通路を進むほどに霧はさらに深くなり、ガス灯の灯りは乳白色の膜に吸い込まれながら揺れていた。
 エディンの足音が、石畳の表面で吸い込まれるように響く。

 黒猫はエディンを気にも留めないふうで、尾をぴんと立てて気の向くままに歩いていく。
 その真鍮色の羽飾りだけが、霧の中で確かな光を放っていた。
 エディンは、気がつけば猫の後ろを歩いていた。

 ……何かが、奇妙だった。

 足音が、自分のすぐ後ろから聞こえた。
 ほんの半歩遅れて、誰かが同じ調子で歩いてくるような。
 振り返っても、霧がゆらめくだけだった。

 胸の奥がわずかにざわつくが、通路の反響だろうと思いなおして先に進む。

 通路を抜けた先は、見慣れた街路のはずだった。
 けれど、そこに広がっていたのは、どこか違うような場所だった。
 建物の形は同じはずなのに、窓の高さが違う。ガス灯の位置が、記憶よりほんの少し手前にある。
 エディンは足を止めて、周りを見回す。

 街灯は柔らかなオレンジ色の円を描き、でも周囲はほんのりと白く明るく。まるで霧が光っているようだった。
 濡れていないはずの石畳が淡く光を返し、踏みしめるたびに小さなきらめきが揺れる。
 「……夢でも見ているのか?」

 思わずこぼれた声に応えるものはなく、霧がゆっくり揺れただけだった。

 黒猫は一度立ち止まり、そちらに耳を向けていた。
 横から見えた金色の瞳は、さっきまでよりどこか深い色を帯びていた。

     * 

 しばらく進むと、一軒の古い時計屋にたどり着いた。
 黒猫は時計屋の前で足を止め、ショーウィンドウを見上げている。

 閉店して久しく、曇ったガラスの向こうに埃をかぶった振り子や歯車が積み上げられているはずだった。
 だが今は、ガラスは淡く光り、ショーウィンドウの内側で小さな振り子時計が無数に揺れていた。

 エディンは気がつけば、ポケットの懐中時計を握っていた。壊れたままの懐中時計。
 直そうとも思わず、いや、その発想すらないまま過ごしてきたことに、ようやく思い至る。

 コチリ、カチリ、と規則正しい音が、霧の中に吸い込まれていく。

「……なんでだ?」

 口に出した瞬間、胸の奥がわずかに沈む。
 ……見たく、なかっただけなのか。
 この考えが脳裏をかすめ、帽子の庇を指先で押し下げようとして、無くなっていることに気が付いた。

「あれ?」

 そのまま頭を触っても、影も形もない。どこかで落としたのだろう。
 周囲を見回してもそれらしき影はなく、ため息を一つついて諦めることにした。

 黒猫が店の影からひょいと顔を出し、尻尾は地面をトントンと叩く。
 まるで「まだ先がある」と告げるように──いや、ただ機嫌が悪いだけかもしれない。

     *

 エディンたちは、霧の中を進んだ。
 通りを抜けると石造りのアーチ橋があった。昼間は何度も渡った橋だ。
 しかし今夜の欄干は霧の粒をまとってほのかに輝き、橋の向こう側は淡くぼやけている。
 猫は欄干へ軽々と飛び乗り、細い縁を渡っていく。

 橋下から、かすかな汽笛が聞こえた。
 エディンも橋の中央へ向かう。

 足元の霧の奥から聞こえたはずだが、下に広がる運河は、霧に覆われてほとんど見えない。
 エディンは、かすかな痛みのようなものを覚えた。
 それが何なのか、自分でもよくわからなかった。
 その音に導かれるように、足は自然と前へ出た。

 黒猫はいつのまにか欄干から降り、また道の中央を歩いている。
 まるで自分が道の主であるとでも言いたげで、エディンは少し面白くなった。

     *

 広場に出ると、霧の向こうに鉄製の塔が立っていた。
 昼間はただの監視塔だったはずなのに、今は、塔の上部がねじまがり、影の中でひび割れたように見えた。油の焼けるような匂いが漂ってくる。

 エディンは胸の奥に、微かなざらつきを感じた。
 見てはいけないものに触れたような感覚。
 修理の手順が、ほんの一瞬だけ脳裏に浮かんだ。それを振り払うように、頭を振る。

 猫は塔を一瞥すると、興味を失ったかのように、向かいの通りへ走り出す。
 その先は、いつもの帰り道のはずなのに、霧がその姿を隠していた。

 エディンは気づけば、猫と同じ方へ歩いていた。