「……美魚!」

 まさか、今一番会いたいと思っていた人物が目の前にいるとは思わず、僕の思考は一瞬固まってしまった。

「かいくん!」
「奥村?」
「天川くん……? どうして……美魚と?」
「ああ、それは……。この子がパパの病室に戻れないって言ってたから連れて行こうと思って。そっか。みおちゃんの言ってた『かいくん』って、奥村のことだったか」
「うん、かいくん」
「天川くんはどうして」
「……この話、長くなると思うし、お母さんも心配してるだろうから先に戻ろう?」
「分かった。美魚、行こう」
「うん」

 動揺を隠しながら、僕は美魚の手を取り引いていく。嬉しそうに僕の手を握る小さなてのひらは温かかった。
 こういうときにしか兄としていられない僕を許してほしいという小さな謝罪を込めて、彼女の手を優しく握り返した。


 美魚を両親のもとへ送り届けると、突然天川くんが僕の手を取った。

「すみません、息子さんをお借りしてもいいですか?」
「え?」

 急なことに頭が追いつかないまま手を引かれて向かった先は、天川くんの病室だった。

「ちょ、ちょっと。痛いよ!」
「うん。ごめん」
「ごめんじゃなくて……。ていうかここどこ」
「ん? ここは俺の病室。個室だから安心していいよ。じゃあ、ここに座って」
「……なんで?」

「帰りたいんだけど」と言いつつ、渋々天川くんに勧められた椅子に座る。天川くんは僕が座ったことを確認すると、目の前に立膝を付いて僕の手を優しく包むように握った。本当に、僕は今何をされているのだろう。

「もう大丈夫だよ。ここには、奥村の恐いものなんて何もないよ。だから……もう気を張らなくていいよ(・・・・・・・・・・・・)

 その言葉を聞いた瞬間、気道が(せば)まる感覚に襲われた。
 僕は息を整えようと、必死に浅くなる呼吸をどうにか止めようとした。あまりにも唐突に来たものだから、どう対処すればいいのか分からなかった。ただ天川くんは献身的に僕の背中をずっと摩ってくれた。それだけでも呼吸がしやすくなった気がした。

「……奥村? ――なあ、頼むから……入院してる俺より、病人みたいな顔色、するなよ」

 数分間の、短くも長い戦いだった。
 もう僕の意識は世界から手放されている。天川くんの言葉は水面の中でぼんやりと反響するように、微睡みの中に溶けていった。
 時刻は、夕方五時を過ぎようとしていた。


 懐かしい夢を見た。
 それはまだ母さんが生きていたころの(・・・・・・・・)、夢というより、記憶。
 僕にとってこの記憶は最も大事にしているもので、母さんの笑顔が唯一見られる時間だった。
 だけど、そんな幸せは一瞬で泡となって消える。
 その瞬間、僕の足場は大きな影となって、僕を闇へと誘うのだ。


「――っ! ……はっ、はぁ……はあ……」

 僕は夢から覚めた。けれど、覚めた先は自分の部屋ではなく知らない白い部屋で、天井が妙に高かった。

「あ、起きた」

 それは以前にも聞いたフレーズ。声のした方へ視線を横に向けると、天川くんが僕が先ほどまで座って――座らされて――いたはずの椅子に座って本を読んでいた。そして僕は、彼の寝るべき場所であるベッドに何故か寝ていた。

「な、んで」
「奥村さ、本気で内科とか受診したら? マジで焦るから」
「ごめん……じゃなくて。どうして僕がこっちで寝てるの。ていうか今何時……」
「奥村が寝てから二十分も経ってないよ。……」

 天川くんが急に黙ってしまった。沈黙が痛い。
 天川くんは何かに怒っているような表情をしていて、僕は自然と委縮してしまう。

「……なあ、ひとつ確認していいか?」
「なに……」
「虐待、とか。そういうのされてたりしないよな?」
「は?」

 ……ああ、そういうことか。少し逡巡した後、なんとなく天川くんの想像していることが分かった。どうやら天川くんは、僕が倒れた原因が両親にあるのではないかと推測したらしい。
 僕は「そんなことない」と強めに否定した。

「……今日のは多分……父さんが原因、かも」
「お父さん?」

 うん、と僕が俯くと、彼の怒っていた表情が心配な表情に変わる。そして僕の側へ来てベッドに腰を掛けた。天川くんが聞く姿勢を取ったので、僕は話を切り出す。

「……事故に遭ったって、お母さんから聞いて。急に怖くなって……母さんと、同じになったら、どうしようって…………。怪我が酷くて、もしそのまま死んでしまったらって……それで、元気な父さん、見たら、急に力が抜けたんだと思う……」

 たどたどしい口調ではあったけれど、天川くんは最後まで僕の話を聞いてくれた。
 やっぱり、彼は優しい。その優しさに、溺れそうになる。
「え、ちょっと待って、」と天川くんが僕の目の前に右掌を出す。僕は思わず「えっ」と息を詰まらせた。

「お母さん? 母さん? ん?」

 あ、と僕は彼に母親のことを説明していないことを思い出した。

「今日病室にいたお母さん、えと、由子さん(・・・・)は父さんの再婚相手。母さんは僕の本当の母親。呼び方が違うのは、由子さんのことを母さんって呼び慣れていないからで……」
「ごめん!」
「……え?」

 天川くんが急に自分の両耳を自分の両手で塞ぎ始めた。かなり強く塞いでいたので少し痛そうだ。同時に目をぎゅっと瞑っていたので、それが少しだけ面白かった。

「いやっ、聞いちゃいけない話だと思って。配慮が足りなかった!」
「……大丈夫だよ。別に、六年も前の話だし」
「それでも! それでも……大切な、思い出じゃんか……」

 天川くんは何故か譲らなかった。僕はそんな彼のことを見て、ふと、この間見た写真のことを思い出す。

「そういえば、この間家に行った時に見えちゃったんだけど、携帯の写真……子供がふたり写ってるやつ」
「ん? ……ああ、これのこと?」

 そういって天川くんがこの間見た写真を携帯に出してくれる。
 ああ、やっぱり。見間違いではなかった。

「うん。この真ん中に写ってる人、僕の母さんだ」
「――え」

 その瞬間、天川くんが口元を右手で覆った。いったいどうしたのだろうか。もしかして気分でも悪くなってしまったのだろうか。だとすれば――すぐに今いるベッドの上からどいて彼を寝かせなければ。
 僕が動こうとした時、天川くんが覆っていない左手で僕の左手首を掴んだ。ゆっくりと彼の顔を見ると、ほんのりと赤く染まっていた。

「……天川くん?」
「……いや……まさか、とは思ってたけど……」
「?」

 いつもはっきりと物を言う天川くんが、珍しく言葉に詰まっている。

「……俺の初恋のひと、なんだよ……。奥村(・・)美里先生(・・・・)……」

 僕は何故あの時、写っていた母さんと、天川くんの胸にあった傷に意識を持っていかれてしまったのか。
 あの時、写真の中に写る男の子が天川くんの幼少期なのではないかと、察することができなかったのか。
 少しだけ悔しくなったのは、言わないでおこう。