「松木さん、それお願い!」

私が返事をする間もなく、机の上にファイルを置かれ先輩が去っていく。今日も残業決定だ。

昔からなにかと人に頼まれることが多い。それに高額なものを押し売りされたり、お気に入りのものを譲って欲しいと言われて半ば強引に取られたり、他人のミスを私の責任にされることもあった。

都合よく扱われ、押しつけられ、信用していた人からは呆気なく騙されて、気づけばいつだって損をしている。

ちゃんと断れないのも悪い。周りからは何度もそう言われた。
引き受けてしまう私にも原因があるのはわかっている。だけど、私は断るというのが苦手なのだ。

相手のガッカリした顔を見るのが怖い。だから複雑な気持ちをぐっと飲み込んで引き受けてしまう。

おまけに運も悪く、新品のものはすぐに壊れ、カフェオレを買ったのにミルクが入っていないことや、外を歩けば鳥のフンが頭に落ちてきたことも何度もある。いいことなんてほとんどない。せっかく採用された会社も、いざ働いてみると色々押しつけられてしんどい日々が続いている。

今日も終電ギリギリの帰宅になってしまった。
お腹が空いているのにコンビニに寄る気力もなくて、ふらふらとした足取りで家路を辿る。アパートの前まで着くと、「ニャー」と声が聞こえた。

電柱のすぐそばに灰色の猫が横たわっている。眠っているのではなく、明らかに元気がない様子だった。寒さのせいで弱っているのかもしれない。
この時間では近所の動物病院は開いていないだろう。私にできることなんてないとわかっていても見て見ぬふりができず、猫にそっと手を伸ばす。
すると、私の手に鼻をツンツンとくっつけてくる。野良猫なので警戒されるかと思ったけれど、人懐っこそうだ。


「……うちに来る?」
一晩様子を見て、元気になったら外に返してあげよう。もしも体調が良くならなかったら、動物病院に連れて行く。その時間が私に取れるかが問題だけど、そこはなんとか上司にお願いして早退をするしかない。

灰色の野良猫を抱えながら、私はアパートの階段をのぼる。二○一号室の扉に鍵を差し込んで、真っ暗な部屋の中に足を進めた。

電気をつけて、部屋のベッドの上に置いてあったブランケットで猫を包む。温まって元気になるといいのだけれど、動物を飼ったことがない私には他に何をするべきか思いつかない。とりあえず水でも用意しておいてあげるべきだろうか。
手洗いをしてから、醤油皿にお水を入れて猫のそばに置いておいた。

こたつのスイッチを入れて、私はほっと息をつく。築四十年のアパートに住むこと一年。狭いワンルームも住み慣れれば落ち着く空間になっていた。

お腹も空いたし、お風呂にも入らなければいけない。けれど、足先がじんわりとこたつの熱で温かくなって眠気が襲ってくる。
頭が揺れて、そのまま床に寝そべると、意識が遠のいていった。




「起きなさい」
頬に柔らかいなにかが当たる。ふわふわしていてなんだか心地いい。

「起きなさい!」
頬にピリッと痛みが走る。驚いて飛び起きると辺りを見回す。誰かの声が聞こえた気がするけれど、部屋の中には私以外誰もいない。夢を見ていたのかもしれない。けれど、頬の痛みは鮮明に残っていて不思議な気分だった。

「助けてくれたことには感謝しているわ」
再び声が聞こえてきて、視線を向けるとそこには灰色の猫がいた。私がさっき家に連れてきた猫だ。どうやら動き回れるほど回復したらしい。

それよりも、今の声はなんだろう。まだ寝ぼけているのだろうか。


「なにか食べ物をよこしなさい」
「え?」

私は目を瞬かせる。猫はじっと私を見つめながら、フンッと鼻を鳴らした。見下ろしているのに見下ろされている気分だった。

「……猫が喋った?」
いやいや、ありえない。相当疲れが溜まっているみたいだ。早くお風呂に入って寝よう。今の私には睡眠が必要だ。

「聞いているの? 人間」
「お、お風呂……早くお風呂に……」
「わたくしを無視する気! 生意気ね!」

猫がふわふわな肉球でペシっと私の手を叩いてくる。

「ひいっ!」

驚きのあまり私は青ざめながら、こたつを出て猫から距離をとった。
猫が喋っていると思うほど、私には限界がきている。一刻も早くこの幻覚から逃れるために、頬を勢いよく叩いた。けれど、状況はなにも変わらない。

