その夜、街は深い霧に包まれていた。
 汽笛が鳴る。最後の汽車が、煙を噴き上げながら駅に滑り込む。
 白い霧がホームの高い屋根までを満たし、石炭と油の灼ける匂いが重く漂っていた。

 清掃員たちは慣れた手つきで散らかった瓶や新聞を拾い集め、足元にすり寄ってくる猫を追い払っている。
 売店はすでに片付けに入っており、酔客を警備員が淡々とあしらっていた。
 壁には真鍮製の蒸気管が張り巡らされ、時折白い蒸気を吹き出す。
 ガス灯のオレンジ色の光がそれらを照らし、街の一日がゆっくりと終わっていく。

 汽笛の余韻が消えるころ、遠くで馬車の蹄が石畳を叩く音が響いた。
 もう客もまばらなホームに、ひとりの質素な身なりの青年が下車した。

 青年は深く帽子を被り、黒い外套に身を包んでいた。上等だがくたびれた手袋をはめ、手には小さな鞄を提げている。霧が肌にまとわりつくと、彼は無意識に肩をすくめた。

 ホームに漂っている甘いアルコールの香りが、青年の空腹と孤独を呼び覚ました。
 最後に誰かと食事をしたのは、いつだったか。
 エディ、と呼ぶ声が、ふいに懐かしくなった。
 もう何年も前のことだ。今ではもう誰もそう呼ばない。

 エディンの目に、猫たちがホームの真ん中で毛づくろいしているのが映る。いつも清掃員にまとわりついていた猫たちだろう。
 エディンはふと立ち止まり、一匹に視線を落とす。

 ――寄って来ないでくれよ。今の俺は、優しくできる余裕がない。

 心の中でそう呟きながら、彼は重い足でそっと歩幅をずらして猫たちのわきを通る。
 猫はちらりと彼を見たが、興味を失ったようにまた毛づくろいに戻った。

 エディンは自分の胸の奥に浮いた微かな痛みを押しつぶすように、ポケットに手を入れて歩き出す。
 指先で壊れた懐中時計を無意識に探った。蓋は少し曲がり、内部の針は止まったままになっている。
 その針を思い出すと、自分もどこかでよどんでしまっているような気がした。

 改札を抜けるとエディンは夜風の冷たさに、無意識に時計を握りしめる。
 触れたかったのは、これではなかった気もするが、自分でもよく分からなかった。
 駅前のガス灯が揺れ、霧の中を馬車がいくつか通り抜けていく。車輪の音はすぐに湿った空気に溶けていった。

 駅前広場では、夜食売りの屋台から甘く焦げた匂いが漂っていた。
 エディンは足を一度止めたが、手を伸ばすほどの気力は、湧かなかった。
 「どうせ、腹に入れるだけだ」
 言葉に出さない、その小さなつぶやきが、また彼の足をさらに沈ませる。

 エディンは鞄の重さを確かめながら歩き出す。鞄の中には、今日使った蒸気技師の工具が触れ合い、金属が乾いた音が小さく鳴った。
 設計も整備も、嫌いではなかった。ただ、毎日そればかりをするのは、何かが削れていくようだった。

 賑やかな酒場の前を通ると、笑い声や歌声、グラスがぶつかる音が漏れてくる。
 エディンには、まるで違う世界のもののように聞こえた。
 かつて学生寮で仲間たちと語り合った夜。夢だけで満たされた、あの頃。
 だが皆、それぞれの現実へ散り散りになった。
 あの夜はもう戻らないことくらいは分かっていた。

 ガス灯の光が揺れると、エディンは帽子の庇を指先で押し下げた。

 アパートの鍵を取り出そうとしてポケットを探る。懐中時計の冷たさ、しまい忘れたネジ、そして鍵を手にして、扉を開けようとして。
 ふと動きが止まる。なぜか扉を開けるのを、ひどく億劫に感じる自分がいた。

そうして。
気が付けば足元に猫がいた。
夜に溶け込むような黒い毛並み。丸みを帯びた体つき。背中には、小さな真鍮色の羽飾り。

「にゃあ」
と鳴いて、足元にまとわりついてくる。

いつもなら、かまってやれたかもしれない。今日はそんな気分にもなれなかった。
「……ごめんな、何もないんだ」

謝って、鍵を開けようとして。
「にゃっ」伸び上がった黒猫の手が、鍵をはたき落とした。

 乾いた音を立てて石畳の上に鍵が跳ね、霧の中へ転がる。

 拾おうとして一歩踏み出そうとしたとき、猫はすでにエディンの真鍮の鍵を咥えているのが見えた。
 「……おい、それ返してくれ」
 猫に言葉が分かるわけはないのに、思わず話しかけていた。

 声をかけても、猫は気にする様子もなく、尻尾をゆらり揺らす。
 ひげも耳も、ぴんとこちらに向けて、エディンの様子をうかがっている。

 エディンは鞄をそっと玄関前に置き、扉を確かめるように、ちらりと見た。
 それから数歩、猫の方へ歩み寄る。
 すると猫は数歩遠のく。

 それからも、エディンが距離を詰めようとすると、黒猫はどこかへ歩いて行った。
 猫は一定の距離を保つように、ゆっくりとした足取りで進んでいく。

 エディンは息をつき、足を早める。追いかけているというより、視線が自然と引き寄せられるようだった。

 気が付けば裏通りを抜けていた。
 ガラス張りのアーケードがぼんやりと霧に浮かび上がる。
 時折、どこかで「シュー」と蒸気を吹き出す音が聞こえる。

 猫を見失いそうになりながら、エディンはその真鍮色の羽飾りを追いかけた。

 駅前のざわめきを通り抜け、霧はさらに濃くなった。ガス灯の光が淡い輪郭を残す。
 猫は時折振り返り、瞳が霧の中で金色に揺れた。

 (どうする?)
 アパートへ帰って、部屋でパンをかじって寝るのか。
 それとも――。

 猫が再び先へ歩き出したとき、エディンの足は自然とそちらへ向いていた。

 気づけば、駅前の広場はもう見えない。
 霧は深まり、街灯の光を柔らかく飲み込んでいく。
 馬車の音も、酒場の笑い声も、遠い記憶のようにぼやけた。

 エディンは、帽子を指先で押し下げると、頭を振って猫を探した。

 猫は、連絡橋のガス灯の下で立ち止まり、くるりと振り向いた。
 その仕草は、まるで――気まぐれに遊んでやるだけだと言わんばかりだった。
 その金色の瞳が、今度ははっきりと光った気がした。

 エディンは言葉を失った。
 なぜ追いかけているのか、自分でも説明できない。ただ、視線をそらすことだけができなかった。

 「……待ってくれ」
 声をかけると、猫は小さく喉を鳴らしたように見えた。次の瞬間、霧がふわりと流れ、二つの影が歩き出した。