連絡橋を渡り、駅前の喧騒はすっかり背後に沈んだ。
 霧はゆっくりと密度を増し、ガス灯の光はかすかな輪郭だけを残している。
 エディンは自分の足音が、いつもより小さく聞こえることに気づいた。まるで吸い込まれるように。

 黒猫は、石畳をすべらせるように歩いていた。
 尾をまっすぐ立て、エディンがついてくるかを確かめるようにわずかに揺らす。
 その仕草は、案内とも挑発ともつかない、奇妙な落ち着きがあった。
 エディンは小さくため息をつく。

 猫は時々、耳をピクリと動かし、立ち止まるとエディンを振り返る。ただ見ているのはもっと遠くのようだった。
 霧の白に、金色の瞳が淡く溶け込んでいた。
 エディンは胸の奥がかすかにざわつくのを覚えた。

 「……返してほしいんだけどな」
 鍵がないのは困る、と言い添えたつもりだったが、声は霧に吸われて頼りなかった。
 猫は応えず、尻尾をゆっくりと左右に振って、また歩き出した。

 通りの先には、古びたアーチ型の橋があった。
 昼間にも何度か通ったことがあるはずなのに、今夜の橋はまるで別物のように見えた。
 その奇妙な感覚に、エディンの足が止まった。

 鉄製の骨組みに霧がたまり、ガス灯の光が淡い筋を描いている。
 猫はそのアーチをくぐり抜け、影の中に消えた。

 エディンは立ち止まり、ゆっくりと息を吸った。
 霧の湿った冷たさが喉に張りつく。
 (本当に追いかけるのか?)
 大家に頭を下げれば、鍵は開けてもらえるだろう。
 そうして帰れば、いつもの部屋が待っている。暗くて、冷えていて、誰もいない夜。
 工具を片付け、固くなったパンをかじり、ランプを頼り眠る。
 何度も繰り返してきた夜だ。
 そうするべきだ、と思う。明日も仕事があるのだから。

 ふと、学生時代の、灯りのともった寮の部屋が浮かぶ。
 「エディ、起きてるか」と扉を叩く声。
 夜更けまで物語を書き、仲間と読み合った記憶。
 机の上のノートに綴った、未完成の物語。
 エディンは、無意識に懐中時計を握りしめていた。

 そのときようやく、自分が“帰りたくない”と思っていたことに気がついた。
 その事実に、自分でも少し驚く。

 金色の瞳が、橋の影から静かにエディンを見ていた。
 エディンは一瞬、胸の中を読まれたような気がして目をそらした。
 だがすぐに、気のせいだと首を振った。猫にはよくあることだ。

 エディンは決断もなく歩き出した。足は自然に前へ向かった。

     *

 橋を抜けると、通りはさらに静まり返っていた。
 かつては鍛冶屋の工房が並んでいた一角だが、今はほとんどが閉じている。今夜の通りは、霧に包まれた廃墟のようだった。
 けれど、その静けさは、エディンにとっては不思議と耳に優しかった。

 黒猫は、古い街灯の根元に座っていた。
 エディンが近づくと、咥えていた鍵をコトリと落とした。
 取り返せる――そう思った瞬間、猫は素早く咥え直し、横目でこちらを見る。
 まるで「ついてくるだろう?」とでもいうように。

 当惑したエディンは、うっかり語りかける。
 「……からかってるのか?」
 猫は目を細めると尻尾を微かに揺らし、くるりと反転して走り出す。

 エディンは思わず追った。
 霧を切る音、石畳を踏む靴底の感触。呼吸が白く流れて行く。
 すべてが、いつもより鮮明だった。

 路地の出口に、広く開けた一角がある。
 数年前に建てられたばかりのガラス張りの駅舎――その裏手にある貨物エリアだ。
 夜には貨物の荷下ろしが行われる場所だが、今夜は人影もなく、ランタンは妙に柔らかく光っていた。
 エディンは足を踏み入れるのを一瞬躊躇した。あまり一般人が入っていいところではない。

 猫はその真ん中を、ゆっくりと歩いた。
 迷いのない、堂々とした足取り。
 光が猫の体をなぞり、真鍮色の羽飾りをふわりと浮かび上がらせる。
 これほど霧が濃いのに、その飾りだけは輪郭がはっきりしていた。
 エディンは息を呑んだ。

 (最初から、つけていたか……?)
 そんな疑問が生まれたが、すぐ霧に溶けて消えた。

 猫は貨物車両の影、そのわずかな隙間に潜り込み、姿を消す。

 エディンはためらいながらも後に続く。
 しゃがんでやっと、という狭い隙間を潜り抜けると、開けた場所に出た。
 昼間は雑多な荷が積まれ、作業員が忙しなく行き交う裏通りだ。
 だが今は、霧とガス灯の光が混ざりあい、まるで別世界のように静かだった。

 猫は、貨物ホームの端にある古い階段の下で待っていた。
 エディンが近づくと、猫はもう一度鍵を地面に落とす。
 今度は拾おうとしない。
 ただじっとエディンを見つめている。

 その瞳に、なぜか「ついてこい」と言われた気がした。

 エディンは膝を折り、鍵を拾い上げる。
 真鍮でできた鍵は冷たかった。しかし、その重みはやけに確かだった。
 霧の中で見失っていた“現実”の印のように感じられた。

 「……返してくれた、のか?」
 猫は何も答えない。
 ただ、ゆっくりと、階段を上がっていく。

 エディンは鍵を握りしめた。
 これをもって引き返せば、部屋に帰れるだろうと思った。根拠はないが、なぜか確信がある。
 現実を見れば、引き返す理由は山ほどあるのに、進む理由は一つもなかった。
 そうすれば、いつも通りの夜だ。

 エディンは鍵を一瞥する。なんの変哲もない、真鍮の鍵。
 それをポケットに戻すと、猫の後を追った。

 階段の上には、見覚えのある古い煉瓦の通路が続いていた。
 昼間は誰も使わなくなった連絡通路――しかし今は、ガス灯がひとつだけ灯っている。 それを頼りに、エディンは先へ進む。

 霧の中に、小さな灯りが浮かび上がっている。

 猫はその下で毛づくろいをしていた。耳だけがエディンの方を向いている。
 通路の奥から、微かな汽笛のような音が響き、エディンは息を飲んだ。