「……あなた、他人の不幸を吸い取る体質ね」
猫が金色の目を細めて、私を観察してくる。

「ふ、不幸を吸い取る?」
「憐れな体質だわ。あなたは人よりも多くの不幸を経験するでしょうね」

猫が喋るなんて妄想に決まっているのに、耳を傾けてしまう。多くの不幸を経験するという言葉に、思い当たることがありすぎる。

「放っておくと、このまま一生不幸だわ」
「そんなこと言われてもどうしたら……お祓いでもいけってこと?」

生まれつき霊感もないし、目に見えないものは信じないタイプだ。だけど藁にもすがる思いでお祓いを受けたほうがいいのだろうか。
すると、猫がふふんと笑った。

「わたくしがその不幸、祓ってあげてもいいわよ」
「え……猫がお祓い?」
「まあ! 失礼ね。わたくしは元神よ。……今は猫の形を保つのが精一杯だけど」

話がよく分からず首を傾げると、猫が得意げに自分語りを始める。
この近くの小さな神社の神様で、昔は最も美しい神として神様の世界でも有名だったそうだ。

「あなたみたいな人間には、わたくしの力が必要でしょう」
「でも元って言ってたけど……」
「それは……信仰する者がいなくなったからよ! 神は人に信仰されなければ、神落ちをしてしまうの」

時代が流れ、信仰する者がいなくなったことによって神社は廃れ、神様を名乗れなくなったらしい。そして住処を失い、力も弱まったことによって小動物の姿にしかなれないのだと言う。

「それでもわたくしはまだ神力を持っているわ。あなたの不幸くらいこの手でパッと祓えるもの」

桜色の肉球をこちらに見せながら「ただし!」と猫が声を上げる。

「供物をよこしなさい」
「……供物?」
「ごはんよ、ご・は・ん!」
「お腹空くんだ」とぽつりと漏らす。
まだ全てを信じたわけではないし、私のただの妄想の可能性だって捨てきれない。けれどもしもこれが現実だとしたら、目の前にいる元神様の力で私の不幸は消えるかもしれない。

「神力を使うには食べ物の気が必要なのよ。さあ、人間! わたくしにごはんをよこしなさい!」
早く早くとじたばたしている猫は、とても神様には見えない。ただかわいく猫が暴れている。

「キャットフードなんてうちにはないし……コンビニに売ってるかな」
「わたくしはキャットフードなんて食べないわよ! あなたが普段食べているごはんをよこしなさい!」
「ごはんって言っても……冷蔵庫に食材なんてほとんどないし……大したもの作れないよ」
「いいから早く作りなさい! わたくしは空腹なの」

家の中にある食材を思い浮かべながら、作れるものを考えてみる。
冷凍した白米はあるけれど、肝心のおかずがない。ごはんに合いそうなものといえば、卵や塩昆布、海苔だけど、それも切らしている。

「あ……大葉」
私はベランダの窓を開けて、育てていた大葉を五枚ほど千切った。おばあちゃんから貰った苗を大事に育ててきてよかった。これがあれば、ごはんにぴったりなものがすぐに作れる。

「そんな葉っぱをわたくしに食べさせる気?」
「調理をしたら美味しいから、ちょっとだけ待ってて」

妄想でもなんでもいい。頭に浮かべたら食べたくてたまらなくなってきた。
猫の分とついでに私のごはんも作ろう。

冷凍庫にある白米を取り出して、電子レンジで解凍する。その間に大葉を水で洗って、キッチンペーパーで水気をしっかり拭き取った。
フライパンにごま油を大さじ二杯入れて温める。火が通り温度が上がったところで、大葉を一枚ずつフライパンに敷く。

「その葉っぱでなにをしているの!」
猫は気になるのかぴょんぴょんとジャンプして見ようとしている。


「油で揚げてパリパリにするんだよ」



大葉に細かい皺ができて硬くなったところで菜箸を使ってキッチンペーパーの上に置く。油を軽く切って、その上に塩を振りかける。
解凍された白米をふたつのお茶碗に盛りつけて、その上に揚げた大葉をのせた。


「完成!」
「……それは本当に食べ物なの?」
疑わしげな目で私を見る猫に、にこっと微笑みかける。

「食べたらおいしくて驚くよ」
こたつに入って、お茶碗とお箸をテーブルに並べた。そういえば猫ってどうやってごはんを食べるんだろう。

「人間、早く食べさせなさい」
「え、私が?」
「当たり前でしょう。ほら、早く。その葉っぱをよこしなさい」
私はお箸で大葉を持つと、猫の口元に近づける。小さい口で猫がぱくりと大葉の葉っぱをかじった。

すると、猫が目を大きく見開いて輝かせた。

「なっ、なにこのサクサク感と香ばしさ! 塩気も効いていてお米とあうわ! 早く、この味が残っている間にお米を!」

言われたとおり、一口分の白米を猫に食べさせる。猫はうっとりとした表情でごはんを堪能しているようだった。

「葉っぱがこんなにおいしいなんて」
猫が白米を咀嚼している間に、私も自分の分の大葉を一口かじる。
ごま油の香ばしい風味とほどよい塩気。そしてパリッとした大葉の食感がたまらない。まるで韓国海苔のようだ。

「……おいしい」
言葉とともに涙がこぼれ落ちた。
ここ最近は自炊する心の余裕もなかったし、なにかを食べておいしいと感じることもなかった。空っぽの胃がじんわりと暖かくなる。
日常に疲れ切って消えたいって思うことは何度もあった。だけど、今この瞬間、ここにいることができてよかったと心の底から思う。食べるって幸せだ。

