんだ」

 ポケットから、鍵を出して黒猫と一緒に眺める。
 目の前の羽飾りと、手のひらの鍵が重なる。

 「……真鍮、brass、“ブラス”って呼んでもいいか?」

 猫は興味なさそうに大きなあくびをすると、再び丸くなった。

 「まあ、分かるわけないよな。よろしく、ブラス」

 黒猫のほうは、すでに目を閉じて、寝るつもりらしい。耳だけが小さく動いた。
 エディンが微笑んでブラスを見た。



 エディンはしばらく店内を眺めた。
 テーブルに置かれたランプの炎が、ふらりと揺れる。
 外のガス灯の光が窓越しににじんで、駅舎全体がやさしく呼吸しているかのようだ。

 記憶が、静かに漂っている世界。

 エディンは、ブラスに小声で言った。

 「……ここに来る理由を、お前が知るはずもないのにな」

 ブラスは答える代わりに、大きく伸びをした。休みは終わりだとばかりに。

 「え、もう行くのか?」

 猫はすっと立ち上がり、入り口のほうへ向かう。

 エディンは席を立ち、深く息をつく。
 胸の痛みはまだ残っている。
 けれど、それはどこか澄んだ痛みだった。

 ブラスは扉の前に座り、じっとドアノブを見ている。猫が“開けろ”という時のポーズ。

 それなのに、この不思議な夜のせいか、エディンには“行くなら今だ”と急かされているように思えてしまった。

 「はいはい。ついて行けばいいだろ、ブラス」

 エディンは鍵をポケットに戻し、カフェを出た。
 駅舎の冷たい空気の中で、エディンの息が白く漂う。

 二つの影は、霧の中へ歩いて行った。