「人間! 次をよこしなさい!」
催促されて、私は猫に大葉と白米を食べさせる。

「ご飯粒ついてるよ」
猫の口元についた米粒を取ると、その指先を猫が舌で舐めて米粒を食べた。それがくすぐったくて、自然と笑みが溢れる。

「褒美に不幸を祓ってあげるわ。こっちに顔を近づけてなさい」
猫に顔を近づけると、鼻先にちゅっと口づけられる。すると、体からなにかが引きずり出されるような不思議な感覚がした。

「これで明日は少しだけ不幸ではなくなるわ」
「え……少しだけ!?」
「あなたのその不幸は一度では祓いきれないもの」
それほど不幸度が高いのかと、血の気が引いていく。
つまりどこかでお祓いをしてもらうとしても、一度では足りないということだ。いったいどのくらいお祓いをしたら私の不幸度は普通の人と同じくらいになるのだろうか。

「安心しなさい。このわたくしがついているのだもの。あなたの不幸、ごはんをもらう代わりに祓ってあげるわ」
「それってまさか……うちに住むってこと?」

塩がついた口の周りを舌でぺろりと舐めた猫が「ありがたく思いなさい」と言ってくる。祓ってもらえるのはありがたいけれど、衣食住をこのお喋り猫(自称元神様)とともにするということだ。

「食事を終えたら、次は体を清めるわよ。さあ、お湯でわたくしを綺麗にしなさい」
「お、お風呂まで!?」
「あら、この汚れた体のまま布団で眠ってもいいのかしら」
「それは困るけど……」

お風呂に入った後は私のベッドで寝るつもりのようで、猫のわがままに振り回される未来しか想像がつかない。

「不幸を減らす対価だもの。文句はないでしょう? 早くわたくしを抱きかかえなさい!」
「う……はい」

食器を流しに片づけて、猫を抱きかかえる。温かくてふわふわで抱き心地がいい。顔を猫の頭に埋めると、猫パンチが飛んできた。

「無礼者! そのようなことは許可してないわよ!」
「……くさい」
外にいたせいか、猫からはなんともいえない臭いが漂っている。

「な、なんですって! よくもわたくしをくさいなんて言ったわね!」
「わ、暴れないで。危ないよ! 洗ったらいい匂いになるから、落ち着いて」
「落ち着けですって? 生意気ね! わたくしを誰だと思っているの!」
「わかった、わかったから」

猫を宥めながら、お風呂場に連れていくとシャワーをかけてボディーソープをつけて泡立てる。厳密にいうと猫もどきなので人間用のボディーソープでも大丈夫だろう。

「なんて失礼なのかしら!」
毛を泡立てていると、猫がぎゃーぎゃー騒いでいる。私の発言を根に持っているみたいだ。

「待ちなさい! そこは洗わなくていいわ! ひっ!」

肉球の間を洗うと、くすぐったいのかやめろと猫が暴れ出す。
洗えと言ったり、洗うなと言ったり、忙しい猫だ。

わがままに付き合いながらなんとか猫を洗い終わる。私は猫が暴れたせいで服がびしょ濡れだった。

「乾かしなさい」
「え」
「知っているわよ。人間には毛を乾かすものがあるのでしょう。それでわたくしを乾かしなさい」

私だって早くお風呂に入りたいのに、猫は譲る気がなさそうだ。仕方がないので、ドライヤーをコンセントにさして乾かす。

「ふうん、まあまあね」

温風を浴びながら猫は満足げにしている。どうやらドライヤーには文句はないようだ。
念入りに毛を乾かしていると、温かくなって眠くなったのか猫が目を瞑ったままゆらゆらと揺れはじめた。ドライヤーを切って、私は猫を抱きかかえる。すやすやと寝息を立てていて、起きる気配がない。

ブランケットの上に猫を寝かせて、私はそっと息をつく。
眠っていたらかわいいのに。

明日の朝もこの猫はきっとごはんを要求してくるだろう。
少ない食材でなにを作ろう。大葉を気に入ってくれたのなら、大葉味噌を作ってみるのもいいかもしれない。白米とも合うので口うるさい猫も喜びそうだ。
そんなことを考えていると、気分がふわりと浮上する。

いつも眠ったあと朝が来ることが怖かった。朝が来たら会社に行かなければならないから。
でも今は明日が楽しみになる。


さ、早くお風呂に入って布団で眠ろう。
明日はほんの少し不幸がなくなることを願いながら。





こうして私と猫(自称元神様)の共同生活がはじまったのであった。






【猫にごはん】完



<白米に合う!パリパリ大葉のレシピ>
大葉  5枚
ごま油 大さじ2
塩   少々

①大葉を水で洗い、キッチンペーパーで水気をしっかり拭き取る
②フライパンにごま油を入れて、中火で温める
③ごま油に火が通ったタイミングで①を②に入れ、両面を揚げてパリパリになったらキッチンペーパーの上に移して余分な油を吸い取る
④揚げた大葉に塩を振りかけて、完成!